十章『春の昼』
付き合うことが決まってから、誠の日常は変わった。
変わった、といっても劇的な変化があったわけではなかった。農家としての仕事は続いていたし、朝に起きて土を触って夜に眠るという繰り返しも変わらなかった。ただ、その繰り返しの中に澪がいるようになった。それだけのことだったが、誠にはそのことの意味が少しずつ分かるようになっていた。
人生に目的があるということが、どういうことなのか。
三十年以上生きてきて、誠は初めてそれを実感として知った。壮大な目的ではなかった。世界を変えるとか、何かを成し遂げるとか、そういうものではない。ただ、目の前にいるこの人を幸福にしたい、という単純な想いだった。単純だったからこそ、それは誠の日常の全てに染み込んでいく。朝に起きた時も、畑で作業をする時も、夜に話をする時も、その想いがどこかにあった。
澪はアパートを引き払って、誠の家で暮らすようになった。
それは二人が付き合うことになってからしばらく経ってからのことで、澪が自分から提案したことだ。
付き合うようになったといってもまだ澪は十八。ともに住むには少し早いのではないかと思ったが、澪が暮らしている環境が環境だったため、あの古びたアパートに住まわせ続けるよりは、と考えて誠は澪と共に暮らすことにした。
誠は持ち家に住んでいたし、一人で使うには持て余していた部屋もあった。何より、澪がそこにいる方が自然だと思えた。
澪が家に来てから、家の中の空気が変わった。
誠一人で暮らしていた頃は、家の中に音がなかった。誠は元々静かに過ごすことを好んでいたし、誰かと話しながら食事をするという習慣もなかった。だが澪が来てからは、台所から音がするようになった。家にいる部屋のどこかに澪の気配があった。
そんな変化は誠にとって少し戸惑うものだったが、慣れると当たり前になっていった。当たり前になってからは、それがないことを想像できなくなっていたほどに澪がいる生活が当たり前となっていた。
そうして春が過ぎ、夏が過ぎ、秋、冬と経て再び春になった。二人が出会ってから三度目の春であり、二人が付き合い始めてから一年が経っていた。
――◆◇◆◇――
誠が澪を公園に誘ったのは、桜が満開になった週末の午後だった。
特別なことをしようと思ったわけではない。ただ、澪と出会ってから二年以上経っているにもかかわらず、二人で桜を見たことがなかったという事実が、誠の頭にあった。
夜に公園の街灯に照らされた桜を見たことはあったが、それとて桜を見ようと思ってみていたわけではない。去年付き合いだした後は気づけば桜が散っていたので、二人で桜を見るために出かけるというのは、今回が初めてだった。
「行くか」
そう言って誠は澪の手を取ると、二人は並んでいつもの公園へと歩き出した。
「静かですね」
「それほど大きい公園じゃないしな。桜を見るだけなら土手の方に行くし」
小さな公園だ。桜が咲いているといっても、わざわざ桜を見るためにこの場所に来ることはない。近くの土手には桜並木が続いているのだからそちらを見に行く者が大半だ。
けれど、誠達にとってはどれほど素晴らしい桜並木だとしても、この公園ほどの価値はなかった。この公園で桜を見るからこそ、二人には意味があるのだ。
自分たち以外誰もいない公園の中を歩いていき、二人はいつものベンチへとたどり着いた。ベンチは丁度桜の木の下に設置されており、見上げれば満開の桜が視界を覆いつくしている。
ベンチの上に散っていた花びらを誠が手で払ってから座ったが、また風が吹いて新しい花びらが二人の上に落ちてきた。澪は自分の膝の上に落ちてきたその花びらを摘まみ、スッと空を仰いだ。
「桜なのに、なんだか雪みたいですね」
ひらひらと降ってくる桜が、なんだか雪のように見えてしまい澪はくすりと笑みを浮かべた。
「寒いか?」
春とはいえ、まだ寒さが残る日もある。明確に寒いと言えるほどではなくとも、風が吹けば肌寒さを感じてもおかしくない。突然雪の話題を出したことで、もしかしたら寒さを感じているのではないかと不安になった誠は澪に尋ねた。
「いいえ」
だがそう言って首を振った澪は隣にいた誠の手を握った。誠の手は温かく、寒くはないがそれでもその温かさは初めて出会ったときのことを思い出させてくれる。
「ただ少し、初めて出会ったときのことを思い出しました」
二人が出会った大晦日の夜は今のような桜ではなく本当の雪が降っていた。薄着のまま部屋を出て夜の街を彷徨っていた澪。歩き疲れて、生きる事にも疲れていた澪が寒さに凍えてしまいそうだったその時、誠が声をかけたことで二人の道は交わった。
「あの時、俺はお前を何だと思ったと思う?」
誠は当時の自分が澪に抱いた感想を思い出して笑いを漏らしながら澪へと問いかけた。
突然の問いかけに澪はきょとんと呆けた顔をしたが、当時の自分は誠から見てどう映っていたのか聞いたことはなかったため、誠が何を考えていたのかはわからない。それでも当時を思い出しながら考えていったが、そもそも澪自身当時の記憶が曖昧なため、誠が何を考えていたのかは全くわからなかった。
「……何ですか?」
仕方なく自分で考えるのを諦めた澪は誠へと尋ねたが、その表情がどこか不愉快そうなのは自分で答えを出せなかったからだろうか。
「幽霊かと思った」
そう言いながら誠が肩を竦めると、澪は思わず笑ってしまった。確かに、あの時の自分は幽霊に見えたかもしれないと澪自身思ってしまったのだ。
その笑い方を見て、誠は僅かに目を細めた。澪の笑い方は声を出して笑うわけではなかったが、顔全体が自然な笑みを浮かべていた。あの大晦日の夜に見た澪の顔と今の顔。その二つ表情を比べると同じ人間だとは信じられないほどだ。あの夜の澪の顔には何もなかった。感情が全て抜け落ちた、空白の顔だった。けれど今の顔には全てがあった。
「今も、幽霊だと思いますか?」
澪が尋ねた。その問い方が少し意地悪で、少し楽しそうだった。
「いや」
誠は口元に笑みを浮かべながら首を振った。首を振って短な返事をしただけだったが、澪はそんな誠を楽しそうに見て、ただ誠の肩に頭を寄せた。
突然肩にかかった重みに体を揺らしながらも、誠はその重さを受けいれ、指を絡ませた。
以前の誠は、誰かに触れることが恐ろしかった。触れれば相手の心が変わってしまう魔法。触れただけで向けられる好意が恐ろしく、誠はずっとそれを呪いと呼んできた。人の好意を信じることができなかった。信じた後に、それが歪められたものだと気づくのが怖かったから。
だが今、手に伝わるこの温かさは違った。
魔法も呪いも関係なく、澪の手は握り返してくる。
――魔法があったから好きになったわけじゃない。
あの春の朝に澪から告げられた言葉は、今もまだ誠の中に生きていた。
ただそばにいたい。ただ触れ合っていたい。ただその人に笑っていてほしい。そう思うから人は誰かに手を伸ばし、誰かと手を繋ぐ。
その温かさに、名前をつける必要はなかった。
隣に座り、誠の肩に頭を預けながら気持ちよさそうに目を閉じている澪。
そんな彼女を見て、誠は小さく笑みを浮かべると空を仰いだ。
桜の花びらが舞い、風に乗って二人の上を通り過ぎていく。遠くから様々な声が聞こえてきたが、このベンチの周りだけは少し静かだった。




