第7話 前夜
夜。
空気が重い。
ローマの街は静かなのに、どこか張り詰めている。
まるで——
明日、何かが起きると知っているかのように。
俺は机に広げた書簡を見つめていた。
一通、また一通。
そのほとんどが、元老院議員からのものだ。
そして今なら分かる。
この中の何人かは、明日——
俺を刺す。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「……あと一日か」
ついに来た。
歴史の分岐点。
明日、俺は
ユリウス・カエサル暗殺
に向かう。
逃げれば助かる。
行けば死ぬ。
それだけの話だ。
だが——
「それで終わりか?」
俺は自分に問いかけた。
ここまで来て、ただ逃げるだけか?
それでは、この世界に来た意味がない。
その時だった。
扉がノックされた。
「入れ」
静かに開く。
入ってきたのは——
マルクス・ユニウス・ブルートゥス。
ブルートゥスは、昨日と同じように静かに頭を下げた。
だがその表情は、明らかに違っていた。
迷い。
苦悩。
そして——覚悟。
俺は椅子に座り直した。
「こんな時間にどうした」
ブルートゥスは少しだけ沈黙したあと、口を開いた。
「……最後に、確認したくて」
最後。
その言葉に、全てが詰まっている。
俺は彼を見つめた。
「何をだ?」
ブルートゥスは顔を上げた。
真っ直ぐな目だった。
「あなたは、本当に——」
一瞬、言葉を詰まらせる。
そして、はっきり言った。
「王になるつもりなのですか?」
静寂。
重い問いだった。
歴史の教科書で何度も見た構図。
共和政を守るか。
独裁へ進むか。
そしてこの問いこそが——
暗殺の理由。
俺はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり口を開く。
「もしそうだと言ったら?」
ブルートゥスの拳がわずかに握られる。
「……その時は」
彼は目を伏せた。
「私は、あなたを止めなければならない」
やはりだ。
この男は、裏切り者ではない。
信念で動いている。
俺は少しだけ笑った。
「では違うと言ったら?」
ブルートゥスは顔を上げた。
その目は揺れている。
俺は続けた。
「私はローマを守るために権力を持っているだけだ、と言ったら」
ブルートゥスは何も言えなかった。
迷っている。
完全に。
その姿を見て、俺は確信した。
この暗殺は——
まだ完全には固まっていない。
崩せる。
可能性はある。
だが同時に思う。
もしここで止めたら?
歴史は大きく変わる。
その先は誰にも分からない。
俺はゆっくり立ち上がった。
そしてブルートゥスの前まで歩く。
「ブルートゥス」
彼の目を見て言った。
「お前はどうしたい」
ブルートゥスの呼吸が乱れる。
そして、しぼり出すように言った。
「……分かりません」
本音だ。
この男は今、歴史の狭間にいる。
俺は静かに言った。
「なら——明日、決めろ」
ブルートゥスの目が大きく開く。
「明日、元老院で」
「お前自身が見て、判断しろ」
「ローマのために何が正しいかを」
長い沈黙。
やがてブルートゥスは、深く頭を下げた。
「……はい」
そして振り返らずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
俺は一人、立ち尽くした。
「これでいいのか……」
止めることもできた。
逃げることもできた。
だが俺は選んだ。
明日、元老院へ行くことを。
なぜかは分からない。
だが一つだけ、はっきりしている。
明日——
歴史は動く。
そしてその瞬間、俺は知ることになる。
この暗殺の本当の意味を。
夜は、静かに更けていった。




