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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
7章 小さな願い(山小屋編)
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-金色の戦士- 第30話 出立

『サンシャーラ神話物語』

-金色こんじきの戦士- 出立



朝、目が覚めた時、小屋の中を満たしている空気が違っていた。


窓から差し込む光が、白く柔らかい。

これまでのような吹雪越しの鈍い光ではない。

キリークは身を起こして窓の外を見る。


雲一つない、突き抜けるような青空が、遠い稜線の向こうまで広がっている。

雪面がその光を受けて、目を射るほど眩しく輝いていた。

吹雪の重い唸りも、風の冷たい叫びも、もうどこにもない。

山が、静かに深い深呼吸をしているようだった。


カーサはいつの間にか起きていて、窓辺に立って空を見上げている。

その横顔はいつものように静かだが、昨夜とは明らかに何かが違う。

黄金色の瞳の奥に、昨夜灯った小さな熱が、まだ確かな名残として留まっている。


「止んだわね」

キリークが声をかけると、カーサは振り返り、静かに頷く。

「……ええ」


朝食は、いつもの獣脂のスープだ。

三人と一匹で、簡素な卓を囲む。

ヴォルクはキリークの足元に伏せ、いつものように重い顎を膝に乗せてくる。

キリークはその骨太な頭を撫でながら、無言で椀を空にする。

これが、この小屋での最後の朝食だ。

ガネフは何も言わない。

カーサも、不器用な手つきで「ふー、ふー」とスープを冷ましながら黙って飲んでいる。

言葉のない食卓だが、不思議と沈黙に重さはない。

ただ、キリークの視線が一度だけ、卓の向こう、かまどの脇の何もない空間に吸い寄せられる。


いつもそこにあった、大きな背中が、今日もない。


ずっとそうだ。

これからも、そうだ。


キリークは微かに目を伏せ、最後の一口を胃の腑に流し込むことで、その喪失感を強引に呑み込む。

それでも、歩いていかなければならない。


荷支度を終えたキリークに、ガネフが卓の上で一枚の地図を広げた。

使い込まれた古い羊皮紙に、この霊山の複雑な地形が克明に記されている。

ガネフの無骨な指が、谷底から頂へ向かうひとつの細い線を辿る。


「ここだ」

ガネフは低い声で言う。

「帝国軍の索敵から完全に外れた、岩稜帯の裏を抜ける道だ。俺が軍にいた頃に使った隠し道で、知っている人間はほとんどいない。正面の尾根を登るより時間はかかるが、見つからずに頂上直下まで辿り着ける」

「頂上直下まで」

キリークは地図を見つめる。

「そこからは……」

「そこからは、お前次第だ」

ガネフは地図を乱暴に折り畳み、キリークの胸に押しつける。

「持っていけ。俺にはもう使い道がない代物だ」

キリークはそれを受け取り、まっすぐにガネフを見る。

「ガネフ。なぜ、ここまで助けてくれたの? 帝国の厄介事にわざわざ首を突っ込む理由はないでしょう?」


ガネフは少しの間、黙っている。

それから、痛む右膝を庇うように立ち上がり、窓の外の青空へ視線を逸らす。

「俺は帝国から逃げた」

ガネフは吐き捨てるように言う。

「帝国の理不尽を見て、嫌になって、逃げ出した。それだけだ。英雄的な理由は何もない」

「それでも」

「……お前みたいな不器用な馬鹿が、無謀な犬死にするのを見るのは、もううんざりなんだよ」

ガネフは照れ隠しのように鼻を鳴らし、かまどの火かき棒を手にする。

「理由はそれだけだ。余計なことを聞くな」

キリークは小さく息を吐いて笑う。

「ありがとう、ガネフ」

「礼はいい」

ガネフは背を向けたまま言う。

「死ぬなよ」

それだけだ。振り返りもしない。

けれど、その不器用な背中からの激励だけで、キリークには十分だ。


小屋の戸口に立った時、ヴォルクがのそりと寄ってくる。

キリークの手のひらに冷たい鼻先を押しつけ、それからゆっくりと離れる。

ヴォルクなりの見送りだ。

キリークはもう一度、その骨太で温かい頭を撫でた。

「いい子ね、ヴォルク。世話になったわ」

ヴォルクは短い尻尾を一度だけ振る。

キリークが戸口を出て、雪を踏みしめようとした時だ。


「待って」

背後からカーサの声がする。

振り返ると、カーサが立っている。

その小さな両手に、革紐で編んだものを持っている。

ずっと黙々と作り続けていた、あの輪だ。

細い革紐が複雑に交差し、小さな、しかし丁寧で頑丈なブレスレットになっている。

カーサはキリークの前に歩み寄り、その手首を両手で取る。

無言で、傷だらけの手首にブレスレットを結びつける。

小さな指が、解けないように、丁寧に、しっかりと。

キリークは動かずに、その真剣な手元を見つめている。


「……カーサ」

「小さな願いのための、小さなお守り」

カーサは手元を見たまま、静かに言う。

「大きな力はない。世界を救うものでも、奇跡を起こすものでもない。ただ……あなたが、帰ってこられるように」

結び終えたカーサが、ゆっくりと顔を上げる。

キリークは、思わず息を飲む。


カーサが、微笑んでいる。

それは、これまで一度も見たことのない表情だ。

昨夜の戸惑いでも、静かに達観した冷たい目でも、神話の英傑を重ねる遠い眼差しでもない。

目の前にいる「キリーク」という泥臭いひとりの人間に向けられた、初めての、本物の微笑みだ。


「いってらっしゃい、人間の戦士」

キリークは少しの間、その顔をただ見つめ返していた。

胸の奥の、ひどく冷たく凍りついていた場所で、何かが温かく溶けていくのを感じる。

視界が滲みそうになる。

キリークは空を見上げた。

涙は落ちない。

今日は泣く日ではない。

戦いに赴く日なのだ。


「……ありがとう、カーサ」

キリークは笑った。

無理に作った顔ではなく、自然と頬が緩んでいる。

「必ず帰ってくるわ。保証はしないけれど……そのつもりよ」

カーサは何も言わない。

ただ、もう一度だけ、小さく頷く。

キリークは背を向け、歩き出す。

真っ白な雪面に真新しい足跡を刻みながら、もう二度と振り返らずに歩いていく。


腰には使い慣れた直刀。

手にはガネフから託された炎の鞭。

懐には、帝国軍の目を欺く隠密ルートの地図。

そして手首には、カーサから受け取った小さな腕輪。


あの暗い崖底へ落ちた時には、すべてを失い、何も持っていなかったはずなのに。


空が広い。

突き抜けるような青の下、霊山が静かに、そして厳かに輝いている。


アシュヴィンは待っている。

マイトレーヤが、待っている。


キリークは前を向いたまま、冷たい風の中を歩き続けた。

腕を振るたび、手首に結ばれた小さなブレスレットが、雪の光を受けてかすかに揺れていた。

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