第12話 同志として
完結保障、全21話。
毎日投稿予定。
部室のドアを開けると、まず目に入るのはいつものソファーだった。隊長が寝転がって新聞を広げていた、あの場所だ。今はソファーの上に、読みかけの新聞が畳まれたまま置かれている。日付は、もうひと月以上前のものだ。隅の棚には、隊長が扱っていた『革命志士』のバックナンバーが、書き込みだらけのまま何冊も積まれている。誰も片付けようとしなかった。
(取りに来るつもりなんだろうか)
そう思いながらも、稲田はその予感がとうに外れていることに気づいていた。隊長がいなくなってから、サークルはひっそりと静まりかえっていた。誰も座ろうとしないソファーだけが、妙に広く見えた。
田中は、隊長のいない部室でも相変わらず新聞を片手に持論を語ろうとしたが、以前のように「田中、うるさい」と一喝してくれる相手がいないせいか、どこか勢いを欠いていた。山本は「……隊長、いつ戻ってくるんだろうな」と誰に聞かせるでもなくぽつりとこぼし、北岡の方をちらりと見るいつもの癖だけは変わらなかった。佐藤は、
「隊長がいないと、つまらないであります」
と軽く言い放ったきり、いつものヘルメットを小脇に抱えて部室を出ていった。だが後になって、稲田は佐藤が部室の外の廊下で一人、隊長のソファーがあった方角をぼんやり見つめている姿を見かけた。声をかけようとすると、佐藤はすぐにいつもの調子に戻り、「ウスッ」とだけ言ってその場を離れていった。
稲田は特に大きな喪失感を言葉にすることもないまま、それでもなんとなく部室に通う足だけは止めなかった。
そこから先の一年は、後から思い返してみても妙に駆け足だった。
しばらくの間、北岡はサークルから足が遠のいていたが、根が生真面目な性分のせいか、やがてまた部室に顔を出すようになっていった。隊長が消えてからサークルを回すのは、なし崩し的に北岡の役目になった。そしてなぜか、ただの幽霊部員だったはずの稲田が「機関紙担当補佐」という謎の肩書をもらい、原稿の校正やら他セクトとのビラ配り合戦やらに駆り出される羽目になった。夏には近隣の山でおこなわれた合宿があり、朝5時からの意味不明な突撃訓練が「隊長の遺伝子はサークルに受け継がれている」という理由でしっかり継続されていた。
知る会との小競り合いも相変わらず続いていたが、隊長のように酔って計画を漏らすような真似は北岡は決してしなかった。ある時など、江上たちが仕掛けてきたビラの奪い合いを、北岡はものの数分で相手方の急所(部員の出席率の低さ)を的確に突いて丸め込み、涼しい顔で部室に戻ってきた。稲田たち後輩は、その手際の良さにただ感心するばかりだった。
夜遅くまで部室に残って原稿の校正をしていると、北岡がふらっと顔を出し、「まだいたの、根詰めすぎよ」と言いながら、稲田の分まで自販機の缶コーヒーを買ってきてくれることが増えた。
「資本主義の幻想でしょ、それ」
「あら、たまにはいいのよ」
稲田が茶化すと、北岡は悪びれもせず笑った。
秋の学園祭では「革命フランクフルト」なる怪しい屋台を任され、冬になれば凍える手で原稿用紙に向かった。
北岡は相変わらず部室の隅で静かに原稿を書いていたが、隊長のことを話す様子はもうなかった。
ある夕方、稲田が忘れ物を取りに部室へ戻ると、電灯も点けないまま北岡が一人、隊長のいたソファーの方をぼんやりと見つめていた。物音に気づいた北岡は、はっとしたように顔を上げる。
「あら、稲田君。まだいたの」
「すみません、忘れ物で……。北岡さんこそ、電気もつけないで」
「ちょっと、ぼーっとしてただけ」
そう言って苦笑いすると、北岡はぽつりとつぶやいた。
「……あいつ、本当に勝手よね」
それだけ言うと、北岡はいつもの調子に戻り、机の上の原稿に向き直った。稲田は何も聞かなかったふりをして声をかけた。
「北岡さん、原稿、何か手伝えることあったら言ってください」
「……ありがとう」
北岡は少し驚いたような顔をしたあと、小さく笑った。
ある日、北岡が原稿の束を稲田の机にどさりと置いた。束の端が少し折れていて、書き込みの筆跡もいつもより乱れている。
