フラッシュバック
────気持ち悪い。
そう言われた。
どこからしているのかわからない声。
すぐに分かった。これは現実じゃない。
私の過去……封じ込めていた記憶だ。
いつだったか。高校に入るよりは前だ。
現在の私の人格はきっと、この出来事によって形成されている。
私を矯正した記憶。
…………今、私は呆れ返っていた。
現実のショックに耐えられずに、精神世界に逃げ込んで、そこでもトラウマに襲われている。
わけのわからない苦痛に苛まれている。
それを客観視できているのも嫌だった。どんな精神構造をしていたらこんな逃避に繋がるのか。
トラウマと客観視による、とめどない自己嫌悪。
────何考えてるの? 怖いよ……わからない。本当に、気持ち悪い……。
声が鮮明に聞こえる。声色も言葉も当時そのままに。
私は……耐えられなかった。
気持ち悪いと言われて。拒絶されて。感情の行き場が無くなっていた。
────いやっ、違う、私は……! 私が、どれだけ……ッ!
これは私の声だ。訴えるような、泣きそうな、だが激情を孕んだ声。
止めろ。
言うんじゃない。何も。
今ならわかる。冷静に判断できる。言葉選びも良くないが、そこが問題の本質ではなく……話すべきではなかった。そのまま身を引くべきだった。
感情的すぎた。当時の私には向けられた感情を、拒絶を受け入れる器がなかった。そもそも今なら……こんなことを言われる状況にしない。
蒙昧な自分による過去の過ちを想起して……私はかえって冷静になっていた。
意識を切り替えることで無理やり現実に戻ろうとする。
放心している場合ではない。
思い浮かべるのは……紗夜の顔。
そう。私は紗夜を守らなければならない。
今対処するべきは……現実の問題だ。
世界が明滅するような感覚があった。
視覚情報が鮮明になる。
陰鬱な裏路地。襤褸の少女。
精神的ダメージは重く心に食い込んだままだが、文字通り現実を見ることには成功した。
大きく息を吐いて子供を見据える。
「ふぅー…………」
「…………」
子供は薄緑の大きく綺麗な瞳でこちらを見据えている。
考えるべきは……優先順位だ。
「おい、ガキ」
口調を強くして、精神がそちらに引き摺られるように意識する。
ずっと前から使っていた手だ。外面から内面を形成する。振る舞いが私の精神を補強する。
「…………私?」
「他にいないだろ。……『先生』は────殺した」
「……」
少女に動揺は見られない。
泣き叫ばれることも覚悟していたが。
「責任を、取ってやる。先生にしてもらってたことを言え。同じように扱ってやる……」
またクロエを頼ることになるが……別にいいだろう。
あれはそのくらいの迷惑をかけるくらいで丁度いい。
「え……やだ」
「は?」
眉根を寄せてそう返す少女。
予想外の言葉に疑問の声が漏れる。
「私、勉強したくないし。ていうかあの人、この国の人じゃないでしょ? 言ってること、色々おかしいところがあったし。ご飯くれるから付き合ってあげてたけど……ご飯だけ欲しい」
……ぜっ…………贅沢……!
飽食の時代にも、勉強もせず働きもせず飯だけ貪るような子供は……少数派だ。
「ご飯だけ……世の中、そんな都合の良い話はない。相談はしてみるが……」
クロエに言えば、何かしらの対応はしてくれるだろう。
というかそれより、この少女。
「その程度の関係と思い入れなら、なんであんな言い方をしたんだ……」
事情を聞くまで、私はてっきり少女にとって大切な人間を殺してしまったのだと思っていた。
蓋を開けてみれば、少女からの感情は、想像よりもずっと……浅い。
思わせぶりなことを言うなッ! こら!
「だから、聞いた通り、どうなってるのか知りたかったの。生きてるなら治療してあげるのが無難だし、ちょっと倒れただけだったら遺品を漁れないでしょ? スラムにも医者はいるの。死んでたら、ご飯をどこから手に入れるかは考えなきゃいけないけど……先生のものは私達のものになるし、やりようはある」
「…………たくましいな……」
理屈がペラペラと出てくるし……それはあまりに強かなものだった。
これが、スラムの子供、か。
私達の世界で、こんな境遇の人間と接する機会はなかった。だから、勘違いをしていたのかもしれない。
どうもこの子は……庇護されるような、か弱い人間ではないらしい。
「……そういうことなら……私はこのまま帰るぞ。いいのか?」
「いいよ。先生、お金持ってる感じだったから……なんなら今までよりいい生活できると思う」
本当にたくましいことで……。
親しい人間が死んでいそう、となった時に、すぐにその遺産の話に思考が切り替わる。
環境が、少女をそう育てたのか。
私が殺した男の家から遺産を漁る少女のことを想像し、ふと一つ気になった。
「……お前ら、子供たちだけなのか?」
「そうだけど」
「金持ってて大丈夫なのか? 強盗とか、そうじゃなくても、まともに買い物できるのかとか……」
私の勝手な想像だが……スラムのような場所には、弱肉強食、治外法権のイメージがある。
子供達だけで、『先生』から引き継いだ財産を守り切れるとは思えなかった。
私の言葉が余程おかしかったのか、少女は、はあ、と、あからさまに落胆した様子で溜息を吐いた。
男の死体の方にとことこと歩き、屈んで服の中を漁りながら、片手間で私に言葉を返す。
「買い物くらいできるし、治安だって多分、おねーさんが想像するほど悪くないよ。それに、子供だからって、武力を持ってないわけじゃない。スラムに放り出されて、この年齢まで生き残ってるのには……理由があるの」
そう言った少女の目は、少しエメラルドのように輝いて見えた。
いや、きっと錯覚じゃない。淡く──発光している。
「おねーさん、名前は?」
「……芽愛」
私の名前を聞くと、少女は……年相応には思えない、どこか妖艶な笑みでこちらを見据えた。
「おっけー、メアさん。あなたはなにも気にしなくていいよ。私達は私達で勝手にやるし、多分その方がお互い都合がいいの」
「……お前の、名前は?」
「私はアイドクレースだよ、メアさん。クレースでもアイちゃんでも、好きなように呼んでね。言った通り気にしないで、忘れてくれたっていいけど……私に何かしてくれるなら……今度美味しいものでも持ってきてよ」
「……ああ……わかった、クレース。……ありがとう……」
その態度に、思わずお礼を口にしてしまった。
いや、事実……私は精神的に助けられている。この言葉は、無意識に出たとはいえ、そもそも正当なものだ。
「? 何が?」
クレースは、笑ってそう言っていた。




