-金色の戦士- 第36話 抗理
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 抗理
スタンレイの頂は、世界の終わりのような場所だった。
アルフェン山脈の最高峰。
雲すら足元に遥か深く沈み、空はどこまでも昏く、濃紺から漆黒へと色を深めている。
空気は刃のように薄く凍てつき、息を吸い込むたびに肺が内側から千切れるような痛みを伴った。
キリークは、ラーナとカザフィルに付き添われ、その頂へと立った。
荒い呼吸が白い煙となって散っていく。
脇腹の傷は、カザフィルの治癒の光が塞いでくれた。
だが、失われた血と抉られた肉の痛みまでは消え去ってはいない。
動くたびに内臓を捻り上げられるように疼く。
偽物のマイトレーヤに、刺された傷だった。
愛する弟と同じ顔で、同じ声で、『お姉ちゃんなんて大嫌いだ』と吐き捨てられた。
あれが眷属神の用意した空っぽの器だと分かっていても、呪いのようなあの言葉は、まだ胸の奥底で泥のように沈み、今もキリークの心を疼かせている。
それでも、キリークは立ちあがった。
本物のマイトレーヤは、まだ、この先にいる。
キリークは、血と脂で汚れた直刀の柄を、強く握り直した。
頂の中心に、それはあった。
ぽっかりと口を開けた、底の見えない暗闇。地の底へ――いや、世界の裏側へと続くような、空間そのものを切り裂いた黒い裂け目。
死の国への、入口だった。
「……見えるか、キリーク」
横に立つラーナが、その裂け目を見下ろしながら静かに言った。
「サンシャーラに生きる全ての生物は、死ぬと魂になり、ここから冥府へと旅立つ。ここは、この世界に生まれた命が最後に行き着く、絶対の終着点だ。見えなくとも、無数の魂が今もこの裂け目へと吸い込まれ、流転の渦へと落ちていっている」
「……」
「生者がここを越えれば、その魂の激流に呑まれ、二度と帰れない。ただの一度たりとも、例外はない……それでも、進むか?」
近づくと、その暗闇の奥から、冷たい風とともに意志そのものが直接頭に流れ込んでくるような感覚があった。
死界の底が、生きた魂を欲して口を開けているのだ。
キリークは、暗闇を真っ直ぐに見据えた。
ふと、いくつもの顔が脳裏をよぎった。
港町で、いつか必ず姉弟で戻ってくると信じて待っているファンネリア。
崩落の底へ、自分を庇って消えていったガル――いや、あの男はあんなところで死ぬタマじゃない。
きっと、どこかでしぶとく生きている。
ベルク村で、気丈に生贄としての運命を受け入れたエルザ。
かつて、アシュヴィンの底知れない恐怖を感じ、一度は剣を置いたけれど、恐怖を乗り越えて再び立ち上がったミラさん。
遺跡の前で天球儀を抱え、お主は本当に無茶ばかりだと頭を抱えていたアーシャさん。
谷底の山小屋で、薪を割りながら無愛想に笑うガネフと、足元にすり寄ってきたヴォルクの重い頭。
あの人たちのいる、温かく、泥臭く、愛おしい世界。
帰る場所が、ある。
「帰るに決まってる」
キリークは、はっきりと言い切った。
その声に、迷いは一欠片もなかった。
「冥府だろうが神話の底だろうが関係ない。絶対に生きて帰る。マイトレーヤを連れて」
返事は、なかった。
ただ、暗闇が、その傲慢な生者を試すように深く広がった。
キリークは、躊躇なくその暗闇へ足を踏み入れた。
死界は、ただひたすらに暗く、冷たかった。
光のない坂道を、三人は無言で下っていった。
足元に岩の感触はあるのに、まるで虚無の中を歩いているようだった。
時間の感覚も、距離の感覚も、曖昧に溶けていく。
一歩進むごとに、魂の輪郭が削り取られていくような重圧がのしかかる。
その永遠にも思える道中で、不意にラーナがぽつりと口を開いた。
「キリーク。お前に、話しておくことがある」
