-金色の戦士- 第3話 残照
『サンシャーラ神話物語』
残照
「マイトレーヤ、ただいま……いないの?」
奥の部屋の扉を開けたキリークは、眉をひそめた。
いつもなら真っ先に出迎えてくれる弟の姿がない。綺麗に整えられたベッドが、かえってひどく冷たく見えた。
背後から、父のハミルが息をつく音が聞こえた。
「あいつなら、夕飯のおかずに魚を釣ってくると言って、街外れの川へ行ったぞ」
「まったく……一人で遊びに行ったら危ないって、いつも言っているのに」
呆れたように肩をすくめるキリークだったが、
その口元は微かに綻んでいた。
急いで荷を下ろし、身軽な格好に着替えると、「迎えに行ってきます」とだけ言い残して家を出る。
夕暮れのアヴァニアの街並みは、傭兵たちの活気と、商人たちが交わす異国の言葉で満ちていた。褐色の土壁が連なる路地を足早に抜けていくと、ふいに横道から声がかかった。
「おや、キリークじゃないか。そんなに急いで、またマイトレーヤの過保護なお姉ちゃんをしてるのかい?」
「あ……ミラさん。お久しぶりです」
声をかけてきたのは、籠いっぱいの果物を抱えたふくよかな女性だった。
キリークは立ち止まり、背筋を伸ばして丁寧に会釈をする。
彼女はかつて傭兵団『百色蠍』で名を馳せた、元・女性戦士のミラだ。
「国境の魔物討伐、お疲れさん。王宮じゃあ随分と浮かれてるみたいだけど……レムリア帝国の動きが不気味な時期だ。お前さんも、油断するんじゃないよ」
「はい、老師からもそのように。ミラさんも、どうかお気をつけて」
「ああ。可愛い弟にもよろしく言っておくれよ」
朗らかに笑って去っていくミラの背中を見送りながら、キリークの胸の奥に冷たい石のような感情が沈んでいくのを感じた。
(……ミラさん)
朗らかに笑って去っていく背中を見送りながら、キリークの胸の奥に冷たいものが沈んだ。
かつて21歳で傭兵団の第一線を張っていた猛者だった彼女は、7年前——当時13歳だったキリークの幼馴染、アシュヴィンとの手合わせで完敗したという。
虚ろな瞳と底知れない狂気を感じさせる槍捌きに、心を折られて剣を置いたと聞く。
(……戦士としての絶対的な頂点。それは、いつか必ず壁にぶつかる)
人より早く「頂」が見えてしまったことが、キリークには無性に恐ろしかった。
ミラのように、得体の知れない絶望の前に心を折られ、剣を置く日が自分にも来るのではないか——。
「——あっ! お姉ちゃん!」
不意に、少し舌足らずな、けれど太陽のように明るい声が風に乗って響いた。
顔を上げたキリークの視線の先。
夕日に照らされて黄金色に輝く川べりに、小さな背中があった。
10歳になる最愛の弟、マイトレーヤだ。
彼
マイトレーヤは手作りの釣り竿を放り出し、
満面の笑みでこちらに向かって大きく手を振っていた。
「マイトレーヤ!」
胸に渦巻いていた暗い不安が、嘘のように一瞬で弾け飛んだ。
キリークは戦士としての険しい顔を捨て去り、
一人の「姉」として、弾むような足取りで愛しい弟のもとへ駆け寄っていった。
「もう、一人で遠くまで行っちゃ駄目だって言ってるでしょ。何か釣れた?」
「うんっ! 見て見て、お姉ちゃん!」
マイトレーヤが自慢げに持ち上げた手製のビクの中には、彼の手のひらよりも少し大きな銀色の魚が数匹跳ねていた。
「すごいでしょう? お姉ちゃんとお父さんのために、夕飯のおかずを獲ろうと思って!」
「ふふっ、すごいすごい。でも、川べりは足場が滑るから気をつけてって……ほら、服も泥だらけじゃない」
キリークはしゃがみ込み、マイトレーヤの頬についた泥を指先で優しく拭った。
「えへへ、ごめんなさい。でもね、お姉ちゃんが帰ってくるまでに、どうしても釣りたかったんだ。お仕事、無事に終わった?」
「ええ。国境の魔物を退治してきたわ。怪我もしてないから安心して」
「よかったぁ……あのね、お父さん、ずっと家の前をウロウロしてたんだよ。お姉ちゃんが帰ってくるの、すっごく心配そうに待ってたんだから!」
マイトレーヤの無邪気な暴露に、キリークは思わず吹き出しそうになった。
あの厳格な『鋼の蠍』が、娘の帰還を待ちわびて落ち着きなく歩き回っていたのだ。
先ほどの家での態度は、照れ隠しだったのだろうか。
「そう……後でこっそり、からかってやらなきゃね」
「うん! ねえお姉ちゃん。僕も大きくなったら、お父さんやお姉ちゃんみたいに強い戦士になれるかな? そしたら、僕がお姉ちゃんを守ってあげる!」
その真っ直ぐで純粋な言葉に、キリークの胸の奥がじんわりと熱くなった。
「マイトレーヤは優しいわね。でも、あなたは戦わなくていいの。剣を握るのは、私とお父さんだけで十分だから」
「えー、どうして? 僕だって男の子だもん! それに、お姉ちゃんばっかり怪我したら嫌だ」
「ふふっ。マイトレーヤには、もっと違う強さがあるってお姉ちゃんは思ってるの。だから、あなたはそのまま、優しいマイトレーヤでいて」
キリークは、愛しい弟をそっと抱き寄せた。
彼から漂う川の水と太陽の匂いに、胸を覆っていた翳りが静かに溶けていくのを感じる。
この純粋な笑顔を守るためなら、才能の限界などを恐れることはない。
