-金色の戦士- 第35話 不屈
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 不屈
神殿は、死んだように静かだった。
狂乱していた水と雷の嵐が嘘のように消え去り、冷たい石の空間に、明けの明星の薄明かりだけが満ちていた。
床に残った水溜まりが、アシュヴィンの血を滲ませながら、その白々しい光を鈍く映している。
キリークは、ゆっくりと直刀を鞘に収めた。
だが、冷たい柄から手が離れなかった。
握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
勝利の歓喜はなかった。
涙も流れなかった。
ただ、奥歯を、ぎりっと微かに音が鳴るほど噛み締める。
それだけが、胸の奥で渦巻く名前のつけられない空虚を、辛うじて押し留めていた。
幼馴染だった。
どうしようもなく歪んでしまったけれど、狂気に魅入られる前の、あの不器用な少年を、確かに知っていた。
背後で、足音がした。
ラーナとカザフィルが、静かに歩み寄ってくる。
キリークは、振り返らなかった。
強張っていた肩を少しだけ落とし、感情を押し殺した声で、短く吐き捨てるように言った。
「……終わったわ」
強がる言葉とは裏腹に、その背中は、痛々しいほど重く沈んでいた。
その悲哀の余韻を、唐突に、物理的な破壊音が引き裂いた。
神殿の最奥の空間が、メリ、メリッ、と耳障りな音を立てて割れた。
次元の境界そのものが内側から引き裂かれていく。
その黒い亀裂の向こうから、肺を焼くような禍々しい瘴気が爆発的に溢れ出した。
キリークは反射的に直刀を抜き直した。
ラーナは黄金の剣を構え、カザフィルも瞬時に神気を高め、臨戦態勢を取る。
裂け目から、這い出るようにして『それ』が現れた。
大破神の眷属神。
人とも獣ともつかぬ、幾重にも肉が歪に膨れ上がった悍ましい神格。
その全身から、見る者の正気を侵すような黒い瘴気が、泥のように滴り落ちていた。
そして……その巨大な肉の傍らに。
宙に見えない力で拘束された、ひとりの小柄な少年が浮かんでいた。
藤色の髪。
首元から下がる見覚えのある銀色の首飾り。
気を失い、糸の切れた人形のように力なく俯いている。
その顔を見た瞬間、キリークの呼吸が、ぴたりと止まった。
正眼に構えていた直刀の切っ先が、わずかに下がる。
「……マイトレーヤ」
「ほう」
眷属神が、幾重にも重なった不気味な声で嗤った。
その声は、神殿の巨大な石柱を低く震わせた。
「そこの娘の縁者か。ならば、ちょうどいい。取引といこうではないか。この小僧の命が惜しくば……貴様が持つ火と風の石。そこに転がる水と土の石。さらには、その女神が抱える空の守護石。五つすべて、我に差し出せ」
「待て、キリーク!」
ラーナが、鋭く叫んだ。
「奴の気配はおかしい。その子供もよく見ろ、それは誘い込むための罠だ!」
「魂の気配が感じられないわ!」
カザフィルも、顔を強張らせた。
だが。
女神の忠告が終わるより、早かった。
キリークは、動いた。
無言で。
一切の逡巡も、躊躇もなく。
キリークは懐から火と風の守護石を掴み出した。
そのまま隣のカザフィルへ手を伸ばす。
「キ、キリーク?」
カザフィルが止める間もなかった。
空の守護石を奪い取る。
さらに床へ転がった水の石を拾い上げ、血溜まりの中の土の石をかき集める。
両腕に抱え込むようにして五つの守護石をまとめると……そのまま眷属神へ向かって、力いっぱい投げつけた。
守護石は空中で散りながら飛び、神殿の床へ激しく跳ねる。
火の石が転がる。
水の石が弾む。
土の石と風の石がぶつかり、甲高い音を立てる。
空の石が遠くまで滑っていく。
「いいわよ」
キリークは言った。
「全部あげるから。その子を返しなさい」
時間が、完全に止まった。
眷属神が、五つの目を見開き、ひどく間の抜けた声を漏らした。
「……は?」
足元に転がった五つの守護石と、キリークの真剣な顔を、三度ほど交互に見比べる。
世界の命運を握る五つの守護石が、たった今、道端の石ころでも放るように投げ捨てられたのだ。