「神話の昔話なら、今は興味ないわよ」
「聞け」
ラーナの声は、いつもより硬く、どこか絞り出すようだった。
「この先で、お前が向き合うものに関わる……いや、向き合わねばならない真実だ」
キリークは、足を止めなかった。
だが、耳は傾けた。
「大破神ヴィヴァルタを封じたのは、五人の英傑――サンシャーラの民であれば、誰もがそう語り継いできた」
ラーナは、暗闇を見つめたまま続けた。
「だが、それには隠された真実がある。五人では、あの絶対的な破壊の力を封じ込めることはできなかった」
「……隠された真実?」
「最後に、六人目がいたのだ。金色の髪をした、一人の英雄が。その者が、自らの魂を捨て……人柱となって、初めて封印は完成した」
キリークの足取りが、ほんの少しだけ遅くなった。
「人柱……」
「己の魂を、封印の核に縛りつけたのだ。永遠にだ。たった独りで、神の破壊衝動を内側から押さえ続けるために、自らを永遠の檻とした」
カザフィルが、悲痛な声でその後を引き取った。
「残った五人は、その犠牲を隠したわ」
「隠した?」
「ええ」
カザフィルは静かに頷いた。
大悲の女神である彼女の顔には、拭い去れない罪悪感が刻まれていた。
「六人目の存在を、歴史の記録から完全に消し去ったの。封印の核に、誰も近づけないように。真実を知る者が、その哀れな人柱を解放しようとしないように。彼を、忘却の彼方に置き去りにした」
「五大国も、守護石も」
ラーナが、自らを断罪するように言った。
「すべては、その封印を守るための『防波堤』として作られたものだ。お前たちが生きる世界の秩序そのものが、たった一人の犠牲を隠蔽するための、巨大な蓋だったのだ」
キリークは、歩きながら、それを聞いていた。
五人の英傑の神話。
世界中の誰もが知る、美しく、誇り高い英雄譚。
その裏で、たった独り。
誰にも知られず、誰にも感謝されず、千年も。
「……その六人目が、カーサが言っていた、金色のあの人?」
「ええ……」
カザフィルが頷く。
キリークの脳裏に、雪山の小さな小屋での記憶が蘇る。
「あの子、世界のために命を捨てた人だって言っていたわ。まるで、直接その英傑を見たことがあるみたいに」
「ええ……私自身も、あの人の犠牲を見届けてきた側だったから」
カザフィルの顔に浮かんだ深い罪悪感に、キリークはギリッと奥歯を噛み締めた。
キリークの声が、這いずるように低くなった。
「その人は、今も?」
「ああ」
ラーナが重く頷いた。
「今も、封印の核で、独り、暗闇の中で苦しみ続けている。千年の間、ずっとだ」
しばらく、重苦しい沈黙が落ちた。
暗闇を下る足音だけが、虚ろに響いていた。
やがて、ラーナが言った。
「眷属神――ドゥヴ・マーガリタの狙いは、それだ」
「マイトレーヤが、どう関わるのよ」
「人柱となった魂が、限界を迎えつつある。千年の途方もない苦痛に、自我がすり減って」
ラーナの声に、かつてない緊張が滲んだ。
「封印が、内側から崩壊し始めている。だからドゥヴ・マーガリタは、新しい器を用意しようとしているのだ。大破神を降ろすための、無垢な器を」
キリークの足が、ピタリと止まった。
「それが……マイトレーヤ」
「そうだ」
暗闇の中で、キリークの拳が、爪が掌に食い込むほど固く握られた。
「無垢で、まだ何にも染まっていない魂。大破神ヴィヴァルタを降臨させるための、強靭で新しい依り代として」
カザフィルが、泣きそうな声で言った。
「あの子は、そのために攫われたの。神話の都合で、次の犠牲者にするために」
キリークは、しばらく、黙っていた。
息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
それから、暗闇に向かって口を開いた。
「ねえ。確認させて」
