-金色の戦士- 第30話 出立
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 出立
朝、目が覚めた時、小屋の中を満たしている空気が違っていた。
窓から差し込む光が、白く柔らかい。
これまでのような吹雪越しの鈍い光ではない。
キリークは身を起こして窓の外を見る。
雲一つない、突き抜けるような青空が、遠い稜線の向こうまで広がっている。
雪面がその光を受けて、目を射るほど眩しく輝いていた。
吹雪の重い唸りも、風の冷たい叫びも、もうどこにもない。
山が、静かに深い深呼吸をしているようだった。
カーサはいつの間にか起きていて、窓辺に立って空を見上げている。
その横顔はいつものように静かだが、昨夜とは明らかに何かが違う。
黄金色の瞳の奥に、昨夜灯った小さな熱が、まだ確かな名残として留まっている。
「止んだわね」
キリークが声をかけると、カーサは振り返り、静かに頷く。
「……ええ」
朝食は、いつもの獣脂のスープだ。
三人と一匹で、簡素な卓を囲む。
ヴォルクはキリークの足元に伏せ、いつものように重い顎を膝に乗せてくる。
キリークはその骨太な頭を撫でながら、無言で椀を空にする。
これが、この小屋での最後の朝食だ。
ガネフは何も言わない。
カーサも、不器用な手つきで「ふー、ふー」とスープを冷ましながら黙って飲んでいる。
言葉のない食卓だが、不思議と沈黙に重さはない。
ただ、キリークの視線が一度だけ、卓の向こう、かまどの脇の何もない空間に吸い寄せられる。
いつもそこにあった、大きな背中が、今日もない。
ずっとそうだ。
これからも、そうだ。
キリークは微かに目を伏せ、最後の一口を胃の腑に流し込むことで、その喪失感を強引に呑み込む。
それでも、歩いていかなければならない。
荷支度を終えたキリークに、ガネフが卓の上で一枚の地図を広げた。
使い込まれた古い羊皮紙に、この霊山の複雑な地形が克明に記されている。
ガネフの無骨な指が、谷底から頂へ向かうひとつの細い線を辿る。
「ここだ」
ガネフは低い声で言う。
「帝国軍の索敵から完全に外れた、岩稜帯の裏を抜ける道だ。俺が軍にいた頃に使った隠し道で、知っている人間はほとんどいない。正面の尾根を登るより時間はかかるが、見つからずに頂上直下まで辿り着ける」
「頂上直下まで」
キリークは地図を見つめる。
「そこからは……」
「そこからは、お前次第だ」
ガネフは地図を乱暴に折り畳み、キリークの胸に押しつける。
「持っていけ。俺にはもう使い道がない代物だ」
キリークはそれを受け取り、まっすぐにガネフを見る。
「ガネフ。なぜ、ここまで助けてくれたの? 帝国の厄介事にわざわざ首を突っ込む理由はないでしょう?」
ガネフは少しの間、黙っている。
それから、痛む右膝を庇うように立ち上がり、窓の外の青空へ視線を逸らす。
「俺は帝国から逃げた」
ガネフは吐き捨てるように言う。
「帝国の理不尽を見て、嫌になって、逃げ出した。それだけだ。英雄的な理由は何もない」
「それでも」
「……お前みたいな不器用な馬鹿が、無謀な犬死にするのを見るのは、もううんざりなんだよ」
ガネフは照れ隠しのように鼻を鳴らし、かまどの火かき棒を手にする。
「理由はそれだけだ。余計なことを聞くな」
キリークは小さく息を吐いて笑う。
「ありがとう、ガネフ」
「礼はいい」
ガネフは背を向けたまま言う。
「死ぬなよ」
それだけだ。振り返りもしない。
けれど、その不器用な背中からの激励だけで、キリークには十分だ。
小屋の戸口に立った時、ヴォルクがのそりと寄ってくる。
キリークの手のひらに冷たい鼻先を押しつけ、それからゆっくりと離れる。
ヴォルクなりの見送りだ。
キリークはもう一度、その骨太で温かい頭を撫でた。
「いい子ね、ヴォルク。世話になったわ」
ヴォルクは短い尻尾を一度だけ振る。
キリークが戸口を出て、雪を踏みしめようとした時だ。
「待って」
背後からカーサの声がする。
振り返ると、カーサが立っている。
その小さな両手に、革紐で編んだものを持っている。
ずっと黙々と作り続けていた、あの輪だ。
細い革紐が複雑に交差し、小さな、しかし丁寧で頑丈なブレスレットになっている。
カーサはキリークの前に歩み寄り、その手首を両手で取る。
無言で、傷だらけの手首にブレスレットを結びつける。
小さな指が、解けないように、丁寧に、しっかりと。
キリークは動かずに、その真剣な手元を見つめている。
「……カーサ」
「小さな願いのための、小さなお守り」
カーサは手元を見たまま、静かに言う。
「大きな力はない。世界を救うものでも、奇跡を起こすものでもない。ただ……あなたが、帰ってこられるように」
結び終えたカーサが、ゆっくりと顔を上げる。
キリークは、思わず息を飲む。
カーサが、微笑んでいる。
それは、これまで一度も見たことのない表情だ。
昨夜の戸惑いでも、静かに達観した冷たい目でも、神話の英傑を重ねる遠い眼差しでもない。
目の前にいる「キリーク」という泥臭いひとりの人間に向けられた、初めての、本物の微笑みだ。
「いってらっしゃい、人間の戦士」
キリークは少しの間、その顔をただ見つめ返していた。
胸の奥の、ひどく冷たく凍りついていた場所で、何かが温かく溶けていくのを感じる。
視界が滲みそうになる。
キリークは空を見上げた。
涙は落ちない。
今日は泣く日ではない。
戦いに赴く日なのだ。
「……ありがとう、カーサ」
キリークは笑った。
無理に作った顔ではなく、自然と頬が緩んでいる。
「必ず帰ってくるわ。保証はしないけれど……そのつもりよ」
カーサは何も言わない。
ただ、もう一度だけ、小さく頷く。
キリークは背を向け、歩き出す。
真っ白な雪面に真新しい足跡を刻みながら、もう二度と振り返らずに歩いていく。
腰には使い慣れた直刀。
手にはガネフから託された炎の鞭。
懐には、帝国軍の目を欺く隠密ルートの地図。
そして手首には、カーサから受け取った小さな腕輪。
あの暗い崖底へ落ちた時には、すべてを失い、何も持っていなかったはずなのに。
空が広い。
突き抜けるような青の下、霊山が静かに、そして厳かに輝いている。
アシュヴィンは待っている。
マイトレーヤが、待っている。
キリークは前を向いたまま、冷たい風の中を歩き続けた。
腕を振るたび、手首に結ばれた小さなブレスレットが、雪の光を受けてかすかに揺れていた。




