-金色の戦士- 第32話 狂気
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 狂気
神殿は、空の際に建っていた。
雪山の稜線を抜けた先、世界の天蓋に手が届きそうな高みに、それはあった。
空の神アルカーシャの神殿。
すべての装飾を削ぎ落としたかのような、冷たく巨大な石の建造物。
柱も壁も、ただ無機質に天へ伸びている。
東の空で、明けの明星が冴え冴えと輝いていた。
キリークは神殿の入り口に立ち、息を整えた。
ここまで帰って来た。
崖から落ち、谷底で拾われ、雪に閉じ込められ、それでも歩いてきた。
この先に、アシュヴィンがいる。
マイトレーヤがいる。
石の空間に、足を踏み入れた。
冷気が肌を刺した。
外の雪山より、なお冷たい。
生命の気配がまるでない場所だった。
そして、その冷たさの中心に、ひとりの男が待っていた。
痩せた長身に、儀礼めいた長衣を纏っている。
顔には微笑みとも嘲笑ともつかない表情が貼り付いていた。
その全身から、ねっとりとした重圧が漂い出ていた。
プーラの気配。
それも、尋常な量ではない。
「遅かったな」
男が、もったいぶった声で言った。
「待ちわびたぞ!」
「お前も、ドゥヴ・マーガリタと言う神の手下か?」
キリークは冷ややかに男を睨み据えた。
「いかにも。だが、私は間もなくあの方を超える!」
男の顔に張り付いていた微笑みが、ひどく傲慢なものに歪んだ。
「超える?」
男は恍惚とした瞳で己の両手を見つめ、狂気に満ちた声で続けた。
「そうだ! 貴様の持つ火と風の守護石と、アシュヴィンが持つ土と水を、この手で残らず奪い取ってな!」
「……何のために」
キリークは温度のない声で問い返し、静かに直刀の柄を握り直した。
「決まっている」
男は両腕を広げた。
「私は、神になるのだ」
キリークは無言で鞭を構えた。
赤金の石に、そっと意識を通す。
「神になってどうするの?」
キリークは短く言った。
「人を導く智慧も、思いやる心もないのに」
「不要だ!」
男の声が、急に裏返るほど高くなった。
「この脆弱な肉体の軛を捨て去れば! 老いも、病も、痛みも、すべてを超越した絶対者になれる! この愚かで醜い世界を、正しく作り変える存在になれるのだ!」
言葉の端々に、狂気が滲んでいた。
両腕を広げたまま、男の体から重圧が膨れ上がった。
「導く? 思いやる? そんなものは弱者の慰めだ! 力さえあれば世界は従う!」
空気が歪み、見えない力の波がキリークへと放たれる。
キリークは慌てなかった。
炎の鞭を一閃。
赤い軌跡が、その力の軌道を真横から弾き返した。
波が砕け、石の床に亀裂が走る。
「ほう……弾くか」
男が目を細めた。
そして口元を歪める。
「ならばこれはどうだ!」
男の指輪が光り、見えない力の刃が、四方から同時に襲いかかってくる。
キリークは雪山の戦いで研ぎ澄ました足裁きで、最小限の動きでそれを躱した。
一歩、半歩。
無駄のない回避。
傷ひとつ負わずに、間合いを詰めていく。
「血を流すだけの命に、何の意味がある!」
男が叫んだ。
「お前も、己の弱さを呪っているだろう! 痛みを、傷を、喪失を! 神になればすべて消えるのだ!」
「呪ってなんかいない!」
キリークは鞭で力の刃を打ち払い、なお踏み込んだ。
「痛いから、生きてるって分かるんでしょうが!」
「俗物が!」
男の顔が歪んだ。
「痛みにすがるなど、進化の放棄だ! 貴様のような虫けらには、神の境地など永遠に理解できん!」
「温もりも知らないで……」
キリークは鞭に炎を最大まで纏わせ、横薙ぎに振り抜いた。
男が後退する。
「虫けらめが! 偉そうに語るなッ!」
戦いの中で、キリークは冷静に相手を見ていた。
(厄介だな)
指輪のプーラから放たれる力は本物だった。
一撃一撃が致命傷になる。
だが、男自身は違う。
(素人だ)
力の振るい方が雑すぎる。
両腕を広げる癖。
放った直後に生まれる隙。
怒りに任せて乱れる狙い。
強大な武器を手に入れたばかりの人間。
そんな印象だった。
ガネフの声が、頭の奥で響いた。
相手の得物を絡め取り、隙を作って仕留めろ。
間合いを潰せ。
男が、焦り始めていた。
攻撃が当たらない。
間合いを詰められていく。
その焦燥が、より大きな力を引き出そうとさせた。
「ええい、小賢しい娘め! ならば、これで終わりだ!」
男が両腕を頭上に掲げた。
神殿全体が軋むほどの力が、その一点に集束していく。
すべてを薙ぎ払う一撃。
だが、それは隙だった。
力を溜めるための、致命的な隙。
キリークは地を蹴った。
滑るように床を駆け、一気に男の懐へ。
炎の鞭を振り抜き、集束しかけた力の防壁を粉砕する。
男の目が見開かれた。
「な……!」
直刀を、抜き放った。
男の胸――その奥で脈打つ力の源へ、刃を深々と突き立てる。
手応えがあった。
確かな、致命の手応えが。
男の口から血が溢れた。掲げていた両腕が、力なく落ちた。
キリークは直刀を引き抜き、即座に距離を取った。
残心。
呼吸を整える。
倒れる相手から目を離さない。
男が、膝から崩れ落ちた。
「ば、馬鹿な……」
血を吐きながら、男は這いつくばった。
震える手で床を掻く。
「私は……神に、なるはず……お前ごときに……ッ!」
キリークは直刀を構え直した。
トドメを刺すために。
再生する敵もいる。
確実に終わらせなければ。
切っ先を、男に向けた。
その時……。
背後の暗闇から、何かが伸びた。
無慈悲な速度で。音もなく。
一条の槍が、キリークの脇をすり抜け、這いつくばる男の体を背後から貫いた。
心臓を、正確に。
男の体が、びくんと痙攣した。
血を吐く間もなかった。
掲げかけた手が、宙で止まった。
そのまま、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
絶命していた。
神になると喚いていた男が、虫けらのように、一瞬で。
キリークは咄嗟に飛び退き、槍の伸びてきた方向へ向き直った。
神殿の奥。
明星の光も届かない暗がりから、足音が響いた。
ゆっくりと。
優雅に。
その屍を、まるでゴミのように爪先で蹴り退けて。
男が、歩み出てきた。
黒い髪。
優美な体躯。
手には、血に濡れた長槍。
アシュヴィン。
その瞳は、足元の死体を一瞥もしなかった。
神になると豪語した男の死を、塵ほども意に介していない。
ただ、まっすぐに。
狂おしいほどの執着を込めて、キリークだけを見つめていた。
「……僕とキリークの邪魔をするな」
死体に向けて、囁くように言った。
キリークの背筋が、凍りついた。
男と戦っていた時とは、次元が違った。
あの男の重圧は、所詮は力の量でしかなかった。
だがこの男から漂うものは、違う。
もっと深く、冷たく、底がない。
空っぽの神になりたがった男など、比べものにならない。
純粋で、巨大で、出口のない狂気が、目の前に立っていた。
アシュヴィンが、血濡れた槍を静かに下げた。
そして、キリークに向けて微笑んだ。
甘く。
優しく。
どこかが致命的に壊れた、微笑みで。
「会いたかった、キリーク」
明けの明星が照らす冷たい石畳の上で、真の絶望が、キリークを迎え入れた。