「これ、続き書いてくれる? もう私、書くの飽きちゃったから」
明らかな噓だとわかったが、稲田は何も言わずに原稿を受け取った。北岡と同じ部屋にいられる理由が、また一つ増えただけで十分だった。
そうして季節はいくつも巡り、稲田が大学3年生を終えようとする春、北岡が卒業する日がやってきた。稲田は今、機関紙『革命志士』に掲載する原稿書きに精を出している。左寄りのサークルで作っている機関紙なのだが、思想を連ねるばかりの冊子ではなく、一応『大学の明るい未来について語る会』の名にふさわしい記事も掲載している。ノンポリである稲田が担当しているのはもっぱら学生への啓蒙活動を主体とした内容の記事だ。最初、文章を書くのは苦手だったのだが、書いてみると楽しいもので、自分の日ごろ思っていることを文章にするというのも悪くない。
(なんといってもこの原稿書きは北岡から引き継いだ仕事だ)
稲田はがぜんやる気が出る。いつものように稲田は部室の窓際にある机に向かって原稿を書いていると、部室のドアが開いた。
「こんにちはー。ご無沙汰しているわね」
部室にいた4名ほどの学生が声のする方向を見る。4年生の北岡が久しぶりに部室に顔を出した。このたび大学を卒業するというので挨拶に来たそうだ。
「稲田君、お久しぶりね。元気でやってる?」
「はい! ご無沙汰しております。北岡さんから引き継いだ仕事も少しずつですが慣れてきました」
「ああ、『革命志士』の原稿書きね、見てるわよ。ずいぶんうまく書けるようになってきたじゃない。この間のコラムなんか良かったわよ」
「えーっと、『運と不運のはざまに揺れる』ですね」
「期待しているわよ。これからも頑張ってね」
北岡は本当に挨拶だけをしに部室に顔を出したようだ。特に長居するわけでもなく部屋を後にする。
「じゃあ、みんな。後のことは頼んだわよ」
「はい!」
元気よく応える後輩たち。北岡がドアを開けて外に出ようとしたとき稲田がとっさに声をかけた。
「あの、北岡さん」
北岡は稲田に軽く微笑むと、何も言わずドアを閉めた。稲田は北岡の後を追った。
「北岡さーん! 待ってくださいよ!」
追いついた稲田は、肩で息をしながら北岡の前に回り込んだ。もう会えなくなる。そう思った瞬間、缶コーヒーを渡してくれた夜も、遅くまで一緒に原稿を直した日々も、次々と頭をよぎった。ここで言わなければ、一生言えない気がした。
「もう、北岡さん。そんな別れ方ってないでしょ!」
何も言わずただ微笑むだけの北岡を前に、稲田は喉の奥が締めつけられるのを感じた。このまま黙って見送れば、きっと一生後悔する。震えそうになる声を無理やり押し出すように、稲田は北岡に話しかけた。
「北岡さん。僕は、あなたのことがずっと好きでした」
北岡はしばらく黙って稲田を見つめていたが、やがて小さく頷くと、ゆっくりと歩き出した。稲田も並んでその後についていく。二人はそのままキャンパスの並木通りを肩を並べて歩いた。図書館の脇を通り過ぎたところで、ふと北岡は空を見上げて言った。
「稲田君。私、この並木通りが一番好きなの。木洩れ日って、木の葉がざわめくから綺麗なのよ」
銀杏の葉が風に揺られ、降り注ぐ太陽の光がさざめいている。
「あなたとはこの道をよく一緒に歩いたわね。正直、こんな時間がずっと続くといいなと思ったこともあったわ」
北岡はそこで言葉を切り、ふっと表情を緩めた。
「でも私、独りでいる方が性にあってる気がするの。これから先も、自分の足で立っていたいから」
いつの間にか二人は立ち止まっていた。北岡は空を見上げたままだ。木洩れ日が降り注いでいる。さざめく太陽の光に照らされ、きらきらと輝く北岡の横顔が稲田の目に滲んで見えた。
「あなたのことは好きよ。でも、かけがえのない同志としてね。これからも応援するわ」
北岡はそう言うなりその場から去っていった。稲田はもう北岡の後を追うことはなかった。
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