表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
8章 決別と、愛と(決着編)
PR
41/45

-金色の戦士- 第34話 決別

『サンシャーラ神話物語』

金色こんじきの戦士− 決別



「どうして邪魔をする。ようやくキリークを救えると思ったのに。やっと、誰もキリークを傷つけられない場所へ連れていけると思ったのに」


アシュヴィンの声が、低く沈んだ。

先ほどまでの吐き気を催すほどの甘さが完全に剥がれ落ちた、底冷えのする剥き出しの声だった。


「救う?」

ラーナが、黄金の瞳を細めて嘲笑した。

「笑わせるな。お前がやろうとしているのは支配だ。救済の仮面を被った、ただの醜い檻だ」

「黙れ!」

アシュヴィンが吼えた。

神殿の柱が震えるほどの絶叫だった。

「お前たちに何が分かる! 高みから見下ろすだけの空っぽのお前たちに、キリークの流した血と痛みの何が分かる!」


ラーナは、その怒声を静かに受け止めた。

それから、構えていた黄金の剣をすっと下ろした。

ちらりと、背後のキリークを一瞥する。

「これは、私たちの戦いではない」

「ラーナ……」

「キリーク。お前自身で終わらせろ」


厳しく、けれど確かな信頼を込めて、ラーナは言った。

「他人が斬った決着など、お前の魂の中で永遠に終わらん。この男との因縁は、お前自身の刃で断ち切れ」

カザフィルも、静かに頷いた。

その眼差しが、一瞬だけ、あの吹雪の夜の子供のものに戻った。

『いってらっしゃい』と不器用に微笑んだ、あの夜の顔に。


二柱の女神が、神殿の奥の闇へと退いていく。


巨大な石の空間に取り残されたのは――直刀を構えるキリークと、アシュヴィン。

再び、たった二人きりになった。


「いいんだよ、それで」

アシュヴィンが、再び微笑んだ。

だが今度の微笑みは、完全に人間としての何かが壊れていた。

「邪魔者は消えた。これでやっと、僕たち二人きりだ。ずっとこうしたかったんだ、キリーク」


彼が、右手を高くかざした。

その手に、青く脈打つ石が握られていた。水の守護石。

神殿の空気が、異常な密度で震え始めた。

「見せてあげる」

アシュヴィンの漆黒の瞳が、恍惚と濡れた。

「君が、二度と戦わなくて済む、静かで優しい世界を」

次の瞬間――閉ざされた神殿の内部に、豪雨が降り始めた。


ありえない光景だった。

石の天井の下、空などないはずの閉鎖空間に、どす黒い雨雲が渦巻き、滝のような雨が暴力的に叩きつけてくる。

足元の石畳が見る間に水没していく。

極寒の冷気が肌を裂き、吐く息が白く凍る。そして、黒雲の中で鼓膜を破るような雷鳴が轟いた。


逃げ場のない、水と雷の檻。

青白い雷撃が落ちてきた。キリークは咄嗟に右手でガネフの鞭を振るい、金属繊維で雷の軌道を強引に逸らした。

轟音。

足元から巨大な水柱が上がる。

続いて、水が巨大な刃の形に固まって四方から殺到した。

氷の槍を左手の直刀で砕き、躱し、なお死角から迫るアシュヴィン自身の長槍の穂先を弾き返す。


全方位からの同時攻撃。

水圧が、冷気が、雷が、絶え間なくキリークの体力と体温を削っていく。

膝まで水に浸かった足が鉛のように重い。

鎧の隙間を氷の刃が抜け、全身に無数の裂傷が刻まれて血が水に滲む。

完全に防戦一方だった。


「マイトレーヤはどこ!」

キリークは雷を間一髪で逸らしながら、嵐の中で叫んだ。

「まだ弟か!」

アシュヴィンが、雨を裂いて長槍を叩き込んできた。

「まだ、あんなやつのことを聞くのか!」

「答えろ!」

「君はいつもそうだ!」

槍がキリークの肩の装甲を砕き、血が散った。

「いつだって、自分のことを見ない! 国のため、弟のため、他人のためだ!自分を後回しにして、勝手に傷だらけになって!」

氷の刃を直刀で粉砕する。

冷たい水が容赦なく顔に叩きつける。


「だから壊したんだ!」

キリークの動きが、一瞬、完全に止まった。

「……何を」

「全部だよ!」

アシュヴィンの顔が、歓喜と悲哀の入り混じった、異様な表情に歪んだ。


