九章『心を伝えた朝』
春が来た。
冬の間、澪は待ちながら自分の気持ちを何度も確かめた。確かめるたびに、同じ答えが返ってきた。誠でなければならない、という答えが。
その繰り返しの中で、澪の中にあったものが少しずつ変わっていった。変わったというよりも、整理がついたという方が正確かもしれない。
秋に告白をした時の気持ちと、春になった今の気持ちは、同じ方向を向いていたが質が違った。秋の気持ちは、いろいろな思いが混じっていた。誠への想いと、誠のそばにいることへの安堵と、葛木に去られたことへの傷と、子供を失ったことへの空白が、全部一緒になって誠の方を向いていた。それらによる衝動的な発露があの告白だった
だが今は違う。冬の間に考え続け、一つずつ想いを分けていった。葛木のことは葛木のことだった。子供のことは子供のことだった。それらは澪の人生に起きたことであり、澪を作ったものでもあったが、誠への想いとは別のものだった。分けていくうちに、誠への想いだけが残った。混じり物のない、ただ誠という人間に向けられた想いが。
三月になり、澪の誕生日が近づいていた。
十八歳になる日を、澪は特別なものとして意識していた。
「……誠さん」
誰もいない空間に呼びかけただけで、澪は自分の心がじんわりと温かくなることを理解し、その温かさを楽しむように目をつむる。
〝まだしばらく時間が経ってからもう一度言ってくれるなら〟と誠は言っていたが、その正確な時間を告げられたわけではない。だから澪は自身の誕生日に再び告白をしようと決めていた。
誕生日だといっても何が変わるわけでもない。だが、今年の誕生日は少し特別だった。十七歳から十八歳へ。一つ年齢が上がっただけではあるが、子供から大人へと変わる区切りでもある。
気持ちの整理はとうについている。後は想いを告げるだけ。以前のように衝動的な言葉ではなく、心からの言葉で。
誕生日の前日、澪はアパートの部屋に座って窓の外を見ていた。
遠くの寺から鐘の音が聞こえてきた。夕方を知らせる鐘だ。その音を聞きながら、以前の事――誠と出会った日のことを思い出して、ふっと柔らかな微笑みを浮かべた。あの新年の日のことは今でも覚えている。けれど、今となっては澪の中でただの思い出に成り下がっていた。辛い、けれど幸いでもある記憶。本当の意味で自分の幸せが始まった日のこと。
けれど、自分の幸せを続かせるためには越えなければいけない壁があると、澪は明日のことを考えた。
もし告白が断られたとしても、暴れたり逆上するようなことはしない。悲しいけれど、それはそれとして事実を受け止めるつもりでいる。
けれど、それは失敗してもいいということではない。自分の想いが届いてほしいし、受け入れてほしいという願いは間違いなかった。
どうか受け入れてもらいたいと願いながら、澪は緊張する心を落ち着かせるべく深呼吸を繰り返す。だが何度繰り返しても緊張は消えてくれない。
時刻はまだ夕方。この後夜になったら誠といつも通り公園で会うことになるが、告白するのは明日であって今日ではない。
こんな調子で今日の夜、自分はうまく話せるだろうか?
