-金色の戦士- 第33話 破幻
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 破幻
男の死体は、もう誰の関心も引かなかった。
アシュヴィンは、それを踏み越えるようにしてゆっくりと歩いてきた。
足元の屍に視線ひとつ落とさず、まるで最初からそこに何もなかったかのように。
漆黒の瞳は、ただ狂おしいほどの熱を帯びてキリークだけを見ていた。
「怪我はないかい?」
血濡れた長槍を無造作に提げたまま、アシュヴィンは甘く、柔らかく言った。
「あの愚物が君を傷つけていないか、気が気じゃなかったんだ。間に合ってよかったよ」
キリークは無言のまま、右手の革鞭と左手の直刀を握り直した。
「……マイトレーヤはどこ?」
「もう戦わなくていいんだよ、キリーク」
アシュヴィンの声は、吐き気がするほど不気味な慈愛に満ちていた。
「君はもう十分すぎるほど戦った。傷ついて、泥水をすすって、血を流して。これからは、僕が君を休ませてあげる。何も考えなくていい」
「マイトレーヤは、どこかと聞いてるの」
「ずっと痛かっただろう。ずっと、独りだっただろう」
会話が、まるで噛み合わなかった。
キリークの放つ刃のような言葉は、アシュヴィンの中の狂気を少しもかすめず、虚空をすり抜けていく。
彼は彼の完結した世界の中だけで、底なしに優しかった。
その「完全なる一方通行」の情念が、何より気味が悪かった。
キリークは対話を諦めた。直刀の切っ先を、まっすぐにアシュヴィンへ向けた。
アシュヴィンが、微笑みを浮かべたまま動いた。
殺気は、まるでなかった。
それでいて、放たれた槍の猛攻は凄まじかった。
刺突、薙ぎ、反転からの回転。
人間の骨格を無視したような滑らかな軌道から、雨のように穂先が降り注ぐ。
キリークはそれを、革鞭で受け流した。
ガネフに叩き込まれた実戦の技。
致命の一撃を躱すのではなく、槍の軌道に鞭を絡め、力をいなし、空間へ流す。
黒い穂先が、キリークの頬をかすめた。
髪が数本斬り飛ばされる。
後退せず、半歩だけ踏み込んで躱す。
雪山の悪路で磨き上げた、生々しい足裁き。
「素晴らしい……!」
アシュヴィンが、うっとりと狂気じみた声を上げた。
「そんな粗野な武器まで使いこなせるようになったのか! 前はもっと危なっかしくて、僕がいないとダメだったのに! いったい誰に教わったんだい?」
穂先が唸りを上げて迫る。
キリークは鞭の炎で弾き返す。
「ねえ、誰なの?」
アシュヴィンの声が、ねっとりと甘く粘った。
「君にそれを教えた人間がいるんだろう? 君のそばにいて、君に触れた誰かが……嫉妬で、気が狂いそうだよ」
その漆黒の瞳が、一瞬だけ、ぞっとするほど暗く沈み込んだ。
キリークは答えなかった。
答える価値もなかった。
槍の薙ぎ払いを、鞭を巻きつけて渾身の力で弾き飛ばした。
穂先が大きく上に逸れた。アシュヴィンの胴体が、完全にがら空きになる。
「終わりよ……!」
キリークは地を蹴り、その懐へ一気に踏み込んだ。
左手の直刀を振り上げる。
仕留める。
この一撃で。
だが、アシュヴィンは避けなかった。
それどころか、狂おしい歓喜の表情を浮かべ、まるで抱きとめるように両腕を広げたのだ。
直刀が、アシュヴィンの肩から胸を深く裂いた。
鮮血が散った。
なのに彼は、痛みなどまったく感じていないように恍惚と笑っていた。
そして空いた手で、懐から黒く濁った鏡のような物を取り出しキリークの顔の真正面に突き出した。
