第9話 失われる前提
削られているのは物だけではない。
その事実に気づいた瞬間から、世界の見え方が変わる。
湊はそれを、嫌というほど実感していた。
朝の教室。
黒板には今日の予定が書かれている。
だが湊は違和感に気づく。
(……これ、昨日も同じだったか?)
いや、違う。
“昨日があったかどうか”が曖昧だ。
「おはよう」
レイが席に座る。
表情が少し疲れている。
「ねえ湊……昨日のこと覚えてる?」
湊は答えようとして、止まる。
「昨日?」
その瞬間、頭の中に“空白”が混じる。
思い出せないのではない。
思い出すための土台が抜けている。
「……いや」
湊は首を振る。
「分かんねぇ」
レイは小さく息を吐く。
「だよね……私も途中から曖昧」
そのとき、九条が教室に入ってくる。
湊はすぐに聞く。
「なあ、昨日って何してた?」
九条は少しだけ間を置く。
「“昨日”という単位が揺れている」
湊は眉をひそめる。
「は?」
九条は続ける。
「日付や時間は“前提”だ」
「その前提が削られている」
レイが青ざめる。
「前提って……そんなのまで消えるの?」
九条は否定しない。
「余白税は“前提の維持コスト”でもある」
湊は机を軽く叩く。
「意味わかんねぇって」
九条は淡々と続ける。
「時間があること」
「昨日が昨日であること」
「同じ世界が続いていること」
「それらも全部“前提”だ」
沈黙。
湊はゆっくり言う。
「じゃあさ」
「今これも、続いてるって保証なくね?」
九条は静かに答える。
「保証はない」
その言葉が一番重かった。
昼休み。
廊下でレイが立ち止まる。
「ねえ……この学校ってさ」
「ずっと同じだよね?」
湊は頷こうとして、止まる。
(同じ……だっけ?)
その瞬間、頭の中で何かが抜ける。
「分かんねぇ」
湊はそう言うしかなかった。
そのとき九条が現れる。
「それが進行だ」
湊は睨む。
「進行って何がだよ」
九条は答える。
「前提の消失」
レイが震える。
「前提がなくなったら……どうなるの?」
九条は静かに言う。
「世界は“説明できない状態”になる」
湊は息を吐く。
「もうなってる気もするけどな」
九条は否定しない。
その日の放課後。
駅前。
湊は立ち止まる。
交差点の形が、ほんの少し違う気がする。
だが違う理由が説明できない。
「……おい」
湊は呟く。
「これもう、全部おかしいだろ」
そのときスマホが震える。
『余白税:前提崩壊領域へ移行』
湊は画面を見る。
「前提崩壊ってなんだよ……」
九条が静かに言う。
「ここから先は、普通の言葉では説明できない領域だ」
レイが小さく言う。
「じゃあ……どうやって理解するの?」
九条は少しだけ間を置く。
「理解する必要がなくなる」
湊は顔をしかめる。
「それ、終わりじゃねぇの?」
九条は空を見上げる。
「終わりではない」
「“前提がなくなった状態”だ」
その瞬間。
信号が一瞬だけ“色の意味”を忘れる。
赤と青が入れ替わるような錯覚。
だが次の瞬間には元に戻る。
誰も気づかない。
ただ湊たちだけが気づいている。
世界が少しずつ――
“当たり前を維持できなくなっている”ことに。
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