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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
8章 決別と、愛と(決着編)
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-金色の戦士- 第33話 破幻

『サンシャーラ神話物語』

金色こんじきの戦士− 破幻



男の死体は、もう誰の関心も引かなかった。

アシュヴィンは、それを踏み越えるようにしてゆっくりと歩いてきた。

足元の屍に視線ひとつ落とさず、まるで最初からそこに何もなかったかのように。

漆黒の瞳は、ただ狂おしいほどの熱を帯びてキリークだけを見ていた。


「怪我はないかい?」

血濡れた長槍を無造作に提げたまま、アシュヴィンは甘く、柔らかく言った。

「あの愚物が君を傷つけていないか、気が気じゃなかったんだ。間に合ってよかったよ」


キリークは無言のまま、右手の革鞭と左手の直刀を握り直した。

「……マイトレーヤはどこ?」

「もう戦わなくていいんだよ、キリーク」

アシュヴィンの声は、吐き気がするほど不気味な慈愛に満ちていた。

「君はもう十分すぎるほど戦った。傷ついて、泥水をすすって、血を流して。これからは、僕が君を休ませてあげる。何も考えなくていい」

「マイトレーヤは、どこかと聞いてるの」

「ずっと痛かっただろう。ずっと、独りだっただろう」


会話が、まるで噛み合わなかった。

キリークの放つ刃のような言葉は、アシュヴィンの中の狂気を少しもかすめず、虚空をすり抜けていく。

彼は彼の完結した世界の中だけで、底なしに優しかった。

その「完全なる一方通行」の情念が、何より気味が悪かった。


キリークは対話を諦めた。直刀の切っ先を、まっすぐにアシュヴィンへ向けた。

アシュヴィンが、微笑みを浮かべたまま動いた。


殺気は、まるでなかった。

それでいて、放たれた槍の猛攻は凄まじかった。

刺突、薙ぎ、反転からの回転。

人間の骨格を無視したような滑らかな軌道から、雨のように穂先が降り注ぐ。

キリークはそれを、革鞭で受け流した。

ガネフに叩き込まれた実戦の技。

致命の一撃を躱すのではなく、槍の軌道に鞭を絡め、力をいなし、空間へ流す。

黒い穂先が、キリークの頬をかすめた。

髪が数本斬り飛ばされる。

後退せず、半歩だけ踏み込んで躱す。

雪山の悪路で磨き上げた、生々しい足裁き。


「素晴らしい……!」

アシュヴィンが、うっとりと狂気じみた声を上げた。

「そんな粗野な武器まで使いこなせるようになったのか! 前はもっと危なっかしくて、僕がいないとダメだったのに! いったい誰に教わったんだい?」


穂先が唸りを上げて迫る。

キリークは鞭の炎で弾き返す。

「ねえ、誰なの?」

アシュヴィンの声が、ねっとりと甘く粘った。

「君にそれを教えた人間がいるんだろう? 君のそばにいて、君に触れた誰かが……嫉妬で、気が狂いそうだよ」

その漆黒の瞳が、一瞬だけ、ぞっとするほど暗く沈み込んだ。


キリークは答えなかった。

答える価値もなかった。

槍の薙ぎ払いを、鞭を巻きつけて渾身の力で弾き飛ばした。

穂先が大きく上に逸れた。アシュヴィンの胴体が、完全にがら空きになる。


「終わりよ……!」

キリークは地を蹴り、その懐へ一気に踏み込んだ。

左手の直刀を振り上げる。

仕留める。

この一撃で。


だが、アシュヴィンは避けなかった。

それどころか、狂おしい歓喜の表情を浮かべ、まるで抱きとめるように両腕を広げたのだ。

直刀が、アシュヴィンの肩から胸を深く裂いた。


鮮血が散った。