澪の胸の中にそんな不安が生まれた。だがそんな不安さえも、今の澪にとっては楽しいものに感じられた。
――◆◇◆◇――
誕生日の朝、澪は早くに目が覚めた。
眠れなかったわけではなかった。だが、緊張はしていたのだろう。遠足を前にした子供が早くに目が覚めてしまうように、澪もまたこの後の自分の行動を考えるだけで自然と目が覚めてしまった。
薄いカーテンを超えてうっすらと朝の光が入ってきていた。その光はどことなく柔らかいと感じたのは、カーテンに遮られて光が弱まっているからというだけではないように思えた。
澪は布団の中でしばらく天井を見ていた。
そうして思い出すのは一年前のこと。大晦日の夜に公園のベンチに座っていた自分。
体は冷え切っていて、感情は抜け落ちていて、自分がどこにいるのかも上手く認識できないような自分。
常に夢を見ているような宙ぶらりんな状態だったせいで、誰かに声をかけられてもそれが現実のことなのかどうかも分からなかった。
けれど、今は違う。
今見ているものが自分の現実なのだと受け入れることができており、自分の気持ちも理解できている。胸の中にあるのは冷たい絶望ではなく、温かい思い出。
私は今日、遂に動き出すのだと考えながら澪は心の中で誠の姿を思い浮かべた。
それから澪は布団から起き上がり、顔を洗って、着替えをする。朝食を食べた。食べながら、今日言うべき言葉を頭の中で整理した。特別な言葉を用意していたわけではない。ただ、自分が感じていることを、そのまま言えばいいのだとわかっていたから。
アパートを出るために立ち上がる澪。今日は誠が迎えに来る日ではないため外に出ても誰もいない。夜になれば公園で会うこともできるが、今は朝。あまりにも時間早すぎた。
だが澪はそんなことを気にすることもなく鏡を見ながら身だしなみを整え、最後に一度だけ深呼吸をすると意を決してアパートの外に出ていった。
春の朝の空気は冷たかったが、冬のそれとは違って、どこかに温かさの気配が混じっている。季節が切り替わり、何かが始まるように感じられるその空気に、澪はまるで背中を押されているような気がして口元には自然と笑みが浮かんでいた。
アパートから出た澪は近くのバス停まで歩き、誠の仕事場の近くまで向かう。田舎であるため誠の仕事場はバス停から少し距離があったが、今の澪にとってはその距離さえ愛おしい。早く着けばいいのにと思いながらもずっと辿り着かなければいいのにという相反する気持ちが心の中で渦巻きながらも、澪の足は一歩ずつ確実に誠の仕事場まで近づいていく。
歩きながら、澪は自分の足が地面をしっかり踏んでいることを感じていた。一年前のあの頃は歩いていても地面を踏んでいる感触がなかった。体が宙に浮いているような、あるいはひどく遠いところから自分の体を眺めているような感覚があった。
けれど今は違う。足裏に道路の硬さが伝わってきた。体が自分のものだと分かった。
しばらく歩き続け、誠の仕事場が見えてきた。夏の間は毎日通い続け、共に仕事をしたあの場所。周囲には誠のものではない田んぼが存在しており、今の時期はそこには麦が植わっている。まだ緑の色味を残した状態だがそのおかげで照りがあり、光を受けながら風になびく麦の穂は黄金と翡翠を混ぜたような波を生み出していた。
澪は一度足を止め、その光景を眺めた。美しい光景だ。辛いこともあったが、その時間を経ていなければきっと自分はこの美しさを知らないままだったのだろう。
今までの自分の人生を改めて振り返った澪は、フッと小さな笑みを浮かべると麦畑から視線を外し、再び歩き出した。
そうして辿り着いた誠の仕事場で、誠は野菜の収穫をしていた。
夏ほど強いわけではないが、ずっと照らされていたら汗をかいてしまう程度の陽に照らされ、畑にしゃがみこんで土と葉っぱを弄っている。
そんな誠の姿を見られたことがなんだかとてもうれしくて、澪は足早に誠へと近づいていった。
近づいてくる澪に気づいたようで誠は顔を上げたが、その先に澪がいたのを見て誠は思わずといった様子で目を見開いている。
そんな様子さえも今の澪には愛おしく見えていた。
「澪? どうしてここに……一人で来たのか?」
「はい。来ました」
たったそれだけの短い返事をしながら澪は頷き、笑った。
澪自身、何の説明にもなっていないなとは思ったが、そのことがどうしてかとても面白いことのように思えていた。
そうして小さく笑ってから一度だけ静かに深呼吸をし、口を開く。