「さあ、帰ろうか。お父さんが、そのお魚を待ってるわ」
「うんっ!」
キリークはマイトレーヤの小さな手をしっかりと握り、夕闇が迫るアヴァニアの街並みへと歩き出した。
* * *
それから数日後——。
アヴァニアの街には、二つの噂が流れていた。
一つは、市井の些末な噂。
道に迷って行き倒れていたという「余所者」が、街の者に保護されたという。
様々な者が行き交うこの国では珍しくない話だが、キリークの耳に入ってきたその風体は、どうにも不穏だった。
商人だと名乗ったらしいが、商品らしき荷物は一切持っていない。おまけに全身を黒装束で包み、黒い布で顔を覆い隠しているという。素顔が完全に隠れているため、性別すら定かではないらしい。
そしてもう一つは、国を揺るがす軍事の噂。
正統同盟国であるレムリア帝国から、アヴァニア王宮へ「共同遠征」の要請が舞い込んだのだ。
はるか西方のピスパンニア王国――現在は帝国の『属州』となっているその荒野で、大規模な魔物の異常発生が確認され、帝国軍と共に鎮圧してほしいとのことだった。
提示された報酬は破格。
宮廷の重臣たちも、血の気の多い傭兵たちも、これを同盟の絆を深める絶好の「稼ぎ時」と信じて疑わず、アヴァニアの主力部隊はこぞって西の国境の果てへと出立することが決まっていた。
西への大遠征を数日後に控えた昼下がり。
キリークは、約束していた釣りへ行くため、マイトレーヤと手を繋いで街を歩いていた。
その時だった。
活気ある雑踏の向こう、路地の薄暗い影に、不自然に立ち尽くす一つの姿があった。
全身を黒装束で包み、顔の下半分を黒布で覆い隠した者。
周囲の風景から完全に浮き上がったその姿に、
キリークの足がぴたりと止まる。
直後――。
『――見つけた』
鼓膜を通さず、直接頭の奥を撫で回されるような、気味の悪い声。
キリークは弾かれたように周囲を見回したが、行き交う人々は誰も今の声に反応していない。
その声は、間違いなくキリークの頭の中にだけ響いたのだ。
再び路地へ視線を戻すと、黒装束の姿はすでに幻のように消えていた。
「……っ、マイトレーヤ? どうしたの!?」
繋いでいた小さな手が、小刻みに震えている。
見下ろせば、マイトレーヤは青ざめた唇で自分の腕を強く抱きしめていた。
「寒い……お姉ちゃん、すごく、寒いよ……」
夏の陽射しなど何の意味もない。弟の身体は、まるで氷のように冷え切っていた。
キリークは全身に走る悪寒をこらえ、その小さな肩を強く抱き寄せた。
そして、予定された遠征の日の朝。
正規兵『戦士』の鎧を身に纏いながら、キリークの胸中には、かつてないほどの不安が渦巻いていた。
あの日以降、街から姿を消した黒装束の者。
頭の中に直接ねじ込まれた、あの悍ましい声。
そして、マイトレーヤが見せた、魂ごと凍りつくような異様な反応。
すべての出来事が、不吉に結びついていた。
そこへ来て、アヴァニアの主力部隊を西方の果てへ追いやるかのような『共同遠征要請』だ。
(……前回の魔物退治もそうだった。まるで、私たちの戦力を測るような不自然な動き。そして今回の遠征……本当に、ただの偶然なの?)
戦士として研ぎ澄まされた直感が、何かが決定的に歪んでいると警鐘を鳴らしていた。
今すぐ遠征を辞退し、この場に残ってマイトレーヤを守り抜きたい。
それが、姉としての本心だった。
しかし『戦士』として、国王の勅命は絶対である。
責務と誇りが、彼女の足を縛っていた
父ハミルは王都の留守居役として残るが、娘のキリークに下されたのは出陣命令だった。
どれほど胸が騒ごうとも、背負った責務と誇りから逃げることは許されない。
「……キリーク。顔色が優れないな」
玄関先で荷物を背負う娘に、総隊長であり父でもあるハミルが、鋭くも案じるような声をかけた。
「……いえ、大丈夫です、父上。少し、寝不足なだけで」
キリークは努めて戦士としての表情を装い、深く一礼する。
その時、ハミルが無造作に懐から何かを取り出し、キリークの掌に押し付けた。
それは、代々この家で魔除けとして伝わる、年季の入った銀の護符だった。
「父上……これは」
「王都は俺が残って守り抜く。アヴァニアの防衛には、俺という壁があることを忘れるな」
ハミルは愛娘の顔を直視せず、不器用にそっぽを向いたまま付け加えた。
「……お前が守るべき日常は、俺が必ずここへ繋ぎ止めておく。だから、お前は前だけを見て戦ってこい」
その力強い言葉に、キリークの張り詰めていた心がわずかに震えた。
その後ろから、すっかり顔色を取り戻したマイトレーヤが小走りで駆け寄り、キリークの腰に力いっぱい抱きついた。
「お姉ちゃん、気をつけてね! 僕、おりこうにお留守番してるから!」
「ええ……いい子で待っているのよ、マイトレーヤ」
無邪気な笑顔を取り戻した弟の頭を、キリークは祈るような気持ちで撫でた。
(どうか、私の考えすぎであってほしい。次に帰る時まで、何事もなく笑っていてほしい)
「……行ってきます」
父と、いつまでも手を振る弟に見送られながら、キリークは銀の護符を胸元にしまい、振り返ることなく戦場へと歩み出した。