なのに彼は、痛みなどまったく感じていないように恍惚と笑っていた。

そして空いた手で、懐から黒く濁った鏡のような物を取り出しキリークの顔の真正面に突き出した。


「君の醜い重荷を、すべて僕が溶かしてあげる」

キリークは咄嗟に左手で払いのけようとした。

その指先が、鏡の表面に触れてしまった。

黒く粘つく泥のような光が、爆発的に噴き上がった。


世界が、墜ちた。

神殿の冷たい空気が消え、雪山の風が消え、視界の光がすべて消え去った。


キリークは、音のない底なしの暗闇の中に立っていた。

足元が重い。

見下ろすと、黒く粘ついた泥が足首を覆い、膝を絡め取り、底へ底へと引きずり込もうとしていた。

暗闇の奥から声がした。


『――お前が、生き残ったせいで』

父の声だった。

とうに死んだはずの、厳格だった父の声が。

『――なぜ、お前だけが生きている。なぜ、わしを置いて』

老師の声が重なった。

あの凄惨な戦いで散った、剣の師の血を吐くような声が。

『――見捨てたくせに。逃げたくせに。お前が、お前がいなければ!』

呪詛を含んだ声が、まるで粘つく泥のように、キリークの胸までせり上がってきた。

呼吸が詰まる。


そして――暗闇の最奥で、最も聞きたくなかった幼い声が、泣き叫んだ。

『――お姉ちゃんなんて、大嫌いだ!』

マイトレーヤ。

キリークの心臓が、鷲掴みにされたように止まった。


心の奥底、戦うためにずっと分厚い蓋をしてきた柔らかな場所が、無惨にこじ開けられた。

生き残った罪悪感。

守れなかった凄惨な記憶。

あの時もっと早く動けていれば。

もっと強ければ。

全部、自分のせいだ。

全部、私が弱いから――。


現実の神殿。

キリークの瞳から、意思の光が完全に消え失せた。

固く握られていた直刀が、力なく指の間から滑り落ちる。

からん、と石の床で乾いた音を立てた。

両膝が折れ、糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。


「ああ……やっと」

肩から血を流したまま、アシュヴィンが恍惚と呟いた。

抵抗を失い崩れ落ちたキリークへ、愛しいものを抱きしめるように両腕を伸ばす。

「やっと、君を僕のものに……」


その刹那。

神殿の空間が、縦に真っ二つに裂けた。


比喩ではなかった。

冷たい石の空間そのものが、鋭利な刃で分厚い布を裂くように、文字通り『切り開かれた』のだ。

その次元の裂け目から、眼を焼くような黄金の光が爆発的に溢れ出した。


光の中から、一人の女が現れた。

青銀の髪をなびかせ、黄金の瞳を爛々と輝かせ、絶大な神気を纏う一振りの剣を手にした女神。


智慧の女神、ラーナ。


ラーナは一切の躊躇なく、崩れ落ちたキリークの頭上へ向けて、その『智慧の剣』を力任せに振り下ろした。

黄金の刃が、キリークの精神を覆っていた黒い泥を――アシュヴィンが放った幻影の呪縛そのものを、一刀両断に叩き斬った。


「目を覚ませ、キリーク!」

黄金の声が、キリークの凍りついた魂に直接突き刺さった。


「お前の大事な者たちが、お前を責めるはずがないだろう!」


鋭く、厳しく、それでいて底の底に深い慈愛を湛えた一喝だった。

精神を縛っていた泥が、粉々に砕け散った。


幻の声が、遠のいていく。

父も、老師も、泣き叫ぶ弟も。


それは全部、鏡の呪具が作り出した悪辣な嘘だった。

キリークの抱える罪悪感を喰らって膨れ上がった、ただの醜い泥人形だった。


現実の空気が、肺に流れ込んでくる。

キリークが弾かれたように顔を上げると、ラーナの背後、光の裂け目の奥から、もう一柱の神霊が静かに歩み出てきた。


大悲の女神、カザフィル。


