-金色の戦士- 第37話 破神
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 破神
ドゥヴ・マーガリタは、まだ嗤っていた。
血の海に沈み、神格を維持できないほどの致命傷を負いながら。
そのいくつもある濁った瘴気の瞳には、敗北を認める色と、それを遥かに上回る狂信の光が、泥のように渦巻いていた。
「教えてやろう、人間の娘」
背後からの呪詛のような声が耳に入ってきたが、キリークは、マイトレーヤを抱きしめたまま振り返らなかった。
「五大国を崩したのは、我だ。レムリアの皇帝に甘い言葉を吹き込み、猜疑心を煽り、内側から国を腐らせた。守護石を巡って、矮小な人間どもが互いに殺し合うように仕向けたのだ。すべて、我が描いた盤面の上での出来事よ」
「……何ですって」
「そして、金色の男だ」
眷属神は、黒い血を吐き出しながら咳き込んだ。
「あの忌々しい人柱が、限界を迎えたのだ。千年の途方もない苦痛に、魂がすり減り、封印の檻そのものが脆くなっていた。だから、大破神を降ろすための、新しく、強靭な器が要った。何にも染まっていない、穢れなき、無垢な魂がな」
その凶悪な視線が、キリークの腕の中で眠る、小さな少年に向けられているのが分かった。
「その小僧のことだ」
キリークの腕に、ギリッと痛いほどの力が籠もった。
「お前たちは……」
キリークは、ゆっくりとマイトレーヤを地に寝かせ、立ち上がり、ようやく振り返った。
その瞳の奥で、青白い怒りの炎が静かに燃えていた。
「誰かを千年も人柱にしておいて……その封印が壊れかけたら、今度は化け物を呼び戻すための『器』として、私の弟を使うって言うの!? 人の命を、都合のいい道具みたいに!」
「道具ではない、供物なのだ」
眷属神は、微塵の罪悪感もなく平然と言い放った。
「我らが偉大なる主を現世へ迎え入れるための、絶対に必要な供物だ。何がおかしい。神の悲願の前に、矮小な命が費やされる。それが当然の理だ」
「全部おかしいのよ!」
キリークの怒声が、死界の空洞に激しく木霊した。その剥き出しの怒りに触れてなお、眷属神は――醜悪に嗤った。
「ならば」
ずるり、と。ドゥヴ・マーガリタの巨体が、不気味に震えた。
「器が奪われたならば……私が、最後の贄となろう」
「な……」
背後で防壁を維持していたラーナが、息を呑んだ。
「待て、ドゥヴ・マーガリタ! 何をする気だ!」
眷属神の巨体が、内側から激しく崩壊し始めた。
己の命の源である神格そのものを、どす黒い炎として燃やし尽くすように。
「我が神格を、命のすべてを捧げる! 大破神復活の、最後の供物としてな!」
「やめろ!」
ラーナの制止の叫びも、すでに遅かった。
ドゥヴ・マーガリタは、自らの神格を解き放った。
己の存在そのものを代償として。
次の瞬間――。
その場を満たしていた致死の瘴気と、夥しい血と、神力のすべてが、空間を歪ませながら一点に凝縮していく。
死界の最深部、破壊された祭壇のさらに奥……底知れぬ深淵へと、すべてを呑み込む黒い光が吸い込まれていった。
そして、そこに。
漆黒の真珠が、現れた。
大きさは、ほんの握り拳ほどしかない、つるりとした球体だった。
なのに、見上げるほどの巨峰を前にしたような、圧倒的な質量と重圧がそこにあった。
ただそこにあるだけで、魂の芯が急激に凍りつき、呼吸の仕方すら忘れてしまうような、絶対的な死の気配。
大破神ヴィヴァルタの、核であった。
広大な空洞が、水を打ったように静まり返った。
先ほどまでの血生臭い戦いの気配は、完全に消え去っていた。
代わりに、もっと根源的で、逆らうことなど到底不可能な『何か』が、その場を完全に支配していた。
黒真珠から、声が響いた。
それは、怒りでも、憎しみでもなかった。
ただ、果てしなく深く、光の届かない海の底のような、虚無の響きを持った声だった。
――なぜ、理を乱す。
音波としてではなく、キリークたちの魂に、直接その冷たい意志が流れ込んできた。
――千年、世界は保たれてきた。