「成人になりました」
まっすぐ誠のことを、誠のことだけを見据えられながら告げられた言葉。
「あ、ああ。おめでとう」
突然の状況に困惑しながらも、誠は心からの祝いを口にした。
他人が聞けばそっけないと思うかもしれないほど短い言葉。けれどその短さの中にちゃんと重みがあることを澪は理解している。
「――だから」
けれど、澪の目的はただ成人したことを伝えに来たわけではない。
畑の中にいる誠に近づくために、靴が汚れる事なんて全く気にせずに澪はどんどん畑の中を進んでいき、誠との距離を詰めていく。そして、誠との距離が縮まったところで再び口を開いた。
「もう一度聞いてください」
何を、とは聞かない。聞けない。それだけの気迫を感じさせる澪の様子に、誠は気圧されてしまったから。
「私は誠さんが好きです」
声は震えなかった。ただ、言うべき言葉としてするりと口から出てきたのが澪には少し意外だった。
覚悟は決めていた。けれど緊張していたのは事実だった。だというのに、口を開いたらいつもと同じでただ話をするかのように想いを告げられたことに澪自身驚いていた。
驚きながらも澪は言葉が詰まらないならそれでいいと、さらに自分の気持ちを言葉にしていく。
「ただの逃避じゃないです。あなたという一人の人間が好きなんです」
告げられた想いに対して、誠は戸惑ったように、そして何かに怯えるように澪を見ていた。どうして誠がそんな様子を見せているのか澪には分からなかったが、それでももう澪にできることは何もない。あとはただ誠からの返事を待つだけだった。
そして何かを考えこむ様子を見せる誠。口を開きかけ、途中で止めては視線を逸らし、かと思ったら澪を見つめている。
そんな忙しないくらい動きながらも一言も発しない誠だったが、遂に沈黙を破るように口を開き――
「……ダメだ」
誠は再び拒絶した。
誠の拒絶に、澪は一瞬体の中で何かが固まる感覚があった。また同じ言葉だった。また拒否だった。冬の間ずっと自分の気持ちを確かめてきて、それでも同じ答えが返ってきた。そのことを理解した瞬間澪は泣き出してしまいそうになったが、今泣けば誠が困るだろう。誠を困らせたくない、罪悪感を与えたくない。それに、みっともない姿を見せたくない。
だから、澪は拳をぐっと握りしめて涙をこらえた。
仕方ないことだ。断られたとしても恨んだりしない。喚いたりしない。そう考えていたはずだ。
けれど、せめて理由は聞きたい。
「なんで……」
思わず零れた問いかけの語気が、いつもの澪の声より強く感じられる。
こんなはずじゃないのに。いつもと同じ態度で、何事もなかったかのように問いかけようと思っていたのに、そのはずなのに澪自身も驚くくらい強い言葉が出た。そして、その言葉はまだ終わりではなかった。
「なんでですか。私はちゃんと考えました。冬の間ずっと考えて、自分の気持ちを確かめて、それでも同じ気持ちがあったから来たんです」
こんなことを言うつもりなんてなかった。断られたんだから素直に引こうと、おとなしく誠の答えを受け入れようと考えていた。そのはずなのに、澪の口は止まらない。そして、言葉が溢れれば我慢していた他のものも溢れてくる。
涙を流しながら、震える声で問いかけてくる澪。その言葉を誠は最後まで黙って聞いていた。そして、全て聞き終えてから唇を嚙み締め、口を開いた。
「――俺は、魔法が使えるんだ」
突然告げられた誠の言葉に、澪は一瞬誠が何を言っているのか理解できなかった。
それはそうだろう自分はいま告白をしたのに、魔法などというおとぎ話の話をされるなんて思っているはずがなかったのだから。だが、誠の表情はどこまでも真剣で、どこまでも悲し気なものに見えて澪は何も言うことができない。
言いたい。けれど言えない。そんなもどかしげな様子を見せる澪を見て、誠はフッと力なく笑ってから話を始めた。
「魔法って言っても、炎とか雷とか、そういうのが使えるわけじゃない。ただ……他人と接触していると、その人の気持ちが安らぐらしいんだ」
嫌悪感や諦め、罪悪感といった様々な負の感情が入り混じった視線で自分の掌を見つめた誠。その様子を見て、澪は誠が言っていることは真実なのだと理解できてしまった。普通なら到底納得できないような、誤魔化しのようないいわけだが、誠がこの状況でそんなくだらない嘘をつくはずがないと澪は理解していたから。
