第17話 隊長、ここにいたのですか
完結保障、全21話。
毎日投稿予定。
そんな魚河岸ライフを送っていたある日、バイト先の社長に使いを頼まれた。
「場内のマグロ専門店へ行って、タコとタラコをもらってこい」
どうやら『海老蔵』と提携している仲卸らしい。マグロ専門と看板を掲げてはいるが、他の海産物も融通し合う関係なのだろう。稲田は道順が描かれたメモを頼りに、狭い通路を小走りに抜けて件の店にたどり着いた。店先には、見事なマグロの切り身や柵がパック詰めにされて豪勢に並んでいる。表に人の気配はなく、店員は奥の作業場にいるようだった。
「ちわーっす! 『海老蔵』っす。連絡しといたもんを受け取りに来ました」
「おう!」
威勢のいい声とともに、店の奥から体躯のいい男が現れた。頭には豹柄のねじり鉢巻、足元は長靴、白い前掛けには魚のうろこと血がべったりとこびりついている。まるで海鮮居酒屋の看板から抜け出てきたような出で立ちだ。
稲田は、男を見た瞬間動きが止まった。口をぽかんと開けたまま棒立ちになる。背が高く、肩口の筋肉が盛り上がったその体には、見覚えがありすぎた。
「隊長?」
「うん? あ! 稲田じゃないか」
「た、隊長ーっ!! こんな所にいらしたのですか?」
「こんな所とはご挨拶だな。それに今は隊長じゃない。店長だ」
「隊長ーっ! いったい今までどうされていたのですか! もう、ひどいじゃないですか!」
気がつけば、稲田の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「突然大学からいなくなって、みんな心配していたんですよ!」
「あ、ああ。そうか」
言葉少なにごまかす隊長を前に、稲田は所かまわず泣いた。大の大人が魚市場のど真ん中で号泣しているのだから異様な光景だが、隊長は呆気に取られながらも「よしよし」と不器用に肩を叩いてくれた。稲田は「仕事が終わったらまた来ます」と言い残し、タコとタラコを受け取ってバイト先に戻っていった。
アルバイトを終え、稲田は再び隊長の店を訪れた。店に着くと、隊長はまだ仕事の真っ最中だった。
「おう稲田、ちょっと待ってろ。今この仕込みを終わらせる」
隊長はそう言うと、目の前の大きなマグロの柵に向き直った。右手には柳刃包丁が握られている。
稲田は思わず息をのんだ。腰の落とし方、肩の開き、刃を引く一瞬の踏み込み。それは、かつて夏のキャンプ場で嫌というほど見せつけられた「火炎瓶を投げる時の足運び」を思い出させた。片方の足に重心を掛け、反対の足へ移しながら角度をつける。あの夜、隊長が焚き火の前で力説していた投げ方の理屈と、稲田の目には重なって見えた。
(この人、マグロを捌いてるんじゃない。今まさに国家権力に向かって火炎瓶を投げ込んでる顔だ)
迷いのない一閃で、赤身が滑らかに切り分けられていく。切り離された柵が、まな板の上に音もなく並んだ。
「よし、完了だ」
包丁を拭い、ニッと笑う隊長の顔を見て、稲田は思わず笑ってしまった。この人はどこに行っても本気なのだ。
仕事がひと段落した隊長と、稲田は店の隅で向かい合った。「久しぶりだな」「元気だったか?」と目を細める隊長だったが、稲田の顔には不満が張り付いたままだ。
革命志士を気取っていた大学時代からは想像もつかない、豹柄の鉢巻に長靴姿。魚河岸の仕事ですっかり様変わりしたのは自分も同じはずなのに、この変貌ぶりには敵わない。稲田は思わずしばし見入ってしまったが、すぐに我に返った。言いたいことも聞きたいこともある。稲田がほっぺたを膨らませて質問攻めにすると、隊長は「ゴメンゴメン」と苦笑いしながら、大学から姿を消してから今までのことを話し出した。