――たった一つの犠牲で。それでよかったはずだ。
――なぜ、お前たちは、その平穏を乱す。
光の防壁を維持したまま、ラーナが一歩前に出た。
智慧を司る女神は、神話の当事者として、その問いに答えねばならなかった。
長く、自らが正しいと信じ、守り抜いてきた秩序のために。
「……世界を、守るためだった」
ラーナの声は、ひどく硬く、強張っていた。
「ヴィヴァルタよ。かつて創造主であったお前を封じねば、すべてが滅ぶ運命にあった。だから、五大国という防波堤を作り、金色の男を核とした封印を作った。それは、生ける者たちを残すために、必要なことだったのだ」
――そうだ。必要だった。
「ええ」
カザフィルも、絞り出すように続いた。
その声は、今にも泣き出しそうに苦しげだった。
「あの人の犠牲は……金色のあの人の犠牲は、決して無意味じゃなかった。あの人が独りで檻になってくれたから、世界は続いた。たくさんの命が、明日を迎えることができた。だから……」
カザフィルは、己に言い聞かせるように深く俯いた。
「無意味じゃ、ないのよ……」
――その通りだ。
黒真珠が、静かに応えた。
――あの男一人の犠牲で、世界は千年を得た。
――ならば今度は、その器ひとつで、我が帰還を成す。
――命とは、常に大いなる流れのために費やされるものだ。
ラーナは、唇を噛んだ。
その言葉のすべてを、否定することはできなかった。
金色のあの人は、確かに自ら封印の核となった。
その犠牲の上に、世界は長い時を生き延びた。
自分もまた、その上に立っている。
けれど。
「……違う」
かすかな声だった。
「それは同じではない」
ラーナは光の防壁を維持したまま、一歩前に出た。
「金色のあの人は、自ら選んだ。ヴィヴァルタを封じるために、その身を捧げた」
黒真珠が、不気味に脈打つ。
「けれど、マイトレーヤは違う」
黄金の瞳が、鋭く細められた。
「あの子は、自分の意志で選んだわけではない。ただ、あなたを呼び戻すための器として奪われただけだ。それは犠牲ではない」
ラーナは静かに言った。
「儀式の材料だ」
冷徹な神の念話が、空間を揺らして直接脳髄に響いた。
――同じことだ。
――ひとつの命が、大いなる流れのために用いられる。それ以上でも、それ以下でもない。
「違う!」
ラーナの声が、初めて震えた。
「私たちは、あの人の犠牲に甘えすぎた。だからといって、その過ちを繰り返していい理由にはならない」
――では、どうする。
――封印は解ける。世界は壊れる。
――他に答えがあるのか。
ラーナは答えられなかった。
ただ、静かにキリークへ視線を向ける。
「……この子は、神話の続きを認めに来たのではない」
その声は、どこか誇らしかった。
「奪われた弟を、返せと言いに来たのだ」
ラーナの言葉を引き継ぐように、キリークが一歩前へ踏み出す。
「返しなさい」
キリークは静かに言った。
それは叫びではなかった。
怒鳴り声でもなかった。
けれど、その声には、どんな神の宣告よりも重いものがあった。
「この子は、あんたの器じゃない」
――人間。
――封印は解ける。あの男の犠牲は尽きる。世界は再び、我が前に晒される。
――ならば新たな器を得ることに、何の不条理がある。
「全部よ」
キリークは、黒真珠を睨み据えた。
「全部、不条理よ」
直刀の切っ先が、ゆっくりと上がる。
「千年前に誰か一人を閉じ込めたことも。それを綺麗な神話にして、みんなが忘れたことも。今度は私の弟を器にしようとしてることも。全部、間違ってる」
――綺麗事だ。
――あの男は、自ら選んだ。世界のために、己を差し出した。
「そうかもしれない」
キリークは、低く答えた。
「でも、本当は嫌だったかもしれないでしょ?」
黒真珠の脈動が、わずかに乱れた。
「本当は、生きて帰りたかったかもしれない。誰かに止めてほしかったかもしれない。助けてって、言いたかったかもしれない」
キリークの声が、初めてかすかに震えた。
「それを誰も聞かなかった。神様たちも、人間たちも、世界を救った英雄だって言って、綺麗な話にした」
