第6話 三月十五日
朝。
ローマの空は、静かだった。
俺は目を覚ました瞬間に思い出した。
あと二日。
二日後のこの日、俺は
『ユリウス・カエサル暗殺』
で殺される。
俺はベッドから起き上がり、ゆっくり息を吐いた。
「逃げるか……」
その言葉は、ここ数日ずっと頭の中にある。
逃げるのは簡単だ。
元老院に行かなければいい。
それだけで、歴史は変わる。
だが——
俺は窓を開けた。
朝のローマの空気が流れ込む。
市場の声。
兵士の足音。
遠くで子どもが笑っている。
この街は、今日も普通に動いている。
誰も知らない。
二日後、このローマを揺るがす事件が起きることを。
そしてその中心にいるのが、俺だということも。
その時だった。
扉が勢いよく開いた。
「カエサル!」
振り返る。
そこに立っていたのは、背の高い男だった。
軍人のような体格。
鋭い目。
俺はすぐに名前を思い出した。
マルクス・アントニウス。
カエサルの腹心。
そして歴史では、暗殺後に復讐を誓う男だ。
アントニウスは眉をひそめていた。
「元老院で妙な動きがある」
俺の心臓が一瞬だけ強く跳ねる。
「妙な動き?」
アントニウスは声を低くした。
「カッシウスが、議員たちを集めている」
ガイウス・カッシウス・ロンギヌス。
やはりだ。
暗殺は確実に進んでいる。
アントニウスは続けた。
「念のため護衛を増やすべきだ」
「三日後の元老院会議も——」
俺は首を振った。
「必要ない」
アントニウスの目が細くなる。
「なぜだ」
俺は少しだけ笑った。
本当は理由なんていくらでもある。
歴史がそうだから。
暗殺が起きるから。
だがそんなことは言えない。
俺は窓の外を見た。
ローマ。
巨大な都市。
巨大な権力。
そして巨大な不満。
もし俺が逃げれば——
どうなる?
暗殺は失敗する。
だがその代わり、ローマはどうなる?
内戦?
粛清?
さらに大きな血が流れる可能性もある。
俺はふと思った。
もしかすると。
本物のカエサルは。
このことを理解していたのかもしれない。
だから逃げなかったのではないか。
アントニウスが言った。
「カエサル」
「あなたは何か知っているのか?」
俺は振り返った。
そして静かに答えた。
「いや」
「だが一つだけ分かることがある」
「何だ?」
俺は少し笑った。
「歴史は、簡単には変わらない」
アントニウスは怪訝そうな顔をした。
だがそれ以上は何も聞かなかった。
俺は空を見上げる。
三月十五日。
それが暗殺の日。
ローマではこの日を
イデスと呼ぶ。
そして俺はまだ知らない。
この暗殺の裏側にある——
本当の目的を。
暗殺まで、あと二日。
歴史は、静かに近づいていた。




