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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
8章 決別と、愛と(決着編)
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-金色の戦士- 第32話 狂気

『サンシャーラ神話物語』

金色こんじきの戦士− 狂気



神殿は、空の際に建っていた。


雪山の稜線を抜けた先、世界の天蓋に手が届きそうな高みに、それはあった。

空の神アルカーシャの神殿。

すべての装飾を削ぎ落としたかのような、冷たく巨大な石の建造物。

柱も壁も、ただ無機質に天へ伸びている。

東の空で、明けの明星が冴え冴えと輝いていた。


キリークは神殿の入り口に立ち、息を整えた。

ここまで帰って来た。

崖から落ち、谷底で拾われ、雪に閉じ込められ、それでも歩いてきた。

この先に、アシュヴィンがいる。

マイトレーヤがいる。


石の空間に、足を踏み入れた。

冷気が肌を刺した。

外の雪山より、なお冷たい。

生命の気配がまるでない場所だった。

そして、その冷たさの中心に、ひとりの男が待っていた。

痩せた長身に、儀礼めいた長衣を纏っている。

顔には微笑みとも嘲笑ともつかない表情が貼り付いていた。

その全身から、ねっとりとした重圧が漂い出ていた。

プーラの気配。

それも、尋常な量ではない。


「遅かったな」

男が、もったいぶった声で言った。

「待ちわびたぞ!」

「お前も、ドゥヴ・マーガリタと言う神の手下か?」

キリークは冷ややかに男を睨み据えた。

「いかにも。だが、私は間もなくあの方を超える!」

男の顔に張り付いていた微笑みが、ひどく傲慢なものに歪んだ。

「超える?」

男は恍惚とした瞳で己の両手を見つめ、狂気に満ちた声で続けた。

「そうだ! 貴様の持つ火と風の守護石と、アシュヴィンが持つ土と水を、この手で残らず奪い取ってな!」

「……何のために」

キリークは温度のない声で問い返し、静かに直刀の柄を握り直した。

「決まっている」

男は両腕を広げた。

「私は、神になるのだ」

キリークは無言で鞭を構えた。

赤金の石に、そっと意識を通す。

「神になってどうするの?」

キリークは短く言った。

「人を導く智慧も、思いやる心もないのに」

「不要だ!」

男の声が、急に裏返るほど高くなった。

「この脆弱な肉体の軛を捨て去れば! 老いも、病も、痛みも、すべてを超越した絶対者になれる! この愚かで醜い世界を、正しく作り変える存在になれるのだ!」

言葉の端々に、狂気が滲んでいた。

両腕を広げたまま、男の体から重圧が膨れ上がった。

「導く? 思いやる? そんなものは弱者の慰めだ! 力さえあれば世界は従う!」

空気が歪み、見えない力の波がキリークへと放たれる。


キリークは慌てなかった。

炎の鞭を一閃。

赤い軌跡が、その力の軌道を真横から弾き返した。

波が砕け、石の床に亀裂が走る。

「ほう……弾くか」

男が目を細めた。

そして口元を歪める。

「ならばこれはどうだ!」

男の指輪が光り、見えない力の刃が、四方から同時に襲いかかってくる。

キリークは雪山の戦いで研ぎ澄ました足裁きで、最小限の動きでそれを躱した。

一歩、半歩。

無駄のない回避。

傷ひとつ負わずに、間合いを詰めていく。


「血を流すだけの命に、何の意味がある!」

男が叫んだ。

「お前も、己の弱さを呪っているだろう! 痛みを、傷を、喪失を! 神になればすべて消えるのだ!」

「呪ってなんかいない!」

キリークは鞭で力の刃を打ち払い、なお踏み込んだ。

「痛いから、生きてるって分かるんでしょうが!」

「俗物が!」

男の顔が歪んだ。

「痛みにすがるなど、進化の放棄だ! 貴様のような虫けらには、神の境地など永遠に理解できん!」

「温もりも知らないで……」


キリークは鞭に炎を最大まで纏わせ、横薙ぎに振り抜いた。

男が後退する。

「虫けらめが! 偉そうに語るなッ!」

戦いの中で、キリークは冷静に相手を見ていた。


(厄介だな)