豊かに流れる赤銀色の髪、慈愛を湛えた黄金色の瞳。

神々しく、限りなく優しい大人の女性が、そこに立っていた。

ラーナと並び立つ、成熟した女神の姿。


けれど、その気配には確かな覚えがあった。


その両手の中で、これまで在処の知れなかった最後のひとつ――『空の守護石』が、眩い光を放っていた。

カザフィルが、その手を静かにかざすと、石から清らかな光が奔流となって伸び、アシュヴィンの握る黒い鏡を包み込む。


「――な、」

アシュヴィンの余裕の仮面が剥がれ、初めて顔を醜く歪めた。

黒く濁った鏡が、清らかな光に灼かれ、悲鳴のような音を立てて無数にひびを刻み……そして、完全に砕け散った。

一片の呪いも残さず、浄化されて。


驚愕に固まるアシュヴィンを余所に、カザフィルは崩れ落ちたキリークの前へと進み出た。

そして、冷たい石畳の上に、そっと膝をついた。


大いなる女神が、泥に塗れて傷ついた人間の前に、等しく膝を折ったのだ。

カザフィルは、キリークの震える手を優しく包み込み、その掌に、清らかな光を放つ一輪の花を握らせた。

泥の中から咲く、白い蓮の花を。


「……もう、大丈夫」

その声を聞いた瞬間。

キリークの右手首にある革紐の腕輪が、花の温もりと共鳴するように淡く光った。


姿はまるで違う。

背丈も、面立ちも、成熟した大人の女神のもの。

それなのに。

その静かな声。

すべてを許すような眼差し。

その、見守るような不器用な優しさ。


「……カーサ?」

キリークが信じられない思いで掠れた声を絞り出すと、女神は愛おしそうに目を細めた。


あの極寒の吹雪の夜、山小屋で毛布の裾を握りしめて眠った子供。

スープに「ふー、ふー」と息を吹きかけ、不器用な指で革紐を編み、「あたたかい」と呟いた、あの不思議な子供。


その面影が、大人びた微笑みの奥に、確かに息づいていた。

「あの姿は、仮のものだったの」

カザフィルは静かに言った。

「でも……あなたとあの小屋で過ごした時間は、仮のものじゃない」


キリークは、息を呑んだ。

問いたいことは山ほどあった。

なぜ子供の姿で現れたのか。

なぜ何も言わなかったのか。

なぜそこまでして自分を。


けれど今は、その時ではなかった。

カザフィルもそれを察したように、ただ一言だけ、祈るように添えた。

「話は、すべてが終わってから……今は、戦って。あなたの戦い方で」


蓮の花の確かな温もりが、ラーナの厳しい喝破が、カザフィルの慈愛が、キリークの凍え切った胸にじんわりと染み込んでいく。

罪悪感の泥は、もう跡形もなく消え去っていた。


瞳に、光が戻った。

過酷な世界を這いつくばって生き抜いてきた、人間の戦士の光が。

キリークは蓮の花を胸の奥深くに抱き直すように意識を向け、もう一方の手で、床に落ちた直刀の柄を再び握りしめた。

力強く。迷いなく。


冷たい石の床から、ゆっくりと立ち上がる。

膝に力が戻っていた。

柄を握る手の震えは、もうなかった。


アシュヴィンを見た。

男の顔から、あの気味の悪い甘い微笑みが完全に消え失せていた。

代わりに、どす黒い怒りが、その美しい貌を無惨に歪めていた。


砕かれた呪具。

奪い返された愛しい獲物。

彼の作り上げた完璧な箱庭を土足で踏み荒らした神々への、純粋で醜悪な憎悪がそこにあった。


キリークは、もう過去の亡霊に怯えていなかった。

息を深く吸い込み、直刀の切っ先を、まっすぐにアシュヴィンへと突きつけた。


二柱の女神の智慧と慈悲に護られ、絶望の泥の中から再び立ち上がった戦士は、長きにわたる悪夢との真の決着を刻むべく、静かに刃を構えた。

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