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16/21

第16話 魚河岸の朝

完結保障、全21話。

毎日投稿予定。

 東京へ戻ってわずか二日後、稲田は早くも次のバイト先に立っていた。行き先は魚河岸。勤め先は、車エビを中心に扱う『海老蔵』という威勢のいい仲卸の店だ。


河岸の朝は異常に早い。まだ街全体が深く眠っている早朝4時過ぎに自宅を出て、電車を乗り継ぎ、6時前に現地へ到着する。プロの仕入れがあらかた終わっている時間帯で、新人バイトとしてはこれでも遅いくらいの初出勤だった。


場外の事務所に荷物を置き、場内へ足を踏み入れる。富山の雪山とは全く質の異なる冷気が肌を刺した。魚の匂いと生臭さが充満し、薄暗い通路を行き交うのは、示し合わせたように同じ色の防寒ヤッケを羽織り、頭にタオルを巻いた男たちだ。あちこちで威勢のいい掛け声が飛び交い、台車が縦横無尽に走り抜けていく。


「おい新入り! ボーッとしてっと引っかけられるぞ! こっち手伝え!」


稲田の仕事は、主に魚やエビの積み下ろしと運搬だった。ひしめき合う店の狭い通路を、氷と冷水の詰まった発泡スチロールの箱を抱えて行き来する。箱を運ぶたび、かじかんだ指先の感覚が薄れていった。とりわけ『海老蔵』が扱う生きた車エビは繊細だ。おがくずの中から素早く選別し、冷水で締める作業は、慣れないうちの手には難物だった。


(俺は一体、何をやってるんだろう。自分で選んだ道のはずなのに、思うようにいかないものだな)


ふと手を止め、濡れた自分の手袋を見つめる。それが富山で木を削り、今度は魚河岸でエビを運んでいるのだから、人生というのは分からないものだ。


仲卸の店員たちは、声の大きさや乱暴な話し口調から気の荒い人ばかりかと思っていたが、話してみると存外優しい人が多かった。「ヘマしてんじゃねえ!」と雷を落としたかと思えば、作業が終わる頃には無造作に温かい缶コーヒーを放ってよこす。


「初めは誰でも間違える。……ちゃんとメシ食ってんのか」

「……はい」


不器用なフォローだったが、それが妙に胸にしみた。


この魚河岸での仲卸店員たちの活気あふれる姿を見ていると、自分の中途半端な気持ちが、どこか小さく思えてくるのだった。


ある朝、店主に頼まれて、稲田は近くの寿司屋まで車エビの配達に走ることになった。裏口から入ると、まだ仕込み中の板前が手を止め、発泡スチロールの箱を覗き込んで、エビの尾の反り具合をじっと確かめる。


「今日のはいいね。海老蔵さんのはいつも安心して仕入れられるよ」


板前がそう言って笑うと、稲田は自分が運んでいるだけの箱に、急に誇らしさのようなものを感じた。市場の裏で汗を流している仕事が、ちゃんとどこかの誰かの手元まで届いている。そんな当たり前のことに、稲田は今更のように気がついた。


夏になった。最初は地獄のようだった早起きも、いつの間にか体に染みついていた。半袖のヤッケ越しに滴る汗を拭いながら、稲田はすっかり河岸の風景に溶け込んでいた。もともと体力には自信がある。威勢のいい声が飛び交う中に身を置くと、行くたびに元気をもらえた。


(将来のことは、相変わらず不安なままだ)


「稲田! 次、車エビ二箱!」

「はい!」


稲田は考えるのをやめ、冷たい箱を抱え上げた。

「面白かった!」

「続きが気になる!」

「今後どうなるの?」

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