彼女は、マイトレーヤを庇うように一歩前へ出た。
「だから、今度は聞くわ」
燃えるような瞳が、黒真珠を射抜いた。
「この子は、あんたの器になりたいなんて言ってない」
キリークは、はっきりと言い切った。
「私の弟を返しなさい」
ピシリ、と。
黒真珠に亀裂が走った。
ヴィヴァルタの復活を完成させるはずだった黒い殻が、内側から軋み始めていた。
「な……」
ラーナが、信じられないものを見るように目を見開いた。
亀裂は、一本では終わらなかった。
ピシリ、ピキキキキ、と。
漆黒の表面を、まるで蜘蛛の巣のように、瞬く間に無数の亀裂が走っていく。
それは、ヴィヴァルタを解き放つ亀裂ではなかった。
マイトレーヤを器として呑み込み、完全な復活を成そうとしていた黒い殻が、内側から拒まれている音だった。
千年の間、ヴィヴァルタに抗い続けていた金色の男の魂は、最後の最後まで、その復活を拒絶していたのだ。
ひび割れの中から、目も眩むような純白の光が漏れ出した。
千年の間、封印の核としてすり減りながらも、なお絶望に抗い続けていた、ひとりの青年の魂の光が。
キリークの言葉は、最後の一押しに過ぎなかった。
神の理屈でもなく、女神の罪悪感でもなく。
たった一人、彼の痛みに寄り添い、彼の側から理不尽を怒ったその言葉が。
ヴィヴァルタの復活儀式に、決定的な罅を入れたのだ。
パァァァンッ! と。
耳を劈く破砕音と共に、黒真珠が完全に砕け散った。
だが、それは封印の終わりではなく、完全なる復活の失敗だった。
マイトレーヤを器として降臨するはずだった大破神の核が、器を得られぬまま、剥き出しの概念として死界の底に引きずり出された。
空洞を満たしていた死の瘴気が、吹き荒れる光の暴風によって一掃される。
そして、砕け散った黒真珠の中心から――ついに、それは顕現した。
大破神ヴィヴァルタ。
それは言葉や形では到底捉えきれない、巨大な概念そのものだった。
恐ろしく美しく、そして底知れなく、哀しい存在。
かつて、この世界に命の種を蒔き、世界を我が子のように愛し、そして、生あるものが避けては通れぬ『死』と『喪失』の事実に、誰よりも耐えられなかった創造神。
愛するものを滅びゆく苦しみから解放するためには、すべてを無に還すしかないと、巨大な絶望の果てに破壊神へと反転してしまった、悲しき神。
その神が、己を縛っていた檻が砕け、解放された光の先に立つ人間を見て、激昂した。
「貴様……!」
ヴィヴァルタの声が、死界の空間そのものを激しく震わせた。
「貴様は! 私に傷を付け、忌まわしき檻に封じ込めた、あの金色の男!」
神の巨大な瞳は、キリークの姿を捉えていた。
封印の檻を砕き、直刀を構えるその姿を、かつて己に最後まで抗い、刃を向けた金色の英雄の幻影と、完全に重ね合わせて。
だが、キリークは。
足元で眠るマイトレーヤを庇うように立ち、冷たく、ただ見下ろしてくるヴィヴァルタを見上げた。
そして、一切の熱を持たない声で、ただ一言、言い放った。
「人違いよ」
キリークの声は、氷のように冷たかった。
「私は、神話の英雄でも、あなたが怯える金色の男でもない。あなたに個人的な恨みもないし、神話の結末にも、封印の行く末にも、これっぽっちも興味なんかない」
ヴィヴァルタの巨大な瞳が、怒りと戸惑いに揺れた。
「私はただ、弟を迎えに来ただけ。それだけよ。さっさとそこをどきなさい」
「……ふざけるな」
ヴィヴァルタの声が、地鳴りのように低く沈んだ。
「私の封印を砕いておいて、興味がないだと? 貴様ら矮小な生き物が、また、私を忌まわしい檻に縛りに来たのだろう! 世界を守るなどという、その薄っぺらい正義を振りかざして!」
「だから、違うって言ってるでしょ」
キリークは、一歩、後ろに下がった。
眠る弟を、その小さな命を、何よりも優先して守るために。
ヴィヴァルタが、巨大な光の腕を振り上げた。
たったその一挙動だけで、空洞全体の空間が悲鳴を上げて軋んだ。
神の絶対的な力が、その掌に急速に収束していく。
すべてを原子の塵にまで還す、純粋な破壊の一撃が。