声は、奇妙なほど静かだった。
けれど、その奥底で、マグマのような抑えきれない熱が沸騰していた。
「つまり、この世界はずっと……誰か一人を、永遠の地獄に閉じ込めて、その上に成り立ってきたってこと?」
「……結果として、そうなる」
ラーナが、答えた。
「で、その犠牲者がもう限界で封印が解けそうだから、今度は私の弟を、大破神とかいうやつの復活のために攫ったの?」
「ドゥヴ・マーガリタは、そう企んでいる」
キリークは、ゆっくりと振り返った。
「そんなの、間違ってるわ」
はっきりと、吐き捨てるように言い切った。
ラーナとカザフィルが、わずかに目を見開いた。
「神話だとか、封印だとか、知ったことじゃない。誰か一人を永遠に苦しませて、それを隠して、その上で皆が安心して暮らしてる世界なんて、とっくに壊れてるじゃないの」
「キリーク」
ラーナが、神としての威厳を保とうと低く言った。
「言葉を慎め。それは……この世界と、名もなき命たちを守ってきた、尊い犠牲なのだ。彼が自ら望んだことなのだ」
「尊くなんかない!」
キリークの怒声が、死界の底に反響した。
暗闇の中で、その瞳が、燃えるような怒りに爛々と輝いていた。
「誰かが勝手に『尊い』って言ってるだけでしょう! 苦しんでるのはその人なのに、痛くない場所にいる側が、美しい話みたいに語っていいわけないじゃない!」
ラーナもカザフィルも、ただ沈黙するほかなかった。
「そのうえ、封印が壊れかけている隙を狙って、マイトレーヤを攫った」
キリークの声が、低く沈んだ。
「世界を守るためじゃない。誰かを救うためでもない。大破神を、この世に呼び戻すための器にするために……」
その唇が、怒りに震えた。
「……ふざけないで」
キリークは、吐き捨てるように言った。
「その人を千年も閉じ込めてきたことも、それを綺麗な神話にしてきたことも、今度はマイトレーヤを化け物の器にしようとしていることも……全部、間違ってる」
ラーナは、何も言い返せなかった。
常に正しさを説き、厳格を貫いてきた智慧の女神が、人間の娘の剥き出しのエゴを前に、初めて言葉に詰まった。
カザフィルが、そっと目を伏せた。
彼女もまた、長くその犠牲を、肯定してきた側だった。
大悲の女神として、世界の平穏を見守りながら。
たった一人の犠牲の上に成り立つ、そのいびつな平穏を。
けれど、カーサとして。
あの吹雪の夜、人間の温もりに触れた、ひとりの子供として。
キリークの言葉が、氷のように冷たかった胸を、ひどく熱く刺した。
「……あなたは」
カザフィルが、ぽつりと言った。
「ほんとうに、変わらないのね」
「何がよ」
「世界の理屈より、目の前の一人を選ぶ。いつだって」
その声には、咎める色は一切なかった。
むしろ、神である自分たちがとうの昔に失ってしまった、ひどく眩しいものを見るような響きがあった。
「私はね、ずっと、仕方のないことだと思っていたの」
カザフィルは、懺悔するように静かに続けた。
「大きなもののために、小さなものが犠牲になる。それが、世界の形なのだと……」
キリークは、再び前を向き、吐き捨てるように言った。
「小さくないわ」
「え?」
「その『小さなもの』にも、名前があって、顔があって、一緒に泣いてくれる家族がいて、帰る場所があった人なんでしょう? だったら、小さくなんかない」
カザフィルは、息を呑んだ。
ラーナも、黙ったまま、キリークの細い、けれど絶対に折れない背中を見つめていた。
三人は、再び歩き出した。
暗闇は、まだ続いていた。
死界の底は、まだ見えない。
けれど、キリークの足取りに、もう迷いはなかった。
神話も、封印も、六人目の英雄も。
全部、マイトレーヤへ辿り着くまでの道の上にあった。
キリークが向かうのは、世界の救済ではない。
誰かのためでもない。
