-金色の戦士- 第34話 決別
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 決別
「どうして邪魔をする。ようやくキリークを救えると思ったのに。やっと、誰もキリークを傷つけられない場所へ連れていけると思ったのに」
アシュヴィンの声が、低く沈んだ。
先ほどまでの吐き気を催すほどの甘さが完全に剥がれ落ちた、底冷えのする剥き出しの声だった。
「救う?」
ラーナが、黄金の瞳を細めて嘲笑した。
「笑わせるな。お前がやろうとしているのは支配だ。救済の仮面を被った、ただの醜い檻だ」
「黙れ!」
アシュヴィンが吼えた。
神殿の柱が震えるほどの絶叫だった。
「お前たちに何が分かる! 高みから見下ろすだけの空っぽのお前たちに、キリークの流した血と痛みの何が分かる!」
ラーナは、その怒声を静かに受け止めた。
それから、構えていた黄金の剣をすっと下ろした。
ちらりと、背後のキリークを一瞥する。
「これは、私たちの戦いではない」
「ラーナ……」
「キリーク。お前自身で終わらせろ」
厳しく、けれど確かな信頼を込めて、ラーナは言った。
「他人が斬った決着など、お前の魂の中で永遠に終わらん。この男との因縁は、お前自身の刃で断ち切れ」
カザフィルも、静かに頷いた。
その眼差しが、一瞬だけ、あの吹雪の夜の子供のものに戻った。
『いってらっしゃい』と不器用に微笑んだ、あの夜の顔に。
二柱の女神が、神殿の奥の闇へと退いていく。
巨大な石の空間に取り残されたのは――直刀を構えるキリークと、アシュヴィン。
再び、たった二人きりになった。
「いいんだよ、それで」
アシュヴィンが、再び微笑んだ。
だが今度の微笑みは、完全に人間としての何かが壊れていた。
「邪魔者は消えた。これでやっと、僕たち二人きりだ。ずっとこうしたかったんだ、キリーク」
彼が、右手を高くかざした。
その手に、青く脈打つ石が握られていた。水の守護石。
神殿の空気が、異常な密度で震え始めた。
「見せてあげる」
アシュヴィンの漆黒の瞳が、恍惚と濡れた。
「君が、二度と戦わなくて済む、静かで優しい世界を」
次の瞬間――閉ざされた神殿の内部に、豪雨が降り始めた。
ありえない光景だった。
石の天井の下、空などないはずの閉鎖空間に、どす黒い雨雲が渦巻き、滝のような雨が暴力的に叩きつけてくる。
足元の石畳が見る間に水没していく。
極寒の冷気が肌を裂き、吐く息が白く凍る。そして、黒雲の中で鼓膜を破るような雷鳴が轟いた。
逃げ場のない、水と雷の檻。
青白い雷撃が落ちてきた。キリークは咄嗟に右手でガネフの鞭を振るい、金属繊維で雷の軌道を強引に逸らした。
轟音。
足元から巨大な水柱が上がる。
続いて、水が巨大な刃の形に固まって四方から殺到した。
氷の槍を左手の直刀で砕き、躱し、なお死角から迫るアシュヴィン自身の長槍の穂先を弾き返す。
全方位からの同時攻撃。
水圧が、冷気が、雷が、絶え間なくキリークの体力と体温を削っていく。
膝まで水に浸かった足が鉛のように重い。
鎧の隙間を氷の刃が抜け、全身に無数の裂傷が刻まれて血が水に滲む。
完全に防戦一方だった。
「マイトレーヤはどこ!」
キリークは雷を間一髪で逸らしながら、嵐の中で叫んだ。
「まだ弟か!」
アシュヴィンが、雨を裂いて長槍を叩き込んできた。
「まだ、あんなやつのことを聞くのか!」
「答えろ!」
「君はいつもそうだ!」
槍がキリークの肩の装甲を砕き、血が散った。
「いつだって、自分のことを見ない! 国のため、弟のため、他人のためだ!自分を後回しにして、勝手に傷だらけになって!」
氷の刃を直刀で粉砕する。
冷たい水が容赦なく顔に叩きつける。
「だから壊したんだ!」
キリークの動きが、一瞬、完全に止まった。
「……何を」
「全部だよ!」
アシュヴィンの顔が、歓喜と悲哀の入り混じった、異様な表情に歪んだ。
