-金色の戦士- 第31話 命炎
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 命炎
雪が眩しかった。
吹雪が止んだ山は、昨日までとは全く別の顔をしていた。
荒れ狂う風と視界を塞ぐ白い壁は消え去り、突き抜けるような青空の下で、一面の雪原が残酷なまでに光を弾いている。
キリークは目を細め、深く息を吐いた。
肺の奥まで凍りつくような冷たい空気が流れ込み、白い呼気となって空へ溶けていく。
一歩踏み出すたびに、分厚い新雪が重く軋む音を立てた。
足場は悪い。
しかし、視界が晴れたことで、ガネフから託された古い羊皮紙の地図が示す地形がはっきりと見て取れた。
岩稜帯の裏を抜ける隠し道。
帝国軍の索敵から完全に外れた、知る者のほとんどいない道。
腰には、幾多の死線をくぐり抜けてきた直刀。
左手には、金属繊維が編み込まれた黒い革鞭。
握りの座には火のファルサが嵌め込まれている。
陽光を吸い込んだ赤金の石が、微かな熱を帯びて掌を温めていた。
ふと、立ち止まり、右の手首に視線を落とした。
使い込まれた革の手袋の隙間から、細い革紐を複雑に交差させたブレスレットが覗いていた。
カーサが、不器用な指で丁寧に編み上げた、小さなお守り。
「帰ってこられるように」
無表情だったあの不思議な子供が無言で結んでくれたもの。
あの、初めての微笑みと共に。
その記憶が、雪山の暴力的な寒さからキリークを守っていた。
キリークは目を前に戻し、手首の温もりを隠すように再び歩き続けた。
険しい岩稜帯に差し掛かった頃だった。
気配があった。
キリークはピタリと足を止め、呼吸を殺した。
風の音に混じって、雪を踏む微かな異音が響く。
岩の陰から、そして雪の向こうから、何かがこちらを見ている。
ひとつではない。
ふたつ。
岩場を抜けた先の開けた雪原に、人影が二つ立っていた。
キリークは目を細め、半歩だけ右足を引いて重心を落とした。
知っている輪郭だった。
小柄で身軽な体格と、岩のようにがっしりとした巨躯。
立ち方、絶妙な距離の取り方。
脳の奥で、警鐘がけたたましく鳴り始めた。
見覚えがある。
嫌な意味で。
あの日、崖の上にいた男女だった。
アシュヴィンと共にキリークを囲み、谷底へ叩き落とした二人。
あの戦いで、キリークは確かに致命傷を負わせた。
血が流れた。
断末魔があった。
死んだはずだった。
なのに。
二人は立っていた。
雪原の真ん中に、何事もなかったように。
衣服の破れから覗く肌には、かつての裂傷の痕が無骨に修復された跡が残っている。
しかし、その肌の色はおかしかった。
鉛のようにくすみ、生きた人間の色ではない。
何より、こちらを見据える瞳に、光というものが一切存在しなかった。
女が、ゆっくりと口を開いた。
「久しぶりね」
男が、機械的に続けた。
「今度こそ殺す」
キリークの右手が、反射的に直刀の柄に触れた。
親指で鍔を押し上げる。
生者ではない。
そう直感した。
何年も戦場に立ってきた体が、理屈より先にそれを知っていた。
あの二人から漂う気配には、かつて刃を交えた時のような殺意すら欠落している。
死の匂いがした。
腐臭ではなく、もっと根本的な何か。
命の気配が、そこにない。
「あなたたちは……」
キリークは柄を握る力を強め、睨みつけた。
「なぜ生きている。あの崖で、終わったはずよ」
女が一歩、雪を滑るように前に出た。
「もちろん、一度は死んだわ」
女は自分の胸元、縫い合わされた裂傷の跡を見下ろした。
「でも、ドゥヴ・マーガリタ神が、私たちに新しい命を与えてくださった。死んだ器に、大いなる力を吹き込んでくださった。それだけのことよ」
「ドゥヴ・マーガリタ……?」
キリークは聞き慣れない不吉な名に、警戒の目を細めた。
「我らが主の御名だ」