ただ、たった一人の弟のために、ここまで来たのだ。
「待ってて、マイトレーヤ」
キリークは、暗闇の奥へ、自分に誓うように小さく呟いた。
「今、迎えに行くから」
その手首で、カザフィルから託されたカーサの腕輪が、死界の闇の中でも、かすかに、確かな熱を帯びていた。
死界の底は、唐突に開けた。
暗闇を下りきった先に、広大な空洞があった。
岩肌は濡れたように黒く、見上げても天井は見えない。
その中心に――黒曜石でできたような、不気味な祭壇があった。
円形の石の祭壇。
その周囲を、五つの光が囲んでいた。
火、水、風、地、そして空。
五つの守護石が、それぞれの色に禍々しく脈動しながら空中に浮かび、互いに共鳴して魔法陣のような光の輪を描いていた。
そして、祭壇の中心に。
ひとりの少年が、横たわっていた。
キリークの呼吸が、止まった。
「……マイトレーヤ」
今度は、偽物ではなかった。
わずかに開いた口元。
その癖のある髪。
何度も何度も手ぐしで寝癖を直してやった、小さな頭。
間違えるはずがない。
血の繋がった、本物の、たった一人の弟がそこにいた。
深く、暗い眠りの中に。
駆け寄ろうとしたキリークの肩を、ラーナが強い力で掴んで制した。
「待て」
祭壇の傍に、それが立っていた。
ドゥヴ・マーガリタ。
大破神ヴィヴァルタの眷属神。
だが、その様子は、ひどく苛立っていた。
「おのれ……なぜ降りてこぬ……!」
ドゥヴ・マーガリタは、祭壇の少年を睨みつけていた。
五つの守護石が共鳴し、降臨の儀式は最終段階まで進んでいるはずだった。
なのに、大破神の降臨が始まらない。
少年の体が、時折淡く光を放っては、それを撥ねつけるように激しく明滅していた。
「この小僧の魂……無意識に、我らが主の力に抵抗しおる……!」
ドゥヴ・マーガリタが、忌々しげに歯軋りした。
「ただの器の分際で! 眠りながら、なお、大破神の降臨を拒んでいるというのか……忌々しい人間め!」
キリークの胸が、ぎゅっと熱くなった。
眠りの中でさえ。
意識もないまま。
マイトレーヤは、抗っていた。
大好きな姉の顔を忘れまいと、神に魂を塗り潰されることを、必死に拒絶していたのだ。
ドゥヴ・マーガリタのいくつもある濁った眼球が、キリークたちを捉えた。
「……ほう」
その瘴気が、ぞわりと膨れ上がった。
「来たか、人間の娘。それに、我らが主に逆らった愚かな女神共。ちょうどいい。降臨の力が足りぬのだ。貴様らの魂も――まとめて生贄にしてやろう!」
ドゥヴ・マーガリタが、両腕を大きく広げた。
空洞全体を満たすほどの、濃密な死の瘴気が、真っ黒な津波となって押し寄せてきた。
触れれば骨まで腐り落ち、生者の魂を根こそぎ刈り取る、死そのものの波。
「キリーク、下がれ!」
ラーナとカザフィルが、瞬時に動いた。
二柱の女神が、己の全神力を解放する。
ラーナの黄金の闘気と、カザフィルの清浄な白の光が交差し、キリークを包み込む半球形の強固な防壁を展開した。
ドシャァァッ! と、死の瘴気が防壁に激突し、阻まれて激しい渦を巻く。
「これは……っ」
ラーナが、歯を食いしばり、苦悶の声を漏らした。
「死界そのものが、生者の魂を喰らおうと同調している。防壁を、片時も緩められん……!」
「私たちは、ここから動けないわ」
カザフィルが、額に汗を滲ませながら叫んだ。
「あなたを、この死界の泥から守るだけで精一杯……一緒に戦ってあげられない!」
女神たちは、防壁の維持に全力を注がねばならなかった。
一瞬でも気を抜けば、キリークの生身の魂は死界に喰われ、灰となって消える。
それを防ぐために、二柱の神は、その場に縫い止められた。
戦えるのは、キリークだけだった。
五大国を繋ぐ守護石の力もなく。
女神の直接的な加護も、防壁に割かれて使えない。