「あの忌まわしい国も! 君を薄汚い戦士に育てて縛りつけた、あの老いぼれも! そして……君を姉という立場に縛り付けた弟も!」
雨音が、遠のいた気がした。
キリークの耳に、その言葉の羅列だけが、やけに鮮明に、ゆっくりと届いた。
祖国。
老師。
弟。
全部、この男が。
「……お前が」
キリークの声が、底冷えするほどの怒りで震えた。
「君を解放するためだ」
アシュヴィンは、狂信者のように当然の顔で言った。
誇らしげですらあった。
「あの男は、君の手に剣を握らせた元凶だ。君から普通の少女の幸せを奪った、最初の加害者だ。だから、僕が断ち切った。君を呪いから自由にするために」
「ふざけるな……!」
怒りが、血の沸騰となってキリークの全身を灼いた。
直刀を握る左手に限界まで力が籠もり、柄が軋む。
だが……キリークは踏み止まった。
ここで我を失って突っ込めば、終わる。
怒りに飲まれて隙を作れば、この男の思う壺だ。
キリークは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、荒れ狂う呼吸を肺の奥で強引に整えた。
激怒による手の震えを、更なる握力でねじ伏せた。
その冷静な姿を見て、アシュヴィンの表情が、また歪んだ。
今度は泣きそうな、すがるような顔に。
「どうして分からない!」
アシュヴィンが、血を吐くように叫んだ。
「君が傷つくのが、嫌だったんだ! 君が血を流すのが、君が泣くのが、僕にはもう見ていられなかったんだ!」
「だから……みんなを裏切って、殺したって言うの!?」
「そうだよ! すべて君のためだ!」
「私のためじゃない!」
キリークは、殺到する氷刃を直刀で薙ぎ払いながら、真正面から叫び返した。
「あなたがやったのは、私を守ることじゃない! 私の大事なものを、私の生きる理由を、片っ端から壊しただけ! それのどこが……どこが、私のためなのよ!」
「君のためなんだ!!」
アシュヴィンの絶叫が、豪雨の音を完全に圧し殺した。
その漆黒の目は、本気だった。
一片の嘘もなかった。
彼は心の底から、自分の行った非道のすべてを、キリークへの純粋な愛だと信じ切っていた。
祖国を焼き、祖父を殺し、弟を攫った。
そのすべてを。
正義だと。
最高の慈悲だと。
会話は、成立していなかった。
最初から、どこまでも、噛み合わなかった。
キリークは悟った。
この男には、どんな言葉をぶつけても絶対に届かない。
同じ言葉を使っているのに、その意味が、生きている世界が、根本から違うのだ。
アシュヴィンは、自分だけの閉ざされた箱庭の中で、たった独り、永遠に完結している。
その完結が、どうしようもなく、哀しかった。
「もういい」
アシュヴィンが、ぽつりと言った。
憑き物が落ちたような、ひどく静かな声だった。
「言葉では、君は分かってくれない。なら……痛みごと、溶かしてあげる。何も考えられないくらい、ただ僕だけがいる優しい場所へ連れていってあげる」
アシュヴィンが、両手を高く掲げた。
握られた青い石が、目を焼くような眩い光を放つ。
神殿に渦巻く水と雷のすべてが、その一点へ集束していく。
石の天井が限界を超えて軋み、巨大な柱が悲鳴を上げる。
神殿そのものを圧し潰すような、途方もない質量の奔流が、頭上で巨大な渦を巻いた。
逃げ場は、ない。
アシュヴィンの最大の奥義。
すべてを飲み込む、水と雷の終末の津波。
キリークは、直上から迫るその巨大な『死』を前にして……ゆっくりと目を閉じた。
ほんの、一瞬。
右手首の革紐の温もりが、あった。
カーサの『帰ってこられるように』と結んでくれた、小さなお守り。
ラーナの言葉が、あった。
『お前を責めるはずがない』と泥を斬り裂いた、黄金の声が。
ガネフの金属鞭の重さが、右掌にあった。
『死なずに使え』と、不器用に託してくれた命の重さが。
ガルの、大きな背中があった。
谷底への崩落の際、我が身を盾にしてキリークを庇い消えていった、あの背中が。
ファンネリアの笑顔が、あった。
港町で、必ず帰ると信じて待っている日常が。