大いなる大破神の眷属の知能をもってしても、その異常な行動が理解できないらしかった。
「嘘、だろう……」
ラーナが、絶句した。
すべてを見通す智慧の女神が、目を見開いたまま石像のように固まっていた。
カザフィルも、両手で口元を覆い、言葉を失っていた。
そして……宙に拘束されていたはずの少年が、ぴくりと動いた。
気を失っていたはずの瞼が震え、一瞬だけ開く。
信じられないものを見るような目が、キリークへ向けられていた。
誰も、キリークの決断の速度を、理解できなかった。
神々ですら。
それはあまりに常軌を逸した、一直線すぎる愛だった。
世界の天秤を、愛する弟が生きているかもしれないという『たった一つの可能性』のために投げ捨てる。
神話を揺るがす絶対の力を、値切りもせずに差し出す。
ラーナでさえ言葉を失った。
カザフィルでさえ止められなかった。
最初に我に返ったのは、眷属神だった。
慌てて足元の守護石を拾い上げる。
その巨大な瘴気の手が、信じられない幸運に震えていた。
「ク、クハハッ! アハハハハ!」
裂け目へ慌てて後退しながら、耳障りな嗤い声を上げた。
「愚かな人間の娘よ! 貴様のその滑稽な愛が、世界を滅ぼすのだ! 終焉を、血の涙を流しながら特等席で眺めるがいい!」
ラーナが空間を封じる剣を振るうより、一瞬早く。
眷属神は、分厚い瘴気と共に、次元の裂け目の向こうへ逃げるように消え去った。
神々の守護石を、すべて奪って。
神殿に残されたのは、二柱の女神と、キリーク。
そして……用済みとして宙の拘束を解かれ、冷たい床に無造作に降ろされた『マイトレーヤ』だけだった。
キリークは、直刀を取り落とした。
からん、と乾いた音が響く。
ふらつくような、夢遊病者のような足取りで、うずくまる少年へと歩み寄っていく。
「待て、キリーク!」
ラーナが叫んだ。
「近づくな!」
「あれは魂のない、空っぽの器よ!」
カザフィルも、悲痛に声を上げた。
「命の灯火が、そこにはないわ!」
女神たちの鋭い制止の声は、キリークの耳には届かなかった。
届くはずがなかった。
故郷の空が理不尽な炎に焼かれた、あの日から。
港町で奴隷船に乗せられ、 生贄を求める魔物を斬り、 生還者のいない牢獄島の闇を越えた。
神々の過酷な試練に骨を軋ませ、 極寒の雪山の谷底から這い上がり、 狂気に沈んだ幼馴染との因縁すら、たった今、自らの刃で断ち切った。
何ヶ月も。
血を流し、 泥水をすすり、 傷だらけになりながら。
そうして追い続けてきた、たった一人の家族が。
目の前に、いるのだ。
「……マイトレーヤ」
キリークは、震える手でその小さな肩に触れ、身を屈めた。
「もう、大丈夫だからね。お姉ちゃんと一緒に、帰ろうね……」
その瞬間。
俯いていた少年が、顔を上げた。
一切の感情が抜け落ちた瞳。
その口元に浮かぶ、邪悪でひどく冷たい笑み。
そして……袖口に隠し持っていた鈍色の短剣が、無防備なキリークの右の脇腹へ向けて、音もなく深々と突き立てられた。
「――っ!」
歴戦の戦士としての勘が、最後の最後で辛うじて働いた。
キリークは咄嗟に身を捩り、臓腑を貫く致命傷だけは避けた。
それでも鋭い刃は肉に深く食い込み、焼けるような激痛が走った。
だが、肉体の痛みなど問題ではなかった。
それ以上に、『マイトレーヤに刺された』という事実そのものが、キリークの心を完全にへし折り、膝から床へ崩れ落ちさせた。
血が滴る。
赤い染みが石畳に広がる。
それでも、キリークは自分の傷を押さえることすらせず、血まみれの手で、マイトレーヤの顔をした子供の服の裾を、ぎゅっと掴んだ。
すがるように。
マイトレーヤの顔をした子供が、キリークを冷酷に見下ろした。
「触るなよ」
冷たく。
刃のように鋭く。
「お姉ちゃんなんて、大嫌いだ」
愛する弟の、あの顔で。
あの声で。
偽物だと、分かっていた。
体に触れた瞬間の冷たさが、直感として告げていた。
これはマイトレーヤではない。
命がない、ただの精巧な器だと。
なのに……反論が、できなかった。