ただ、悲鳴を上げる生身の体と、手の中にある武器だけで、神に挑まねばならない。
キリークは、光の防壁の中で、ゆっくりと直刀を抜いた。
もう一方の手で、腰からガネフの鞭を引き抜く。
鞭の柄に埋め込まれた赤金の石が、持ち主の闘気に呼応するように、ドクン、ドクンと心臓のように脈打った。
「それで十分よ」
短く呟いて、キリークは防壁の外へ――致死の濃度を誇る死界の瘴気の中へ、躊躇なく踏み出した。
「キリーク!?」
カザフィルが悲痛な顔で、思わず手を伸ばす。
「大丈夫」
キリークは、振り返らずに言った。
「私の魂、こんなやつにくれてやる気はないから」
キリークが踏み出すと、防壁の一部が薄い膜となってその体に貼りついた。
ラーナとカザフィルは、その膜を維持するだけで精一杯だった。
ドゥヴ・マーガリタが、腹の底から嗤った。
「愚かな! 守護石もなく、神の加護も受けず、我に挑むか! 己の矮小さを思い知れ!」
「うるさい!」
キリークは突進しながら怒鳴った。
「神話も、封印も、後よ!」
キリークは、祭壇へ向かって地を蹴った。
立ちはだかる瘴気の波を、炎を纏ったガネフの鞭で強引に薙ぎ払いながら、一直線に突進する。
「まずはマイトレーヤを返しなさい! 世界の話なら、その子を抱きしめてから聞いてやるわ!」
ドゥヴ・マーガリタが、激昂した。
「神を、愚弄するな人間ッ!」
無数の攻撃が、キリークへ向かって襲いかかってきた。
地面から突き出す死の槍。
空を埋め尽くす瘴気の塊。
触れれば肉が腐る呪詛の雨。
四方八方から、絶え間なく、息をつく暇すら与えずに。
だが、キリークは止まらない。
歴戦の勘と、死線を潜り抜けてきた本能が、彼女の体を導いた。
足元から迫る死の槍を、半歩の踏み込みで躱す。
頭上から降り注ぐ瘴気の塊を、直刀の冴え渡る斬撃で斬り払う。
見えない呪詛が届くより早く、その軌道から身を捻って加速する。
雪山でガネフに叩き込まれた、死の淵を歩くような足裁きと間合いの読み。
ガルと共に駆け抜けた、数えきれない戦場での生存本能。
牢獄島で培った、暗闇の中での直感。
これまでの旅のすべてが、今、この一歩を前に進めるためにあった。
「なぜ当たらぬ!」
ドゥヴ・マーガリタが、焦燥の声を上げた。
「なぜ、絶対なる神の力が、ただの人間に届かぬ……!」
「ただの人間だからよ!」
キリークは、分厚い瘴気の壁を直刀で真っ二つに割り、なおも前へ出た。
「あなたたちは、いっつも勝手に決めるのよね! これは尊い犠牲だ、これは世界のためだ、これは救済だって! でも、私は違うのよ!」
右腕を振り被り、炎の鞭を、猛禽のように振るった。
火のファルサの残滓を纏った鞭が、ドゥヴ・マーガリタの太い腕に蛇のように巻きつき、その動きを強引に縛り上げる。
「目の前の、たった一人の弟! それだけのために、ここまで来たの!」
「ギィィィッ!」
ドゥヴ・マーガリタの巨体が、鞭の炎に焼かれ、たまらずよろめいた。
そのがら空きになった懐に、キリークは弾かれたように飛び込んだ。
「お前たちの理屈なんか!」
直刀を、上段に構えた。
痛む脇腹から血が噴き出すのも構わず、全身のバネと、魂の熱量のすべてを刃に込める。
手首のカーサの腕輪が、熱く、熱く輝いた。
「知ったことじゃ、ないのよッ!」
ドゥヴ・マーガリタは策を弄する神だった。
盤面の外から王国を腐らせ、人間を狂わせ、封印を削る神。
だが、目の前から一直線に斬り込んでくる、怒れる姉を止める術を、彼は持たなかった。
神の理屈を蹴散らす、怒れる人間の姉の一撃が、ドゥヴ・マーガリタの醜悪な巨体を、袈裟懸けに深々と斬り裂いた。
渾身の一太刀。
「ガ、アアアァァァッ!?」
硬質な肉を断つ嫌な音と共に、黒い血が噴水のように噴き出し、ドゥヴ・マーガリタの巨体が、ぐらりと傾いだ。