「あの忌まわしい国も! 君を薄汚い戦士に育てて縛りつけた、あの老いぼれも! そして……君を姉という立場に縛り付けた弟も!」


雨音が、遠のいた気がした。

キリークの耳に、その言葉の羅列だけが、やけに鮮明に、ゆっくりと届いた。


祖国。

老師。

弟。

全部、この男が。


「……お前が」

キリークの声が、底冷えするほどの怒りで震えた。


「君を解放するためだ」

アシュヴィンは、狂信者のように当然の顔で言った。

誇らしげですらあった。

「あの男は、君の手に剣を握らせた元凶だ。君から普通の少女の幸せを奪った、最初の加害者だ。だから、僕が断ち切った。君を呪いから自由にするために」


「ふざけるな……!」

怒りが、血の沸騰となってキリークの全身を灼いた。

直刀を握る左手に限界まで力が籠もり、柄が軋む。


だが……キリークは踏み止まった。

ここで我を失って突っ込めば、終わる。

怒りに飲まれて隙を作れば、この男の思う壺だ。

キリークは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、荒れ狂う呼吸を肺の奥で強引に整えた。

激怒による手の震えを、更なる握力でねじ伏せた。


その冷静な姿を見て、アシュヴィンの表情が、また歪んだ。

今度は泣きそうな、すがるような顔に。

「どうして分からない!」

アシュヴィンが、血を吐くように叫んだ。

「君が傷つくのが、嫌だったんだ! 君が血を流すのが、君が泣くのが、僕にはもう見ていられなかったんだ!」

「だから……みんなを裏切って、殺したって言うの!?」

「そうだよ! すべて君のためだ!」

「私のためじゃない!」

キリークは、殺到する氷刃を直刀で薙ぎ払いながら、真正面から叫び返した。

「あなたがやったのは、私を守ることじゃない! 私の大事なものを、私の生きる理由を、片っ端から壊しただけ! それのどこが……どこが、私のためなのよ!」

「君のためなんだ!!」

アシュヴィンの絶叫が、豪雨の音を完全に圧し殺した。

その漆黒の目は、本気だった。

一片の嘘もなかった。


彼は心の底から、自分の行った非道のすべてを、キリークへの純粋な愛だと信じ切っていた。

祖国を焼き、祖父を殺し、弟を攫った。

そのすべてを。

正義だと。

最高の慈悲だと。


会話は、成立していなかった。

最初から、どこまでも、噛み合わなかった。

キリークは悟った。

この男には、どんな言葉をぶつけても絶対に届かない。

同じ言葉を使っているのに、その意味が、生きている世界が、根本から違うのだ。

アシュヴィンは、自分だけの閉ざされた箱庭の中で、たった独り、永遠に完結している。


その完結が、どうしようもなく、哀しかった。


「もういい」

アシュヴィンが、ぽつりと言った。

憑き物が落ちたような、ひどく静かな声だった。


「言葉では、君は分かってくれない。なら……痛みごと、溶かしてあげる。何も考えられないくらい、ただ僕だけがいる優しい場所へ連れていってあげる」


アシュヴィンが、両手を高く掲げた。

握られた青い石が、目を焼くような眩い光を放つ。

神殿に渦巻く水と雷のすべてが、その一点へ集束していく。

石の天井が限界を超えて軋み、巨大な柱が悲鳴を上げる。

神殿そのものを圧し潰すような、途方もない質量の奔流が、頭上で巨大な渦を巻いた。


逃げ場は、ない。

アシュヴィンの最大の奥義。

すべてを飲み込む、水と雷の終末の津波。


キリークは、直上から迫るその巨大な『死』を前にして……ゆっくりと目を閉じた。


ほんの、一瞬。


右手首の革紐の温もりが、あった。

カーサの『帰ってこられるように』と結んでくれた、小さなお守り。


ラーナの言葉が、あった。

『お前を責めるはずがない』と泥を斬り裂いた、黄金の声が。


ガネフの金属鞭の重さが、右掌にあった。

『死なずに使え』と、不器用に託してくれた命の重さが。


ガルの、大きな背中があった。

谷底への崩落の際、我が身を盾にしてキリークを庇い消えていった、あの背中が。


ファンネリアの笑顔が、あった。

港町で、必ず帰ると信じて待っている日常が。