いつか、本当にあの子にそう言われるのではないかという恐怖が、キリークの心臓を鷲掴みにした。
キリークの琥珀色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
服の裾を掴んだ手が、無様に震えた。
心の、いちばん柔らかくて脆い場所が、致命的に抉られていく。
「……お姉ちゃんのこと、嫌いになったの……?」
キリークの血を吐くような呟きを嘲笑うように。
マイトレーヤの顔をした子供の顔が凶悪に歪み、さらに短剣を振り下ろそうとした。
その時。
黄金の光が、二人の間に瞬きの速度で割り込んだ。
ラーナだった。
怒りに、その美しい黄金の瞳を烈火の如く燃やして。
「……泥人形が」
地を這うような、恐ろしいほど静かな激怒だった。
「これ以上、この娘の気高い愛を、汚すな」
黄金の智慧の剣が、一切の慈悲なく一閃された。
偽物の体が、袈裟懸けに両断される。
愛する弟の顔をした器は、黒い泥と悪臭を放つ瘴気を吹き出しながら、ドロドロと崩れ落ちた。
人間の形を失い、ただの汚い染みになって、石の床に広がった。
最初から、そこに弟など、いなかったのだ。
偽物が完全に消え去り、神殿には、黒い泥の染みと、腹部から血を流して座り込むキリークだけが残された。
カザフィルが、悲痛な顔で駆け寄った。
冷たい床に膝をつき、キリークの血が流れる傷口に、両手をかざす。
清らかな浄化と治癒の光が放たれ、温かい波動が傷の深部を塞いでいく。
痛みが引いていく中、キリークは、虚空を見つめたまま、力なく呟いた。
「……ごめんなさい」
掠れた、ひどく幼い声だった。
「石、全部……渡しちゃった。世界が、危なくなるのに。私、マイトレーヤの顔見たら、なんにも考えられなくて……」
カザフィルは、優しく、本当に優しく首を横に振った。
「いいのよ」
その声は、あの吹雪の夜、凍えるキリークの髪を編みながら『あたたかい』と呟いた時の温もりと、まったく同じだった。
「あなたのその、世界を敵に回しても迷わない愛を、私たちは、誰よりも深く知っているから」
大悲の女神は、呆然と膝を付くキリークを、流れる血が付くのも厭わずに、優しく抱きしめる。
ラーナが、歩み寄ってきた。
血塗られた剣を納め、座り込むキリークを見下ろす。
「過ぎたことを悔やんで立ち止まる暇があるなら、剣を握れ」
厳格な、けれど確かな温かみと敬意を孕んだ声で。
キリークが、顔を上げた。
「奪われたものは、お前自身のその刃で、もう一度取り戻せばいい。それだけのことだ」
責められなかった。
世界の危機を招いた大失態を、神々は一切責めなかった。
ただ、ひとりの不器用な姉としての自分を、その愚かさごと、まるごと肯定してくれたのだ。
その言葉が、凍えかけていた胸を、鋭く、熱く打った。
キリークの瞳に、再び――静かで、何者にも折られない強靭な戦士の光が、宿り始めた。
出血が、完全に止まった。
キリークは、傍らに落ちた直刀を拾い上げ、それを杖代わりにして、ゆっくりと立ち上がった。
自分の足で。
誰の手も借りずに。
右手首の腕輪が、まだそこにあった。
左手にはガネフの鞭も、握りの赤金の石もある。
失ったのは、守護石だけだ。
生きてさえいれば、何度でも取り戻せる。
ラーナが、神殿の最奥……さらに高く、果てしない空へと突き上げる雪山の頂を、真っ直ぐに指し示した。
「奴らが向かったのは、アルフェン山脈の最高峰、『スタンレイ』だ」
その声に、初めて、神霊としてのわずかな緊張が滲んだ。
「気を引き締めろ、キリーク。そこから先は……真の地獄の入り口だ」
キリークは、その頂を見上げた。
遥かな高みに、先ほどの眷属神が放っていた禍々しい瘴気が、黒い渦を巻いて天を覆っていた。
弟は……本物のマイトレーヤは、必ずあの先にいる。
直刀の柄を、強く握り直した。
手の震えは、もうなかった。
腹部の痛みも、心に空いた穴も、すべてを前へ進むための燃料に変えて。
世界を救うためでも、神のためでもない。
ただ一人の、愛する弟を取り戻すため。
二柱の女神に見守られながら、キリークは、真の絶望が待つ最高峰へと、確かな足取りで歩みを進めた。