そして……ズドォォン! と地響きを立てて、その場に無様に崩れ落ちた。
空洞を満たしていた瘴気が、主を失い、急速に薄れていく。
キリークは、倒れて痙攣するドゥヴ・マーガリタを、もはや一瞥もしなかった。
直刀を握りしめたまま、血に塗れた足で、祭壇へと駆け寄った。
マイトレーヤが、そこにいた。
儀式が止まったことで、空中に浮かんでいた五つの守護石が、力を失って地面に転がり落ちる。
眠ったまま。
けれど、確かに、息をしていた。
胸が、規則正しく上下している。
神を拒絶していた淡い光は消え、ただ、ひとりの普通の少年が、静かに眠っていた。
キリークは、祭壇にすがりつくように崩れ落ち、膝をつき、その小さな体を抱き上げた。
温かかった。
自分を刺した、あの偽物の、氷のように冷たい空っぽの器とは違う。
脈を打つ、確かな命の温もりが、キリークの腕の中にあった。
「……マイトレーヤ」
声が、情けないほど震えた。
何ヶ月も、追い続けた。
港町で奴隷船の行方を追った時の焦燥。
生贄を求める魔物を斬り伏せた夜。
日のささない牢獄島の奥底まで探し求め、それでも手が届かなかった時の無力感。
自然神の理不尽な試練にも耐え、絶望的な戦いを跳ね除け、崖から落ちて、谷底で拾われて、雪に閉じ込められて、死人と戦って、幼馴染を斬って、偽物に刺されて。
もう、何度も心が折れそうになった。
それでも、ここまで来た。
全部、この小さな温もりのためだった。
「生きてて……くれたなら」
キリークの瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
マイトレーヤの癖毛に顔を埋め、抱きしめる腕に、痛いほどの力が籠もる。
「それで、いいの……それだけで、いいの……!」
マイトレーヤは、目を覚まさなかった。
長すぎる負担のせいか、深い眠りの中で、ただ、姉の腕の中に身を預けていた。
それでも、キリークは、声を出して泣きながら、確かに微笑んだ。
世界で一番の宝物を、ようやく取り戻したのだ。
その、背後で。
血の海に沈み、完全に絶命したかと思われていたドゥヴ・マーガリタが、不気味に、嗤い始めた。
「……くく、く」
ボコッ、ボコッと、黒い血を吐き出しながら。
神格を維持できないほどの致命傷を負いながら。
それでも、その狂気は消滅していなかった。
「見事だ……人間よ」
キリークは、振り返らなかった。
弟をきつく抱きしめたまま、その呪詛のような声を背中で聞いた。
「まさか、己の意志ひとつで……我ら神の盤面を、こうも見事に、ことごとく叩き壊すとはな」
ドゥヴ・マーガリタの声は、敗北を認めていた。
心の底から、キリークという人間の、常軌を逸した規格外のエゴと強さを。
「守護石も、加護もなく……ただ、弟を返せと……それだけで、ここまで……」
ヒュー、ヒューと、肺から空気が漏れるような嗤い。
「だが」
その濁りきった瘴気の瞳が、死の間際に、ぎらりと狂信の光を放った。
ドゥヴ・マーガリタの視線は、もはやキリークには向けられていなかった。
祭壇の、さらに奥。
死界の深淵の、もっと暗い底へ。
千年も、ただ独り苦しみ続ける、限界を迎えた封印の核へと向けられていた。
「……我の命を、最後の贄にしよう。盤面は、まだ、終わっておらぬぞ……!」
ドゥヴ・マーガリタの巨体が、内側から激しく発光し、限界まで圧縮された死のエネルギーが、空間そのものを歪ませていく。
キリークの腕の中で、マイトレーヤが、その異常な気配を感じ取ったのか、わずかに身じろぎした。
けれど、目は、開かなかった。
愛する弟をようやく取り戻した姉と。
次なる絶対的な絶望の気配を孕んだ、邪神の最期の嗤いと。
死界の最深部に、ふたつの結末が、決定的に交差していた。




