-金色の戦士- 第29話 守護
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 守護
四日目の夕暮れ。
長く重かった吹雪がようやく弱まり始めた。
窓の外、白一色だった視界に、ほんのわずかだが遠い稜線の影が見える。
「明日には抜けるな」
ガネフが窓辺に立ち、雲の切れ間を見上げて呟く。
暴れ狂っていた風が、まるで息を潜めるように静まっていく。
キリークの体も、ずいぶん動くようになっていた。
鞭の扱いも、体に馴染みつつある。
あと一日。
明日、吹雪が完全に止めば、出立できる。
アシュヴィンの待つ、あの頂へ。
その夜のことだ。
床で丸まっていたヴォルクが、突然立ち上がって低く唸り声を上げた。
牙を剥き、戸口の方を睨みつけている。
灰色の毛を総毛立たせ、全身を限界まで強張らせて。
キリークは反射的に直刀の柄に手を伸ばす。
ガネフも顔色を変え、壁に立てかけた手斧を掴む。
「魔獣だ」
ガネフが押し殺した声で言う。
「吹雪が弱まって、餌を探しに降りてきやがった。血の匂いを嗅ぎつけられたか」
次の瞬間、分厚い木の戸口が、轟音とともに外側から叩き割られる。
粉雪と凍てつく冷気が雪崩れ込み、巨大な影が小屋に押し入ってくる。
灰白色の分厚い体毛に覆われた、熊にも狼にもつかない異形。
背丈は人の倍ほどもあり、爛々と光る四つの目が獲物を探してぎょろりと動く。
口から覗く黄ばんだ牙は、人間の骨など容易く噛み砕く太さだ。
山に棲む魔獣。
飢えによって肥大化した、純粋な捕食者。
魔獣が耳をつんざく咆哮を上げる。
小屋の空気がびりびりと震える。
「カーサ、下がって!」
キリークは叫びながら前へ出る。
直刀を抜き放ち、もう一方の手で黒い革鞭を握る。
赤金の石を脈動させ、鞭の全長に炎を這わせる。
ガネフも手斧を構えて踏み込もうとした……が、体重を乗せた瞬間、その右膝がぐらりと不自然な方向に崩れる。
「ぐっ……!」
手斧を落とし、激痛に顔を歪めてガネフがその場に膝をつく。
古傷だ。
寒さと急激な負荷に、癒えきらぬ傷が悲鳴を上げたのだ。
立ち上がろうとして、また崩れる。
歴戦の軍人が、己の足への苛立ちに奥歯を噛み砕かんばかりに悔しげな呻きを漏らす。
「クソ……こんな時に……!」
「いいから動かないで!」
キリークは動けないガネフとカーサを背後に庇い、魔獣の前に立ちはだかる。
たった一人で。
魔獣が丸太のような前肢を振り上げる。
風を裂く一撃。
キリークは横に跳んで紙一重で躱す。
脇腹と左肩の傷口が引き攣れ、視界が明滅するほどの激痛が走るが、奥歯を噛み締め、強引に意識を繋ぎ止める。
鋭い爪が床板を抉り、木片が派手に飛び散る。
懐に入るには遠い。
だが――今の自分には、間合いを潰す手段がある。
キリークは炎の鞭を全力で振るう。
赤い軌跡が宙を裂き、魔獣の前肢に蛇のように巻きついた。
ファルサの炎が獣毛を焼き焦がし、魔獣が苦痛の咆哮を上げる。
その僅かな隙を突き、キリークは一気に間合いを詰める。
鞭で動きを縛りつけたまま、直刀で斬り上げた。
脇腹への一閃。
硬い毛皮を裂き、黒々とした血が噴き出す。
だが、飢えた魔獣は怯まない。
鞭を引きちぎるような膂力で暴れ、もう一方の前肢でキリークの体を薙ぎ払う。
咄嗟に直刀の腹で受けたが、防ぎきれる重さではない。
衝撃で体ごと吹き飛ばされる。
背中から壁に激突し、肺から空気が弾き出される。
開いた傷口から、どくどくと熱いものが流れ出る感触がある。
「キリーク!」
ガネフが叫ぶ。
膝をついたまま、無念そうに床を叩く。
カーサは部屋の隅で、壁際へ崩れ落ちたキリークをじっと見つめている。
いつもは深空色を湛えていた瞳の奥に、青白い光が揺らぐ。
その大きな瞳が、いまは黄金色に揺れている。
「……あの時のように」
吹雪と咆哮の渦中であったのに、その声はなぜかキリークの鼓膜にまっすぐ届く。
「『金色』の、あの人みたいに……」
カーサが、ぽつりと呟く。
「……命を捨てるの?」
壁に背を預けたまま、キリークはゆっくりと立ち上がる。
口の中に広がった鉄の味を吐き捨て、再び鞭と直刀を構える。
魔獣がこちらに向き直り、とどめを刺すべく突進の体勢を取る。
カーサの問いが、胸の奥で反響している。
世界を救った神話の英傑のように、気高く散るのか、と。
「……違う」
キリークは前を見据えたまま、短く吐き捨てる。
「世界のためなんかじゃない……」