そして……マイトレーヤの顔が。

まだ、取り戻していない。

たった一人の、愛する弟の顔が。


全部、ここにある。

全部、キリークを今日という日まで生かしてきた、血肉だった。


キリークは、目を見開いた。

瞳に、真の戦士の光が満ちていた。

「私は、英雄じゃない……!」

キリークは、すべての防御を捨て、極端な前傾姿勢をとった。

水に浸かった両足に、筋肉が千切れるほどの限界の力を込める。


「世界も救えない……!」

超質量の水雷の奔流が、頭上から落ちてくる。


「でも、生きる! 守る!」


キリークは右手の炎の鞭を強く握り込み、赤金のファルサを最大まで脈動させた。

鞭の全長が、己の血まで燃え上がるほどの凄まじい熱を帯びる。


「だから……あなたを斬る!!」

キリークは、炎の鞭を頭上の奔流へ向けて、一直線に振り抜いた。

赤金の軌跡が、迫りくる水と雷の壁を、真っ二つに蒸発させた。

鼓膜が破れるほどの轟音と共に、膨大な白い水蒸気が爆ぜる。

超高熱によって、水の壁に一瞬わずかな道ができた。


キリークは、迷わずその水蒸気の隙間へ飛び込んだ。

超高温の蒸気に晒され、革鎧ごと焼け焦げる皮膚の激痛を、完全に無視した。

白煙の中を獣のように駆け抜け、無防備なアシュヴィンの最深の懐へ。


「――っ!?」

アシュヴィンの顔に、初めて、明確な驚愕が走った。


左手の直刀を、突き立てた。

男の胸へ、真っ直ぐに、深々と。

刃が、肉と骨を断ち割り、心臓を貫いた。

頭上で渦巻いていた水雷の嵐が、ぴたりと、静かに止まった。


降り注いでいた雨がドゥヴ・マーガリタの力を失い、ただの冷たい水滴になって重力に従って落ちていく。

雷雲が霧散する。

神殿に、冷たい静寂が戻ってきた。


アシュヴィンが、ゆっくりと、崩れるように膝をついた。

胸に、キリークの直刀が深々と貫かれたまま。


「……どうして」

大量の血の混じった掠れた声で、彼は呟いた。

キリークは、直刀の柄から手を離さなかった。

至近距離で、男から視線も逸らさなかった。

「僕は……君を、守りたかっただけ、なのに……」

「知ってる」

キリークは、静かに答えた。

その瞳に、もう激しい憎悪はなかった。

すべてを燃やした怒りすら、すでに薄れていた。

ただ、底知れぬ静かな哀悼と、決して交わることのない『明確な拒絶』だけが、そこにあった。


「……」

その瞳を見たアシュヴィンが、言葉を失った。

「でも」

キリークは、まっすぐに、逃げ場のない視線でその黒い瞳を射抜いた。

「私は、あなたの人形じゃない」

アシュヴィンの瞳が、大きく揺れた。

それから、彼は……かすかに微笑んだ。


ひどく悲しげに。

けれど、どこか安堵したように。

狂気の中で長い間張り詰めていた何かが、その拒絶の言葉によってようやく解けたように。

「……そうか」

それだけ言って。

アシュヴィンの肉体が、輪郭からボロボロと崩れ始めた。


ドゥヴ・マーガリタの力が抜け落ち、光の粒子になって。

あるいは、海の底へ沈む水の泡になって。

さらさらと、冷たい空気に溶けていく。


彼が握っていた青い石が、力の抜け落ちた手から滑り落ち、水浸しの石畳に転がった。


完全に消え去るその最後の瞬間、アシュヴィンの血濡れた唇が、声のない言葉を形作った気がした。


キリークには、それが呪詛だったのか、後悔だったのか、それとも愛の言葉だったのか、分からなかった。

分からないまま、彼は消え去った。


神殿に、完全な静寂と、荒い息を吐くキリークだけが残された。


勝利の高揚など、欠片もなかった。

涙も、出なかった。

キリークは、ゆっくりと直刀を引き下げ、その刃にこびりついた血を静かに見つめた。


かつて同じ時間を過ごした、幼馴染だった男の血を。

歪んだ愛の果てに、すべてを壊して消えた男の命の痕跡を。


キリークは奥歯を、ぎりっと音が鳴るほど強く噛み締めた。


右手首の編み込まれた腕輪が、雨上がりの冷たい薄明かりの中で、かすかに、けれど確かな温もりを持って光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