指輪のプーラから放たれる力は本物だった。

一撃一撃が致命傷になる。

だが、男自身は違う。

(素人だ)

力の振るい方が雑すぎる。

両腕を広げる癖。

放った直後に生まれる隙。

怒りに任せて乱れる狙い。

強大な武器を手に入れたばかりの人間。

そんな印象だった。

ガネフの声が、頭の奥で響いた。


相手の得物を絡め取り、隙を作って仕留めろ。

間合いを潰せ。


男が、焦り始めていた。

攻撃が当たらない。

間合いを詰められていく。

その焦燥が、より大きな力を引き出そうとさせた。

「ええい、小賢しい娘め! ならば、これで終わりだ!」

男が両腕を頭上に掲げた。

神殿全体が軋むほどの力が、その一点に集束していく。

すべてを薙ぎ払う一撃。


だが、それは隙だった。

力を溜めるための、致命的な隙。

キリークは地を蹴った。

滑るように床を駆け、一気に男の懐へ。

炎の鞭を振り抜き、集束しかけた力の防壁を粉砕する。

男の目が見開かれた。

「な……!」

直刀を、抜き放った。

男の胸――その奥で脈打つ力の源へ、刃を深々と突き立てる。

手応えがあった。

確かな、致命の手応えが。


男の口から血が溢れた。掲げていた両腕が、力なく落ちた。

キリークは直刀を引き抜き、即座に距離を取った。


残心。

呼吸を整える。

倒れる相手から目を離さない。


男が、膝から崩れ落ちた。

「ば、馬鹿な……」

血を吐きながら、男は這いつくばった。

震える手で床を掻く。

「私は……神に、なるはず……お前ごときに……ッ!」

キリークは直刀を構え直した。

トドメを刺すために。

再生する敵もいる。

確実に終わらせなければ。

切っ先を、男に向けた。


その時……。


背後の暗闇から、何かが伸びた。

無慈悲な速度で。音もなく。

一条の槍が、キリークの脇をすり抜け、這いつくばる男の体を背後から貫いた。

心臓を、正確に。


男の体が、びくんと痙攣した。

血を吐く間もなかった。

掲げかけた手が、宙で止まった。

そのまま、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

絶命していた。

神になると喚いていた男が、虫けらのように、一瞬で。


キリークは咄嗟に飛び退き、槍の伸びてきた方向へ向き直った。

神殿の奥。

明星の光も届かない暗がりから、足音が響いた。

ゆっくりと。

優雅に。

その屍を、まるでゴミのように爪先で蹴り退けて。

男が、歩み出てきた。


黒い髪。

優美な体躯。

手には、血に濡れた長槍。

アシュヴィン。

その瞳は、足元の死体を一瞥もしなかった。

神になると豪語した男の死を、塵ほども意に介していない。

ただ、まっすぐに。

狂おしいほどの執着を込めて、キリークだけを見つめていた。


「……僕とキリークの邪魔をするな」

死体に向けて、囁くように言った。

キリークの背筋が、凍りついた。

男と戦っていた時とは、次元が違った。


あの男の重圧は、所詮は力の量でしかなかった。

だがこの男から漂うものは、違う。

もっと深く、冷たく、底がない。

空っぽの神になりたがった男など、比べものにならない。

純粋で、巨大で、出口のない狂気が、目の前に立っていた。


アシュヴィンが、血濡れた槍を静かに下げた。

そして、キリークに向けて微笑んだ。

甘く。

優しく。

どこかが致命的に壊れた、微笑みで。

「会いたかった、キリーク」


明けの明星が照らす冷たい石畳の上で、真の絶望が、キリークを迎え入れた。

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