男が、虚ろな目に狂信の光を宿して低く応じた。
「神代より続く偉大なる眷属神」
女もまた、死人特有の青白い顔で恍惚と嗤う。
「死者を……器に」
男が重々しく頷いた。
「神の力は、死すら覆す。どんな器でも、望む形に造り変えられるのだ」
その言葉が、氷の刃となってキリークの胸の奥に深く刺さった。抜けなかった。
死者を器に造り変える。
もし、アシュヴィンに連れ去られたマイトレーヤが、すでに命を奪われ、「器」として扱われていたとしたら――。
想像しただけで、視界が赤く明滅した。
キリークはギリッと奥歯を噛み締め、呼吸を強引に整える。
思考のブレは死に直結する。
今考えるべきことではない。
女は、凍てつく風の中で身震いひとつせずに言った。
「寒くないのよ」
「腹も減らない」
「眠くもならない」
「痛みもない」
「便利でしょう?」
キリークは無言のまま、直刀の柄を握る手にギリッと力を込めた。
「死人だからよ」
「ええ」
少し笑う。
「だから聞きたいの」
女は光のない瞳で、ただ純粋な疑問のように小首を傾げた。
「生きることに、何の意味があるの? 苦しんで、傷ついて、喪って、それでも雪に這いつくばって足掻く意味が」
男が引き継ぐように言った。
その声の底が、不自然に共鳴している。
「死ねば救われる。痛みも孤独も、肉体と共に消える。私たちがそうであるように。完全なる静寂だけが、我らを高みへ導く」
女が、薄く笑った。
笑い方を覚えたての者が、顔の筋肉を無理やり動かして形だけ真似たような、ひどく歪な笑い方だった。
「お前も、こちらへ来い。仲間にしてやる」
男の低い声が響いた。
女がさらに一歩距離を詰める。
「傷つかなくて済む」
「喪わなくて済む」
「死は優しいわ」
光のない二対の瞳が、ひどく歪な慈愛を浮かべてキリークを見つめていた。
しばらくの沈黙があった。
雪の静寂の中、風が細く鳴いた。
キリークは二人を見た。
その修復された傷跡を、光のない瞳を、平坦な声を。
そして今、脳裏に貼り付いて離れない不吉な言葉を。
直刀を、鞘から引き抜いた。
「断る」
雪の冷たさにも似た、感情を削ぎ落とした短い声だった。
「哀れな死人の仲間になるくらいなら、生きたまま泥を這って傷つく方を選ぶ」
男が、理解できないものを見るようにわずかに首を傾けた。
「なぜだ。理由になっていない」
「十分よ」
キリークは直刀の切っ先を男の眼球へ向けたまま、雪を強く踏み締めた。
「私は世界を救いたいわけじゃない。英雄になりたいわけでもない。大切なものを守るために生きる。それだけよ」
それ以上の問答は必要なかった。
二人が動いた。
速かった。
死人の動きではなかった。
蘇った肉体は、筋肉の悲鳴という限界を知らない。
男が正面から砲弾のように突進し、女が側面から死角へ回り込む。
かつてキリークを絶望に追いやった連携。
キリークは男の重い突きを直刀で弾き、後退しながら女の蹴りを紙一重で躱した。
着地と同時に雪を蹴り、攻勢に出る。
斬った。
男の胸を一閃。
刃が肉を裂き、硬化した皮膚を破る確かな手応えがあった。
深い傷だ。人間の体ならば致命傷になるはずの。
なのに、男は止まらなかった。
そのまま丸太のような腕でキリークを薙ぎ払おうとする。
上体を反らして躱し、大きく距離を取ったキリークは、男の胸を見た。
傷口が、塞がっていく。
目に見える異常な速さで。
赤黒い泥のようなものが傷を埋め、皮膚が強制的に引き寄せられて閉じていく。
まるで最初から傷などなかったように。
舌打ちが出た。
そういうことか。
直刀による物理的な切断では終わらない。
ならば――。
キリークは素早く直刀を鞘に収め、右手でガネフの金属鞭を構えた。
握りの赤金の石に意識を向ける。
石が、心臓のように熱く脈動した。