「ならば――まとめて、無に還るがいい!」
神撃が、放たれた。
黒い光の奔流。
それは、音もなく、ただ空間を削り取りながら迫ってきた。
ラーナとカザフィルが展開した防壁ごと、キリークと、その腕の中の弟を、跡形もなく消し飛ばそうとする致死の光。
避けられない。
弟を抱えたままでは、絶対に躱せない。
キリークは、左手に握っていた鞭を、迫りくる破壊の光の正面へと真っ向から叩きつけた。
炎と、破壊の光が、正面から激突した。
鞭が、悲鳴を上げるように軋んだ。
特殊な金属繊維が、神の力という絶対的な負荷に耐えきれず、限界まで張り詰める。
キリークは、弟を庇うように右腕を盾にしながら、左手一本で、歯を食いしばり、血を吐くような思いで神の一撃を受け止めた。
バツンッ! と。
鞭が、砕けた。
粉々に、弾け飛んだ。
雪山の山小屋で、古傷を抱えたガネフが物置から引きずり出してきて、「死なずに使え」と、不器用な優しさで託してくれた鞭。
飢えた魔獣から仲間を守るために戦い、アシュヴィンの猛攻をいなし、眷属神の腕を縛り上げ、ここまでキリークの命を幾度となく繋ぎ止めてくれた、大切な相棒。
それが、神の力に耐えきれず、完全に砕け散ったのだ。
破壊の光の軌道は、鞭の最後の抵抗によって辛うじて逸れた。
光は背後の黒曜石の壁を消し飛ばしたが、キリークとマイトレーヤは、無事だった。
代わりに、鞭が砕けた。
キリークは、少しだけ、目を見開いた。
砕け散った金属繊維が、火の粉のように宙に舞い、音もなく地へと落ちていく。
あの手に馴染んだ重さも、炎を纏う熱も、もう手の中にはなかった。
けれど。
キリークは、ただ静かな、覚悟を決めた戦士の目で、宙を舞うその残骸を、じっと見つめた。
そして、静かにその場に屈み込み、散乱する瓦礫の中からひとつの石だけを、拾い上げた。
赤金色の石。
火のファルサを宿す、彼女自身の触媒。
砕けた鞭の握りに嵌まっていたそのファルサだけが、傷一つなく、コロリと転がっていたのだ。
キリークは、ゆっくりと立ち上がった。
拾い上げた赤金のファルサを、無言のまま、愛用する直刀の柄の根本へと押し込んだ。
カチリ、と。
まるで最初からそこにあったかのように、ファルサが完璧に嵌まる。
次の瞬間、直刀の刃全体に、眩いほどの赤金の光が走り、熱を帯びた。
キリークは、赤金に輝くその刃を静かに見つめ、短く、力強く息を吐いた。
「これで十分」
「……無駄なことを」
ヴィヴァルタが冷酷に見下ろした。
「一人の犠牲で、千年が続いた。それが、この世界の唯一の正解だったのだ。お前たちは、その正解を、自らのエゴで壊そうとしている。何のために? 少数を救い、より多くの命が苦しむためにか? それが人間の愚かな選択か?」
神の理が、再び、重々しく語られた。
その時、沈黙していたラーナが、顔を上げ、静かに口を開いた。
「……事実だ」
その声は、過去の己を恥じるように、ひどく苦かった。
「私も、そう信じていた。一人の犠牲が、世界という大きな機構を守るのだと。それこそが、智慧を司る神としての、私の絶対の答えだった」
ヴィヴァルタが、その言葉に満足げに頷きかけた。
「だが」
ラーナの黄金の瞳が、力強く、ヴィヴァルタを射抜いた。
「私は、見たのだ。守護石の力も、神話の因縁も知らぬ人間の娘が……」
ラーナは、背中を向けて立つキリークを見た。
「どれほど理不尽に叩きのめされ、何度血を流し、絶望に突き落とされても、決して立ち止まることなく、再び立ち上がる姿を」
その声には、かつての冷たい威厳ではなく、確かな熱と確信が宿っていた。
「牢獄島の底で、初めてこの娘を見た時から、私はずっと、その背中を間近で見てきた。崖から落ちて死にかけ、谷底から這い上がり、幼馴染に刃を向けられ、愛する弟の偽物に刺され……それでも、こいつは、絶対に足を止めなかった!」
「それが、どうしたというのだ」
ヴィヴァルタが、理解できないとばかりに冷たく言った。
「立ち上がる者がいる、ということだ」
ラーナは、腰の剣を抜き放ち、堂々と構えた。