誠はこの場にそぐわない話を始めたにもかかわらず、否定することなく誠の言葉を信じてくれている澪を見てどこか嬉しそうに、けれど悲しそうに小さく笑みを浮かべている。
「だから、お前が俺のことを好きだと思ってくれているのは、その魔法の影響かもしれない。お前が俺のそばにいると安らぐのは俺という人間のせいじゃなくて、俺に宿っているふざけた魔法のせいかもしれないんだ」
「……どうして急に……そんなことを教えて……」
「俺を好きだと言ってくれたことは嬉しいよ。けど、そのことを言わないまま告白を受けるのは違うだろ」
澪はその言葉を聞きながら、誠が今まで自分に触れることを慎重にしていた理由を思った。
初めて公園で手が触れた時、誠が強く驚いて体を跳ねさせていたことを澪は覚えていた。それだけではなく他にもある。公園のベンチで小指の側面だけが触れていたこと。抱きしめることを一瞬ためらったこと。それらの意味が、不意に頭の中で繋がった。
そして同時に誠はずっと独りぼっちだったのだと理解した。自分が隣にいても、心の底ではずっとずっと独りでいたのだと。
そのことが、澪にはとても悲しかった。
自分と一緒にいても、一緒にいたと思っていたのは自分だけだった。嬉しいと思っていたのは自分だけだった。心が安らぐと感じていたのは、自分だけだった。心の底から頼ることができると思っていたのは自分だけだった。
その事実が悲しい。けれどそれ以上に、誠の心に気づくことができなかった自分野不甲斐なさが悲しく、悔しい。
自分は誠のなにを見てきたのだと、無性に情けなさが湧いてくる。結局は自分も誠のことを見ていたのではなく、自分本位な想いだけで動いていたのではないだろうか。澪の中にはそんな思いが湧いていた。
悔しさと悲しさにこぶしを握り締めながら、澪は考えた。
魔法。誠がそう呼んでいるもの。触れた相手の気持ちが安らぐという、誠に宿っている何か。澪はその言葉を頭の中で半数しながら自分の記憶を辿っていく。
大晦日の夜に誠のコートを受け取った時、わずかに手が触れた瞬間のことを。公園のベンチで小指の側面が触れていた時間のことを。誠がアパートの部屋で澪を抱きしめた時のことを。
あれは魔法だったのか。本当に魔法があるのなら、誠の言ったように自分が冬の間に考えてきた誠への想いは作り物だったのか。
……わからない。いくら考えても澪の頭の中には何一つとして答えが出てこなかった。だから澪は、考えるのをやめた。そして代わりに、誠の手を取ることにした。
突然澪が手を掴んできたことで誠は反射的に体を固くした。だが澪は構わない。誠の手を両手で包んで、その感触を確かめた。誠の手は大きくて、皮が厚くて、農作業をしてきた手だった。この手に触れているだけで、澪の心の中には温かさが生まれてくる。けれどこれは違う。これは魔法によるものなどではない。この温かさは澪自身の内から生じたものだった。
「確かに、安らぐ気がします。でもこれは私自身の想いです」
確かに誠と触れ合っている手から何かが澪の中へと流れ込んでくるような気はする。先ほどまで自分の中にあった誠に対する悲しみや自身への情けなさというものが落ち着いていくように感じられた。きっとこれが誠の言っていた魔法という力の影響なのだろう。
確かにこんな力があれば、触れ合うことで気持ちが変わったのではないかと疑いたくなるのも理解できる。けれどそれは、あくまでも初対面で好印象を持たれやすいというだけのこと。深くかかわっていけばこんな魔法なんて子供だましに過ぎない。そう澪は判断した。
なぜなら魔法の影響を受けた後も、心が安らいで落ち着けたような気はしたが、誠に対する愛情の強さは何一つとして変わっていないのだから。
自身のうちにあった想いを確認した澪は、再び誠の目を見つめた。
「魔法があったとしても、その力が私に影響していたとしても、今の私の想いは何も変わっていません」
仮に魔法によって歪められた想いだとしてもかまわない。自分は結局はこの想いに辿り着いていたはずだから。その確信が澪の中にあった。
そう考えればむしろ魔法のおかげで早く想いに気づくことができたのだから感謝しているとすらいえるかもしれない。
「ここに来る前と、今とで、誠さんのことを愛しているという気持ちは変わっていません。触れているから好きになったわけじゃない。触れていなくても、私の中にはずっとあなたがいるんです」
澪は握ったままだった誠の手を放し、誠へと一歩近づいた。
「誠さん」
