第3話 観測の違和感
“消えた一秒”という言葉は、翌日にはもう現実味を失っていた。
人は一度説明できないものを、すぐに「気のせい」に変換する。
湊もそれを分かっているはずだった。
それでも――確かに、昨日の駅前はおかしかった。
通学路。
湊はいつもより少しだけ遅く歩いていた。
理由は単純だ。
また“飛ぶ”のが怖かった。
世界が一瞬抜け落ちる感覚。
それは恐怖というより、“足場が信用できなくなる感じ”に近い。
「おはよう」
後ろから声がする。
九条だった。
相変わらず感情の読めない顔。
「昨日の、あれさ」
湊が切り出すと、九条は歩きながら答える。
「観測のズレだ」
「またそれかよ」
湊はため息をつく。
「ちゃんと説明しろって」
九条は少し間を置いて言う。
「同じ出来事でも、“見ているもの”によって違う」
「昨日のお前は“抜けた一秒”を見た」
「だが他の人間は見ていない」
湊は眉をひそめる。
「それってつまりさ」
「現実が人によって違うってことか?」
九条は否定しない。
「違う」
「“現実は一つだが、確定の仕方が違う”」
意味が分からない。
だが、完全に否定できない嫌な説得力があった。
その日の授業中。
湊は窓の外を見ていた。
特に意味はない。
ただ、嫌な予感がしたからだ。
その瞬間。
黒板の文字が、一瞬だけ“揺れた”。
歪んだわけではない。
消えたわけでもない。
ただ――
書かれている意味が、ほんの一瞬だけ分からなくなる。
「……は?」
湊は目を細める。
次の瞬間には普通に読める。
教師は何も気づいていない。
教室全体も普通だ。
だが湊だけが分かっていた。
これは昨日と同じだ。
“時間”ではない。
もっと根本的な何かがズレている。
放課後。
湊は九条を捕まえる。
「今日さ、黒板おかしかった」
九条は立ち止まる。
「どんなふうに」
「一瞬だけ、意味が分かんなくなった」
九条は少しだけ目を細める。
「観測が深くなっている」
「深いって何だよ」
湊の問いに、九条はすぐには答えない。
代わりにこう言った。
「“見える層”が増えている」
その言葉に、湊は引っかかる。
「層って何だ」
九条は空を見上げる。
「現実は一枚ではない」
「観測の深さによって、見えるものが違う」
湊は笑う。
「それ、もう現実じゃなくね?」
九条は否定しない。
そのとき、レイが不安そうに口を挟む。
「じゃあさ……どれが本当なの?」
九条は静かに答える。
「全部だ」
沈黙。
湊は頭をかく。
「全部ってなんだよ」
九条は続ける。
「ただし、同時には成立しない」
「だから“揺れる”」
その瞬間、湊の背中に冷たいものが走る。
昨日の駅前。
今日の黒板。
そして、今この瞬間。
全部が同じ構造で繋がっている気がした。
「なあ九条」
湊は言う。
「これ、放っておいたらどうなる」
九条は少しだけ間を置いて答える。
「世界は“固定できなくなる”」
固定できない世界。
それはつまり――
何も決まらない世界。
その言葉の意味を、まだ誰も完全には理解していない。
ただ一つだけ確かなのは。
この世界はもう、元の形を保っていないということだった。
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