「君の醜い重荷を、すべて僕が溶かしてあげる」
キリークは咄嗟に左手で払いのけようとした。
その指先が、鏡の表面に触れてしまった。
黒く粘つく泥のような光が、爆発的に噴き上がった。
世界が、墜ちた。
神殿の冷たい空気が消え、雪山の風が消え、視界の光がすべて消え去った。
キリークは、音のない底なしの暗闇の中に立っていた。
足元が重い。
見下ろすと、黒く粘ついた泥が足首を覆い、膝を絡め取り、底へ底へと引きずり込もうとしていた。
暗闇の奥から声がした。
『――お前が、生き残ったせいで』
父の声だった。
とうに死んだはずの、厳格だった父の声が。
『――なぜ、お前だけが生きている。なぜ、わしを置いて』
老師の声が重なった。
あの凄惨な戦いで散った、剣の師の血を吐くような声が。
『――見捨てたくせに。逃げたくせに。お前が、お前がいなければ!』
呪詛を含んだ声が、まるで粘つく泥のように、キリークの胸までせり上がってきた。
呼吸が詰まる。
そして――暗闇の最奥で、最も聞きたくなかった幼い声が、泣き叫んだ。
『――お姉ちゃんなんて、大嫌いだ!』
マイトレーヤ。
キリークの心臓が、鷲掴みにされたように止まった。
心の奥底、戦うためにずっと分厚い蓋をしてきた柔らかな場所が、無惨にこじ開けられた。
生き残った罪悪感。
守れなかった凄惨な記憶。
あの時もっと早く動けていれば。
もっと強ければ。
全部、自分のせいだ。
全部、私が弱いから――。
現実の神殿。
キリークの瞳から、意思の光が完全に消え失せた。
固く握られていた直刀が、力なく指の間から滑り落ちる。
からん、と石の床で乾いた音を立てた。
両膝が折れ、糸が切れたようにその場に崩れ落ちる。
「ああ……やっと」
肩から血を流したまま、アシュヴィンが恍惚と呟いた。
抵抗を失い崩れ落ちたキリークへ、愛しいものを抱きしめるように両腕を伸ばす。
「やっと、君を僕のものに……」
その刹那。
神殿の空間が、縦に真っ二つに裂けた。
比喩ではなかった。
冷たい石の空間そのものが、鋭利な刃で分厚い布を裂くように、文字通り『切り開かれた』のだ。
その次元の裂け目から、眼を焼くような黄金の光が爆発的に溢れ出した。
光の中から、一人の女が現れた。
青銀の髪をなびかせ、黄金の瞳を爛々と輝かせ、絶大な神気を纏う一振りの剣を手にした女神。
智慧の女神、ラーナ。
ラーナは一切の躊躇なく、崩れ落ちたキリークの頭上へ向けて、その『智慧の剣』を力任せに振り下ろした。
黄金の刃が、キリークの精神を覆っていた黒い泥を――アシュヴィンが放った幻影の呪縛そのものを、一刀両断に叩き斬った。
「目を覚ませ、キリーク!」
黄金の声が、キリークの凍りついた魂に直接突き刺さった。
「お前の大事な者たちが、お前を責めるはずがないだろう!」
鋭く、厳しく、それでいて底の底に深い慈愛を湛えた一喝だった。
精神を縛っていた泥が、粉々に砕け散った。
幻の声が、遠のいていく。
父も、老師も、泣き叫ぶ弟も。
それは全部、鏡の呪具が作り出した悪辣な嘘だった。
キリークの抱える罪悪感を喰らって膨れ上がった、ただの醜い泥人形だった。
現実の空気が、肺に流れ込んでくる。
キリークが弾かれたように顔を上げると、ラーナの背後、光の裂け目の奥から、もう一柱の神霊が静かに歩み出てきた。
大悲の女神、カザフィル。
豊かに流れる赤銀色の髪、慈愛を湛えた黄金色の瞳。