誠の名前を呟きながら、澪は誠へと抱きついた。
「あなたを愛しています」
澪の言葉に誠は目を見開き驚きの表情を見せたが、すぐに眉を顰めて澪の言葉を否定するべく口を開いた。
「でもそれは……」
だがその言葉は、途中で誠に抱き着いている澪の腕に力が込められ、ぐっと強く抱きしめられたことで止めてしまった。
「私があなたに感じてる好意も安らぎも温かさも、全てはあなたの魔法があるからじゃない。あなたがあなただから、私はあなたのことが好きになったんです」
誠の言葉が止まった隙をつくかのように澪はさらに言葉を重ねていく。言葉を重ね、想いを吐き出し、そして――引き留める。
「誠さん。今まで一人にしてごめんなさい」
魔法のせいで心から誰かを信じることができなかった誠。だから誠はずっと独りで生きてきた。誰かと共に過ごすことはあっても信頼しているわけではない。友達と話していても心から信じているわけではなく、家族からの好意でさえ疑ってきた。周りに誰かいても心の中では常に一人。それが誠の人生だった。
澪と過ごす日々によって一時的に独りぼっちではなくなっていたが、再び一人の世界に戻ろうとしていた。
澪もそこまでわかっていたわけではないだろう。だが澪はこのままではいけないと感じた。だからこそ、誠を引き留めるべく言葉を重ねていく。
「一人でいたことに気づけなくてごめんなさい。ずっと自分のことだけを見てて、助けられてばかりでごめんなさい。でも、もうあなたを一人になんてしません」
今まで誰かに引き留めてもらってばかりだった澪が、初めて自分の手で誠を引き留めようとしている。勢いに任せ、溢れ出てくる言葉を衝動的に吐き出しているだけの言葉。けれど今の澪にはそれで構わなかった。溢れるなら溢れればいい。不格好だろうとみっともなかろうと、自分の想いが届くのならそれでよかったから。
そんな初めて見る澪の様子に、誠は困惑したように眉を顰めながら黙って話を聞き続けた。
「私を見つけてくれて――ありがとう」
これまでの自分の人生を振り返った澪は、抱き着いていた体を少し離し、誠の顔を見上げながら感謝の言葉を告げた。
「声をかけてくれてありがとう。話してくれてありがとう。待っていてくれてありがとう。あなたは私があなたにどれだけ感謝してるかわからないと思います。あなたがそばに居てくれて、どれだけ嬉しかったかわからないと思います。もっともっと、たくさんありがとうって言いたいことがあるんです。そして、ありがとうと同じくらい大好きだって言いたいんです」
そう言い終えると、澪は目元に涙を滲ませながらも心からの笑みを浮かべて誠に笑いかけた。
言いたいことは全て言った。澪自身、公園のベンチで誠の隣に座っていたあの頃は、自分がこんなにも言葉を持てるようになるとは思っていなかった。けれど今、こんなにも多くの言葉が自分の中にある。
それが澪には不思議で、同時に当然だとも感じた。だって自分のそばには誠がいてくれたのだから、と。
長い沈黙だったが、澪は待った。長いといっても冬よりは長くないのだ。冬の間ずっと待ち続けた澪にとって、この程度の沈黙は待つうちに入らなかった。
そうして澪が待ち続けてしばらく、誠の表情が動いた。それまでの迷っていた表情とは違い、険しく、けれど何かを決めた人間の顔を見せている誠。だが、すぐに言葉が出てくることはなかった。
真剣でありながらどこか柔らかな笑みを浮かべている澪と、真剣でありながら険しさの宿る表情の誠。二人はじっと見つめ合い、しばらくの間そのまま動かないでいると、不意に誠が口を開いた。
「……ありがとうは、俺もだよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、すぐに視線を逸らした誠。澪はその様子を見て、かわいいと思った。思ってから、自分がそう思ったことに気づいて新鮮さを感じた。
いつもの誠は頼りになる存在で、澪が頼る側だった。澪にとって誠は、一種の親のような存在だとさえいえただろう。一度捨てられ、孤独になって人生に価値を見出せなかったとき、死んでもいいと思っていた時に助けてくれて新しい自分に生まれ変わらせてくれた親。
だが今この瞬間の誠は、言葉を探している普通の人間だった。その普通さが、澪には愛おしく思えた。
そんな誠に対する愛おしさを胸に、澪は一度深く息を吸い込んだ。そして――
「誠さん。私と付き合ってください」
三度の告白。