そして……マイトレーヤの顔が。
まだ、取り戻していない。
たった一人の、愛する弟の顔が。
全部、ここにある。
全部、キリークを今日という日まで生かしてきた、血肉だった。
キリークは、目を見開いた。
瞳に、真の戦士の光が満ちていた。
「私は、英雄じゃない……!」
キリークは、すべての防御を捨て、極端な前傾姿勢をとった。
水に浸かった両足に、筋肉が千切れるほどの限界の力を込める。
「世界も救えない……!」
超質量の水雷の奔流が、頭上から落ちてくる。
「でも、生きる! 守る!」
キリークは右手の炎の鞭を強く握り込み、赤金のファルサを最大まで脈動させた。
鞭の全長が、己の血まで燃え上がるほどの凄まじい熱を帯びる。
「だから……あなたを斬る!!」
キリークは、炎の鞭を頭上の奔流へ向けて、一直線に振り抜いた。
赤金の軌跡が、迫りくる水と雷の壁を、真っ二つに蒸発させた。
鼓膜が破れるほどの轟音と共に、膨大な白い水蒸気が爆ぜる。
超高熱によって、水の壁に一瞬わずかな道ができた。
キリークは、迷わずその水蒸気の隙間へ飛び込んだ。
超高温の蒸気に晒され、革鎧ごと焼け焦げる皮膚の激痛を、完全に無視した。
白煙の中を獣のように駆け抜け、無防備なアシュヴィンの最深の懐へ。
「――っ!?」
アシュヴィンの顔に、初めて、明確な驚愕が走った。
左手の直刀を、突き立てた。
男の胸へ、真っ直ぐに、深々と。
刃が、肉と骨を断ち割り、心臓を貫いた。
頭上で渦巻いていた水雷の嵐が、ぴたりと、静かに止まった。
降り注いでいた雨がドゥヴ・マーガリタの力を失い、ただの冷たい水滴になって重力に従って落ちていく。
雷雲が霧散する。
神殿に、冷たい静寂が戻ってきた。
アシュヴィンが、ゆっくりと、崩れるように膝をついた。
胸に、キリークの直刀が深々と貫かれたまま。
「……どうして」
大量の血の混じった掠れた声で、彼は呟いた。
キリークは、直刀の柄から手を離さなかった。
至近距離で、男から視線も逸らさなかった。
「僕は……君を、守りたかっただけ、なのに……」
「知ってる」
キリークは、静かに答えた。
その瞳に、もう激しい憎悪はなかった。
すべてを燃やした怒りすら、すでに薄れていた。
ただ、底知れぬ静かな哀悼と、決して交わることのない『明確な拒絶』だけが、そこにあった。
「……」
その瞳を見たアシュヴィンが、言葉を失った。
「でも」
キリークは、まっすぐに、逃げ場のない視線でその黒い瞳を射抜いた。
「私は、あなたの人形じゃない」
アシュヴィンの瞳が、大きく揺れた。
それから、彼は……かすかに微笑んだ。
ひどく悲しげに。
けれど、どこか安堵したように。
狂気の中で長い間張り詰めていた何かが、その拒絶の言葉によってようやく解けたように。
「……そうか」
それだけ言って。
アシュヴィンの肉体が、輪郭からボロボロと崩れ始めた。
ドゥヴ・マーガリタの力が抜け落ち、光の粒子になって。
あるいは、海の底へ沈む水の泡になって。
さらさらと、冷たい空気に溶けていく。
彼が握っていた青い石が、力の抜け落ちた手から滑り落ち、水浸しの石畳に転がった。
完全に消え去るその最後の瞬間、アシュヴィンの血濡れた唇が、声のない言葉を形作った気がした。
キリークには、それが呪詛だったのか、後悔だったのか、それとも愛の言葉だったのか、分からなかった。
分からないまま、彼は消え去った。
神殿に、完全な静寂と、荒い息を吐くキリークだけが残された。
勝利の高揚など、欠片もなかった。
涙も、出なかった。
キリークは、ゆっくりと直刀を引き下げ、その刃にこびりついた血を静かに見つめた。
かつて同じ時間を過ごした、幼馴染だった男の血を。
歪んだ愛の果てに、すべてを壊して消えた男の命の痕跡を。
キリークは奥歯を、ぎりっと音が鳴るほど強く噛み締めた。
右手首の編み込まれた腕輪が、雨上がりの冷たい薄明かりの中で、かすかに、けれど確かな温もりを持って光っていた。




