魔物
ふと、何かの気配で目が覚めた。
日はまだ高い。一時間も寝てはいないだろう。
……魔物か?
周囲を確認するが、姿はない。
死角も比較的少ない位置であるため、少なくとも巨大な魔物が迫ってきているわけではない。
思い過ごしだろうか。
そう思い、再び眠りに就こうとしたが……瞬間、ある事に気が付いた。
私の正面。少し遠く。
何もいないはずの地面に────足跡が出現している。
普通の足跡じゃない。
捩れた渦のような、異形の足跡。
「────ッ! 紗夜、起きろ!! 『魔物』だッ!!」
蔦を使い腰に下げていた石のナイフを、咄嗟に足跡の方に投げる。
見えない何かにぶつかり、接触箇所から緑色の液体が流れ出る。恐らく、投擲によって切り傷がついた。一旦は望んでいた以上の効果だ。
「ふぁ……何……?」
紗夜はこんな時でも寝起きにぼうっとしている。
「走れ、逃げるんだッ!」
そう言って紗夜の手を取り、見えない何かから逃げようとするが……動いてくれない。
「紗夜!?」
「あ、足が……痛い……」
休息は取ったものの、紗夜の痛みはむしろ悪化していそうな様子だった。
この分だと────逃走は選択できそうにない。
「もうっ、この……普段から運動しておけっ!」
「そんなこと言われても……」
状況は最悪……だが、この状況で紗夜が『自分を置いていけ』だとか言い出さないことが、私には嬉しかった。
魔物相手に、正面切っての戦い。
それが一番避けるべき手であることは承知していたが────準備はしてある。
最悪の状況への備えこそが、自分を救ってくれると知っている。
まずは魔物がほとんど『見えない』という問題をなんとかする必要がある。先程のナイフは上手く傷をつけたが、偶然だ。見えないままの相手を足跡や足音、雰囲気だけで相手取るのは厳しい。
傷口は見えている。体液が滴っている部分も。奴を透明化させているのは恐らくその皮膚だ。上から何かを被せるか、皮膚を取り除ければその部分は見えるようになる。
足元の土を蹴り抜き、魔物の足跡がある方へと飛ばす。
蹴った土が、魔物の足に当たる。足跡からして四足歩行、その前足が僅かに付着した土によりかろうじて視認できるようになった。
今見えているのは前足と、ナイフの当たった……恐らくは脇腹。
もっと視えるようになるまで逃げながら土を蹴って回ってもいいのだが……紗夜を狙われるリスクがある。今回はその手は取れない。
魔物が鳴いた。鷹のような鳴き声だ。
そして同時に、こちらに向かって何かを飛ばしてきた。
白く蠢く何か。私の顔に向かって飛んできたそれを咄嗟に、腕を交差させ防御する。
そして────すぐに失敗だったと悟る。
回避を試みるべきだった、と。
腕で受けた白い何か。
それは────蛭のような生物だった。
長さは3cm程度、直径1cm程度の円柱状の体。
それが私の腕に喰い付き、更に私の血を流しながら腕の中へと喰い進もうとしてくる。
「う、おおおおおっ!?」
咄嗟に叫び、逆の手で蛭を思い切り引きちぎる。
多少皮膚は持っていかれたが、無理矢理摘出することはできた。
だが、ダメージは大きい。魔法なんて使える世界で腕に傷がついたくらいで……とも一瞬思ったが、肉体性能で言うなら私は未だ普通の女子高生だった。傷がついた方の手は既に上手く握れないし、出血が止まる気配もない。
随分といやらしい攻撃をしてくるものだ。
魔物と言うなら……その暴威で以って蹂躙しにくるのが普通なのではないだろうか。まあ、魔物というのはそもそも私と紗夜が勝手にそう呼んでいるだけだが……。
だが、いい。搦手で来られた方が……まだ希望がある。
これがもし狼のような生物だったら、一瞬で喉笛を掻き切られて終わっていた可能性さえある。
「……芽愛、逃げて……」
「逃げないっ!」
結局言わせてしまった。
頭がぼうっとしてくる。蛭が麻酔のような成分を分泌していたのか、あるいは私のアドレナリンが原因か、怖いくらいに痛みが無いのが不幸中の幸いだった。
すぐに決着をつける必要がある。
この魔物がどの程度の速度で動けるのかわからないが…‥今までの様子から、あまり高速で動くことはできないとあたりをつける。これが俊敏に動く獣ならさっさと追い打ちをかけにきているだろうし、そもそも自力で十分に狩りができるなら蛭の利用なんてしないだろう。
土の付着により可視化させた前足の動きに集中する。
先程の動き。蛭を射出するとき、魔物は動きを止めていた。
狙うならそこだ。蛭の射出を避けながら踏み込めばいい。闇雲に真っ直ぐ踏み込むよりは勝算も高いだろう。
直ぐに射出してこないあたり連射はできないはずだ。先程の一発だけで弾切れした可能性もあるため、ある程度近付かれた場合その時点で特攻する。
魔物が足を止める。
考えていた通り、魔物はそこでもう一度蛭を射出した。
私はそれと同時に、いや、それよりも少し前、動きが止まった瞬間に────ステップを踏んで斜めに距離を詰めていた。
蛭が頬のすぐ隣を飛んでいく。
怖くて仕方がない。この蛭だって、目にでも当たって摘出が遅れればそのまま脳まで食い破ってきそうだった。
「『ライト』」
呪文を詠唱する。
唯一、魔物に対する対抗策になり得そうだった────一切の殺傷力を持たない魔法。
『目眩し』だ。効果を確認する時間は無い。発動の瞬間だけ目を瞑り、すぐに魔法を解除して再度魔物を見据える。
魔物の前足が少し後ろに動く。
初めてだ。初めて、魔物が私に対して退いている。
そして、遅い。動きが鈍すぎる。この魔物は明らかに機動力に欠けていた。
透明化と蛭の出血に頼った狩りしかしてこなかったのだろう。私に攻撃手段が無ければそれでもきっと脅威だったが……私は『準備』をしてきていた。
腰に身につけたもう一つの武器────ボールペンを握る。
私の鞄に入っていたボールペン。
ただそれだけなら致命傷にはならないだろうが────私はこれに毒を塗っていた。
手記に記されていた、食べてはいけない植物。
そのうち一つは、生物を即座に死に至らしめる劇毒を持つものだった。
皮膚に接触した程度では問題無いが、ひとたび体内に侵入すれば微量で全身の神経を麻痺させる。
私はその植物を擦り潰し、ボールペンに塗り込んでいた。
鈍重な魔物の傷口はもう目の前にある。
私は傷口に向かって、思い切りボールペンを振り下ろした。