「お前の言う『苦しみと喪失だけの無慈悲な世界』に、それでも、大切なもののために剣を取る者がいる。私は、その事実を見た。だから……私はもう、お前のその停滞した理を、二度と信じない」
智慧の女神が、千年の呪縛を捨て、明確に反旗を翻した。
傍観者としてではなく、『戦う者』の立場から。
その背中を、ずっと見続けてきた最大の証人として。
カザフィルも、力強い足取りでキリークの横に並んだ。
「私はね、ヴィヴァルタ」
大悲の女神は、泣き出しそうな顔で、それでも微笑みながら語った。
「逃げている間に……人間の姿で、たくさんの人を見たわ」
ただの『カーサ』という子供として過ごした、あのかけがえのない日々を胸に抱いて。
「吹雪の夜に、私の手を握ってくれた人。自分のお腹も空いてるのに、温かいスープを分けてくれた人。明日には死ぬかもしれない絶望の中にいるのに、笑って私を撫でてくれた人……みんな、貧しくて、弱くて、泥だらけだった」
「だから、何だというのだ」
ヴィヴァルタが、苛立たしげに一蹴した。
「醜い生き物が、這いつくばって醜く足掻いていた。ただそれだけのことだろう」
「みんな、苦しかったわ」
カザフィルは、首を横に振った。
「でもね。あなたが言うような、ただ絶望して死を待つだけの命じゃなかった。人間は、自分より大切なものを持てるのよ。吹雪の中でも、魔獣の前に立って、世界のためなんかじゃなく、ただ大切なものを守るために生きようとしていたの」
カザフィルの瞳から、美しい涙がこぼれ落ちた。
「苦しくても、汚くても、明日が来るか分からなくても。それでも、誰かを愛して、生きたいって、みんな必死に願ってた……その命の輝きを、無意味だなんて、私はもう、絶対に言えない!」
大悲の女神が、『生きる人々』の立場から、神の巨大な絶望を完全に否定した。
「この世界には、苦しみしかないのだ!」
ヴィヴァルタが、空が裂けるほどの声で叫んだ。
それは、己の正しさを否定された神の怒りであり。
同時に、かつて世界を深く愛し、その命が滅んでいく事実にどうしても耐えられなかった、優しき創造神の、血を吐くような悲鳴でもあった。
「愛したものは、すべて滅ぶ! 美しいものは、必ず朽ちていく! ならば、いっそ、すべてを等しく無に還す方が、本当の慈悲だろう!」
「それでも、明日へ向けて剣を取る者がいる」
ラーナが、ヴィヴァルタの悲鳴に真っ向から応えた。
「それでも、誰かを愛して、抱きしめる者がいる」
カザフィルが、涙を拭いながら続いた。
そして。
「それでも……生きたいって願う者がいるのよ!」
キリークが、魂の底から叫んだ。
三つの強い声が、神の巨大な絶望の壁に、激しくぶつかった。
戦う者。
愛する者。
生きる者。
かつて自己犠牲という神話を肯定し、それに縋っていた二柱の女神は、もう、そこにはいなかった。
キリークの泥臭い生き様を通じて、彼女たちは明確に気づいてしまったのだ。
誰かの痛みに蓋をして、犠牲を美しい物語にしてはいけないのだと。
絶望に沈むヴィヴァルタ、ただ一柱に対して、人間のキリークと、ラーナと、カザフィル。
言葉と理屈で、神の絶望を否定することは、できた。
けれど、最後に、その絡みついた神話の呪縛をすべて断ち切る決定打は、理を知りすぎた女神たちには、どうしても撃てなかった。
それは、神の理や世界の秩序を超えた場所にある、身勝手で、純粋な力だった。
弟を取り戻すためだけに、世界の命運たる守護石すら、躊躇いなく投げ捨てた。
神にも、女神にも、絶対にできなかったこと。
ただ一人の、傲慢な人間の姉にしか、撃てない一撃だった。
キリークは、マイトレーヤを、そっと冷たい地に横たえた。
ラーナとカザフィルが命懸けで展開する光の防壁の、一番安全な内側に。
そして、赤金の炎を宿した直刀を、両手で固く握りしめた。
「あなたの言いたいことは、分かったわ」
キリークは、静かにヴィヴァルタを見上げた。
「世界が苦しい、って。愛したものが滅んでいくのを見るのが、耐えられない、って……うん。きっと、本当に、耐えられないくらい、つらかったんでしょうね」