魔獣が床を蹴る。
キリークは直刀の柄を、折れんばかりの力で握り直す。
「私は……私の大切なものを守るために、生きるのよ!」
キリークは横に跳びながら、炎の鞭を全力で振り抜いた。
赤い軌跡が魔獣の顔面を的確に打ち据える。
炎が四つの目を焼き、魔獣が一瞬、視界を失って棒立ちになる。
その刹那を、キリークは逃さない。
床を蹴り、傷だらけの体で懐の最も深い場所へ飛び込む。
炎の鞭で喉元を縛り上げ、身動きを封じたそこへ――体重のすべてを乗せた直刀を、深々と突き立てた。
刃が分厚い筋肉を裂き、確かな手応えで急所を貫く。
魔獣の巨体が激しく痙攣し、耳障りな断末魔の咆哮を上げ……床に崩れ落ちた。
静寂が戻る。
弱まりかけた吹雪の冷たい風だけが、割れた戸口から小屋の中へ流れ込んでいる。
キリークは荒い息をつきながら、魔獣の体から直刀を引き抜く。
全身傷だらけだ。
塞ぎかけていた傷が開き、靴の底に血の水溜まりができている。
立っているのもやっとだ。
それでも、二人を守り抜いたのだ。
ガネフが壁を伝い、膝を引きずりながら近づいてくる。
「無茶しやがって……」
呆れたような、それでいて深い安堵の滲んだ、しわがれた声だ。
「だが、見事だ」
キリークは短く息を吐いて笑い、ついに限界を迎えてその場に座り込む。
そして、部屋の隅にいるカーサを見る。
カーサは、立ち尽くしている。
いつもの、人形のような無表情はそこにはない。
大きな瞳いっぱいに、見たことのない色を湛えて、キリークを見つめている。
「……世界のためじゃ、ない」
ぽつりと呟いたカーサの小さい声に、キリークは乱れた息を整えながら頷く。
「私はね、英雄なんかじゃない。立派に世界のために死ねるような人間じゃない。ただ――大切なものを、守りたいだけ。そのために、生きるって決めただけよ」
身勝手で、英雄譚にはほど遠い生き方。
それでも、誰の真似でもない、キリーク自身が選んだ生き方だ。
カーサが、ゆっくりとキリークに歩み寄る。
そして、血と泥に塗れたキリークの前にしゃがみ込み、その手をそっと両手で包み込む。
目を閉じる。
いつものように、不思議な力が流れ込み、痛みが引いていく。
でも、いつもと何かが違う。
キリークの手を包むカーサの小さな手が、かすかに、けれど確かに震えているのだ。
「カーサ……?」
キリークが名を呼ぶと、カーサはゆっくりと目を開ける。
その深空色の瞳が、潤んでいる。
「……あなたは、『金色』の、あの人とは、違う」
カーサは、胸の奥から何かを絞り出すように言う。
「世界のために命を捨てた、あの人とは、違う。あなたは……自分の大切なものを守るために、生きている。痛くても、血を流しても、それでも生きようとしている。……わたし、そういうのを、初めて見た」
その言葉は、いつもの冷たい口調ではない。
ひとりの子供が、目の前で必死に生きる誰かに、初めて心を大きく揺さぶられた声だ。
キリークは空いている方の手を伸ばし、乱れた赤銀色の頭を、不器用に撫でる。
「ありがとう。あなたのおかげで、何度も助けられたわ」
カーサは何も言わず、ただすがりつくようにキリークの手に額を預ける。
その胸元で、青白い光が、今度ははっきりと、温かい鼓動のように脈打っていた。
その夜。
ガネフが割れた戸口に手持ちの板を打ちつけ、どうにか応急処置を済ませた。
魔獣の重い死骸はヴォルクも手伝って外へ引きずり出され、小屋にようやくいつもの静けさが戻った。
キリークは寝台に横たわり、煤けた天井を見上げている。
傷はまだ鈍く痛むが、心は不思議と凪いでいる。
ふと、寝台の端が沈んだ。
カーサが、いつものように潜り込んでくる。
けれど今夜は、ただ服の裾を掴むだけではない。
小さな体をキリークの脇にぴたりと寄せ、己の体温を分け与えるように、ぎゅっとしがみついてくる。
キリークは少し驚いて息を呑み、それから、その小さな背中にそっと片腕を回す。
人間らしい、確かな温かさがある。
静かすぎる夜だ。
あの、少しうるさいくらいの低い寝息は、もうない。
かまどの火の傍を探しても、もうどこにもいない。
その冷たい喪失感は、まだ胸の底に重く沈んでいる。
けれど今夜は、腕の中のこの小さな温もりが、キリークを暗闇から繋ぎ止めている。
キリークはゆっくりと目を閉じる。
明日、出立する。
弟を奪ったアシュヴィンの待つ、あの頂へ。
己の命を燃やしてでも、守りたいものを守るために。