その熱が特殊な繊維を伝い、鞭の全長がじわりと温度を帯びる。
先端に火花が散り、雪原の冷気を焼いて空気が焦げる匂いが広がった。
炎の鞭。
高温で細胞を焼けば、再生が追いつかなくなる。
女が、低い軌道で飛びかかってきた。
キリークは右腕を振り上げた。
ガネフの声が耳の奥で蘇る。
『振り回すな。相手の動く先へ置け』
キリークは鞭を力任せに振ったのではない。
自らの意志を持った蛇のように、空間へ走らせた。
女が踏み込むであろう一点。
そこへ向けて、炎の軌跡を置く。
赤い軌跡が宙を裂き、自らの推進力に殺された女の腕に巻きついた。
炎が肉を激しく焼く音がした。
女が初めて、顔を苦痛に歪めて悲鳴を上げた。
鞭を引き抜く。
再生しようとする傷口が、炎に炭化されて追いつかない。
修復しようとする端から肉が崩れていく。
その隙に、キリークは思考を完全に戦闘モードへ切り替えた。
左肩の古傷の疼きを冷酷に無視し、男へと向き直る。
突進してくる男の足元へ、炎の鞭を低く走らせた。
鞭で男の足を払い、体勢を崩させる。
倒れかけた男の胸部へ、炎の鞭を正面から叩き込む。
胸から腹、再生しようとする組織を片端から焼き尽くしていく。
男が初めて、苦悶の声を上げた。
再生が、完全に止まった。
今だ。
キリークは左手で直刀を抜き、雪を爆発させるように踏み込んだ。
炎で防御を剥がされた男の首筋へ一閃。
続いて、背後から迫る女へ反転し、胴を両断する。
連続した二閃が、白い雪原に鮮やかな赤い弧を描いた。
静寂が、戻った。
両断された二人の体が、ゆっくりと雪の上に崩れ落ちた。
そして雪を赤く染めるより先に、その肉体は端から黒い灰となって崩壊していった。
ドゥヴ・マーガリタの力が途絶え、仮初めの器が塵に還る。
風もないのに、その灰が舞い上がり、青空の中へ吸い込まれるように溶けていく。
あっけないほど、きれいに消えた。
何も残らなかった。
血の跡すら、雪に吸われて見えなくなっていく。
完全に消滅する寸前、女の顔だけが雪の上に残り、微かに唇を動かした。
「どうして……そこまでして、生きるの……」
それは狂信的な救済の言葉ではなく、掠れた声だった。
与えられた台本のない、初めて彼女自身の魂から出たような声に聞こえた。
キリークは直刀を下げたまま、その消えゆく灰を静かに見下ろした。
「帰る場所が、あるから」
それだけを、短く答えた。
灰は風に溶け、空に消え、何一つ残らなかった。
キリークは直刀の刃に付着した微かな灰を振り払い、鞘に収めた。
ふと、手首を見た。
革紐のブレスレットが、雪の反射光を受けて微かに揺れていた。
カーサの小さな指が、丁寧に結んでくれたもの。
帰ってこられるように、というあの微笑みと共に。
胸の奥が、静かに温かくなった。
右手に握ったガネフの鞭の重さが、すでに自分の身体の一部のように馴染んでいる。
左の掌には、使い込まれた直刀の柄の感触がある。
あの冷たく暗い谷底の山小屋で、彼らと過ごした確かな日々が、今のキリークの血肉となり、体を前へと押し出していた。
それでも、脳裏から離れない言葉があった。
『死んだ器に、力を吹き込んでくださった。どんな器でも、望む形に造り変えられる』
マイトレーヤ。
キリークは強く唇を引き結んだ。
無事だ。
考えすぎるな。
そう自分に言い聞かせようとして、できなかった。
焦りが、重い鉛のように胃の腑に落ちる。
地図を開いた。
隠し道はまだ続いている。岩稜帯の先に、頂への道がある。
キリークは顔を上げ、眩しすぎる空を睨んだ。
突き抜けるような青空が、稜線の向こうまで果てしなく広がっていた。
太陽が新雪を照らし、まるで世界が全部光でできているようだった。
キリークは一歩、足を前に出した。
歩き出した。
雪を踏み締める音が、再び静寂の山に響き始める。
空の神殿は、もう近かった。