神々しく、限りなく優しい大人の女性が、そこに立っていた。
ラーナと並び立つ、成熟した女神の姿。
けれど、その気配には確かな覚えがあった。
その両手の中で、これまで在処の知れなかった最後のひとつ――『空の守護石』が、眩い光を放っていた。
カザフィルが、その手を静かにかざすと、石から清らかな光が奔流となって伸び、アシュヴィンの握る黒い鏡を包み込む。
「――な、」
アシュヴィンの余裕の仮面が剥がれ、初めて顔を醜く歪めた。
黒く濁った鏡が、清らかな光に灼かれ、悲鳴のような音を立てて無数にひびを刻み……そして、完全に砕け散った。
一片の呪いも残さず、浄化されて。
驚愕に固まるアシュヴィンを余所に、カザフィルは崩れ落ちたキリークの前へと進み出た。
そして、冷たい石畳の上に、そっと膝をついた。
大いなる女神が、泥に塗れて傷ついた人間の前に、等しく膝を折ったのだ。
カザフィルは、キリークの震える手を優しく包み込み、その掌に、清らかな光を放つ一輪の花を握らせた。
泥の中から咲く、白い蓮の花を。
「……もう、大丈夫」
その声を聞いた瞬間。
キリークの右手首にある革紐の腕輪が、花の温もりと共鳴するように淡く光った。
姿はまるで違う。
背丈も、面立ちも、成熟した大人の女神のもの。
それなのに。
その静かな声。
すべてを許すような眼差し。
その、見守るような不器用な優しさ。
「……カーサ?」
キリークが信じられない思いで掠れた声を絞り出すと、女神は愛おしそうに目を細めた。
あの極寒の吹雪の夜、山小屋で毛布の裾を握りしめて眠った子供。
スープに「ふー、ふー」と息を吹きかけ、不器用な指で革紐を編み、「あたたかい」と呟いた、あの不思議な子供。
その面影が、大人びた微笑みの奥に、確かに息づいていた。
「あの姿は、仮のものだったの」
カザフィルは静かに言った。
「でも……あなたとあの小屋で過ごした時間は、仮のものじゃない」
キリークは、息を呑んだ。
問いたいことは山ほどあった。
なぜ子供の姿で現れたのか。
なぜ何も言わなかったのか。
なぜそこまでして自分を。
けれど今は、その時ではなかった。
カザフィルもそれを察したように、ただ一言だけ、祈るように添えた。
「話は、すべてが終わってから……今は、戦って。あなたの戦い方で」
蓮の花の確かな温もりが、ラーナの厳しい喝破が、カザフィルの慈愛が、キリークの凍え切った胸にじんわりと染み込んでいく。
罪悪感の泥は、もう跡形もなく消え去っていた。
瞳に、光が戻った。
過酷な世界を這いつくばって生き抜いてきた、人間の戦士の光が。
キリークは蓮の花を胸の奥深くに抱き直すように意識を向け、もう一方の手で、床に落ちた直刀の柄を再び握りしめた。
力強く。迷いなく。
冷たい石の床から、ゆっくりと立ち上がる。
膝に力が戻っていた。
柄を握る手の震えは、もうなかった。
アシュヴィンを見た。
男の顔から、あの気味の悪い甘い微笑みが完全に消え失せていた。
代わりに、どす黒い怒りが、その美しい貌を無惨に歪めていた。
砕かれた呪具。
奪い返された愛しい獲物。
彼の作り上げた完璧な箱庭を土足で踏み荒らした神々への、純粋で醜悪な憎悪がそこにあった。
キリークは、もう過去の亡霊に怯えていなかった。
息を深く吸い込み、直刀の切っ先を、まっすぐにアシュヴィンへと突きつけた。
二柱の女神の智慧と慈悲に護られ、絶望の泥の中から再び立ち上がった戦士は、長きにわたる悪夢との真の決着を刻むべく、静かに刃を構えた。