その声に、神の孤独に触れた、わずかな哀れみがあった。
けれど、それだけだった。
同情で、足を止める気は毛頭なかった。
「でもね。あなたの勝手な絶望に、私たちの明日まで、付き合わせないで」
キリークは、直刀の切っ先を真っ直ぐに神へと向けた。
その傲慢なまでの生の意志に、ヴィヴァルタの巨大な瞳が揺れた。
「なぜ足掻く!」
神の悲痛な叫びが、死界を激しく震わせた。
「なぜ生きる! この先にあるのは、私が味わったような果てのない苦痛と喪失だけだと、まだ分からぬか!」
「生きたいからよ!」
キリークの怒声が、神の声を真っ向から弾き返した。
「生きれば、苦しいぞ!」
「知ってる」
「手に入れた端から、すべてを失うぞ!」
「知ってるわよ!」
ヴィヴァルタの周囲の空間が歪み、神の力が極限まで収束した。
最後の、絶対的な破壊の一撃。
死界の底どころか、世界の一部を削り取るほどのエネルギーが、放たれようとしていた。
「……死ぬぞ」
ヴィヴァルタが、死刑宣告のように低く言った。
「私に刃を向ければ、神の力に触れれば、お前のその脆い体など、魂ごと塵となって消滅する。お前は、死ぬ」
「それでもよ!」
キリークは、地を蹴り、駆け出した。
赤金の炎を極限まで纏った直刀を、上段に振りかぶる。
限界を超えた体。
痛む脇腹も、砕け散った鞭も、関係なかった。
手首には、カーサの腕輪が、熱く、確かに脈打っていた。
背中には、ラーナとカザフィルが展開する絶対の守りがあった。
腕の中には、ほんの数秒前まで、必死に探し求めた弟の温もりが、確かにあったのだ。
その全部を。
自分の生きてきたすべてを、この一太刀に乗せる。
赤金色の炎を纏うキリークの姿を見たヴィヴァルタの脳裏に、千年前の記憶が蘇る。
「あの時も、貴様はそうやって、私に金色の刃を向けて……!」
遥か遠い昔。
圧倒的な神の力にも怯むことなく突き進んできた、あの金色の男。
そして、今また、赤金色の炎を纏ったキリークの姿に、ヴィヴァルタの破壊の力が一瞬弱まった。
「あなたの絶望で……」
神の破壊の光と、赤金に輝く直刀の刃が、空間の中心で激突した。
「私たちの明日を、塞がせない!」
最後の一太刀が、神の理そのものを断ち切るように、真っ向から振り下ろされた。
人と、神の意志が、完全に衝突した。
死界の底が、白く……音も、時間も、すべてを白紙に塗り潰すほどの、圧倒的で暴力的な閃光に、完全に包み込まれた。
ヴィヴァルタが、その一撃で打ち倒され消滅したのか。
千年間苦しみ続けた金色の英雄の魂が、ついに檻から解放され、安らかな天へと還っていったのか。
誰にも、見えなかった。
そんなことは、キリークにはどうでもよかった。
視界を奪うほどの光の中で。
キリークは、見届けようとはしなかった。
光の向こう側を、振り返りもしなかった。
何も見えない真っ白な世界の中。
折れた直刀を投げ出し、ただ、地にしゃがみ込んでいた。
直刀に装着していた赤金の石――火のファルサは、役目を終えたかのように、灰となって光の中に散っていった。
横たわった弟のもとへ手探りで駆け寄り、その小さな体を、きつく、きつく、抱き寄せて。
神話がどう終わろうが、神々の因縁がどこへ流れようが。
腕の中にある、確かな体温。
キリークの胸に押し当てられた小さな背中から伝わる、トクン、トクン、と、規則正しく波打つ、命の鼓動。
それだけを、祈るように確かめていた。
「……マイトレーヤ」
キリークは、弟の癖のある柔らかい髪に、泥だらけの頬をすり寄せた。
深く眠ったままの弟は、答えなかった。
それでも、驚くほど温かかった。
生きていた。
生きて、彼女の腕の中に帰ってきた。
それで、よかったのだ。
本当に、ただ、それだけで、よかったのだ。
神話の終焉を告げる光が、世界を優しく満たしていく。
そのすべてを包み込む白い光の中で、キリークは、ただ愛する弟を抱きしめていた。
壮大な神話の終わりではなく。
たった一つの、何よりも愛おしい確かな体温を、強く、強く抱きしめた。
それが、キリークにとってのすべてだった。