隊長の話によると、このマグロ専門店は元は父親の会社だったという。道理で、大学時代からやたらと魚の話ばかりしていたわけだ。親父さんが体を崩したため、隊長がそのまま会社を引き継いだのだという。
沈黙が落ちた。稲田は意を決して、ずっと胸につかえていた名前を口にした。松尾律子。隊長の元彼女で、その後、敵対サークルの代表・江上勉と付き合うようになった女性だ。討論大会で江上の女性関係が暴露された直後、その場で泣き叫んで部屋を飛び出し、その日のうちに自ら命を絶ってしまった。
(隊長は、松尾さんの死を自分のせいだと思っているんじゃないか)
稲田が核心に触れると、隊長はすっと目をそらし、「どうだかな」と短く答えたきり口を閉ざしてしまった。稲田は話を続ける。
「隊長。お父様の会社を引き継いだ事情はわかりました。松尾さんが亡くなられたのも、本当に残念に思います。でも、黙って自分たちの前からいなくなるなんて。一言、事情を話してくれればよかったのに」
怒りながらも、稲田の目頭は再び熱くなっていた。隊長はまた「ゴメンゴメン」と軽く受け流したが、その横顔には深い翳りが落ちていた。やはり、松尾律子の自殺は隊長の中に重くのしかかっているようだった。
隊長はしばらく黙ったまま、まな板と包丁を手際よく洗い始めた。水音と、まな板を拭う布巾の音だけが店内に響く。稲田もそれ以上は何も言わず、隊長の手元を見つめていた。
片付けが終わり、隊長がようやく顔を上げたところで、稲田は話題を変えた。北岡雅美のことだ。とても心配していたこと、隊長のことを好きだったこと。伝えると、隊長は腕を組み、渋い顔を作った。
「おい、稲田。北岡はあのままじゃだめだ。お前が面倒を見てやれ」
「……はい?」
「あいつは男との付き合い方を知らん。あのまま野放しにしてみろ、大変なことになるぞ。世の男どもにとって、あれほど危険な女はいない」
「いや、だからって……」
「お前なら大丈夫だ。なにせ、地雷に吹き飛ばされても無傷で帰ってきた男だからな! はっはっはっは!」
隊長は照れ隠しのように後頭部をガシガシと掻きながら、いつもより幾分か大げさな声で笑い飛ばした。
(いや、笑いごとじゃないだろ……)
稲田はそう思ったが、それ以上は言わずにおいた。
「あの、北岡さんのことは、嫌いになって離れたわけじゃないんですよね?」
稲田が恐る恐る尋ねると、隊長は太い腕を組んだまま「ふん」と鼻を鳴らした。
「馬鹿を言うな。俺はあいつが嫌いだったことなど一度もない。ただな、俺という男は昔から一つ所にとどまっていられない性分でな。北岡のそばに居座ったら、いずれあいつの自由まで俺色に染め上げてしまう。それだけは避けたかったのさ」
真顔でそんなことを言ったかと思うと、隊長はすぐにいつもの調子でガハハと笑った。
「まあ、小難しい話はさておきだ。とにかくお前が北岡を頼むぞ。地雷に吹き飛ばされても平気な顔をしていた男だ、少々のことじゃびくともせんだろう」
(『世の男どもにとって危険な女』を、なぜ自分に管理させようとするんだ。そもそも管理ってなんだ。逆に俺が飼いならされるに決まっているだろうに。……隊長は変わっていないな)
呆れ果てながらも、稲田はつられて笑った。
(北岡さんか。あの人も今、どうしているだろう)
北岡に送るメールの文面を思い浮かべながら、「隊長は元気でいる」と伝えようと決めた。そう思いながら稲田は隊長と別れた。この魚河岸にいる間なら、また隊長に会う機会もあるだろう。
(隊長が元気でいたのはとてもうれしいのだが、近くにいると面倒くさいんだよな、あの人)
そう思いながら、稲田はふっと笑いだした。
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