誠は今まで断ってきたその言葉を、今回はすぐに断ることはせずに目をつむった。目をつむり、これまでの人生を思い出す。自分に宿っている魔法のせいで、他人が自分に向ける感情が変わったのを何度も見てきた。誠と接触してしまったことで突然態度を変えた友人を見て、誠を詐欺師だと、友人を騙していると責めてきた者もいた。
だから誠は、自分は誰とも触れ合ってはいけないと考えてきたし、それでいいとも思っていた。ずっと独りで生きていくのは寂しいけど、心を許せる相手がいないのは悲しいけど、もう慣れたから大丈夫だと、そう思っていた。
そんな中で、自分の手に触れて魔法の影響にあるとを知りながら、それでも魔法なんて関係ないと告げる澪の言葉は誠にとって救いであった。
だからだろうか。誠は自分でも知らずのうちに笑みを浮かべていた。
「……ああ」
短かった。一言とすらいえないようなたった二文字の返事。だがその短い音の中に、誠の全てが込められていたことが澪には分かった。長い言葉ではなかったし、飾られた言葉でもない。だがそれが誠だった。下手に言葉を飾らず、ただ自分の意思だけを伝えるどころかその意思さえはっきり伝わらないような言葉足らずな誠の言葉。澪にはその言葉が誠らしく思え、嬉しさが溢れだしたように笑うとそのまま誠へと抱き着いた。
今度は誠の腕が澪の背中に回ってきた。秋の夜にアパートの部屋で抱きしめられた時とは違う抱き方。あの時の誠はただ必死だった。壊れかけているものをどうにか壊れないように繋ぎとめようと焦って抱え込んだような、そういう力の入り方だった。
だが今は違う。澪の背中に回された腕にはそれほど力が込められておらず、躊躇いがちでどこか距離を感じる抱き方となっている。
大事だからこそどう触れればいいのかわからない。けれど決して手放したくないと思っているから抱きしめる力は弱いのに手は澪の服を掴んでいる。背中に感じるそんな感触がなんだか誠らしさを表しているように感じられ、澪は抱きしめている腕にさらに力を込めた。
春の朝の空気の中には二人だけが存在していた。賛同する者は誰もおらず、けれど邪魔する者も誰もいない。そんな二人だけの世界が、誠たちには心地よかった。
春の風が駆け抜けていき、土の匂いを運ぶ。近くの屋根に止まっている鳥の声が響き、静けさを和ませていく。
夏の時とは違う光景。けれど二人が望んでいた光景でもあった。
「――ありがとう」
遠くの空から聞こえてくる笛の音のような鳶の声に耳を傾けながら、小さく呟くように誠が言った。澪に聞かせるつもりで言ったわけではない、本当に微かな呟き。
けれど抱き着いていたことでその言葉が聞こえた澪は、ぐっと体を離すと服の裾が汚れる事も気にせずその場にしゃがみ、目の前に植わっている葉っぱをそっと撫でるように触れた。
突然の澪の行動に誠がいぶかし気な視線を向けていると、澪はしゃがみながら誠を見上げて笑いかけた。
「誠さん」
「なんだ」
「次の春は、一緒に野菜を植えましょう」
楽しそうに笑いながら提案する澪を見て、誠はわずかに驚いたような顔を見せてからすぐにふっと柔らかな笑みを浮かべ、そうだな、と言った。
その返事の仕方が澪には嬉しく感じられ、より一層笑みを深めた。
誠はしゃがんでいる澪の隣にしゃがみ、何を言うでもなく黙ったまま近くに生えていた雑草を抜き始めた。
普通なら何か話しかけるだろうに、何も言わないままの突然の行動に澪はくすりと笑うと、誠と同じように黙って雑草を抜き始めた。
指先が土で汚れていく感触がする。爪の中に土が入り、指先が微かに削れる感覚。きっと自分はこれから何度も同じようなことをするだろう。
澪は隣にいる誠の手を見た。自分の手を握ってくれた温かい手。作業で荒れ、爪に土の汚れがこびりついた汚れた手。
誠の手のように、いつかは今の自分の手とは比べ物にならないくらい汚れて傷ついた手になるかもしれない。かつての自分では考えられないような、そんな手になるかもしれない。けれど、今の澪はそうなることに何の抵抗もなかった。むしろ早くそうなってほしいとさえ思えた。土で汚れた手になって、ようやく誠の隣にいるのに相応しい自分になったと思えるだろうから。
だからこの手でまた野菜を育てよう。
誠の隣で、この土に種を植えよう。水をやろう。雑草を摘もう。実が生るのを待とう。それを繰り返す季節が、これからも続いていく。
春の朝の光の中で、澪はそんな土臭い未来を思い浮かべていた。




