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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
7章 小さな願い(山小屋編)
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-金色の戦士- 第28話 追憶

『サンシャーラ神話物語』

-金色こんじきの戦士- 追憶



三日目の朝、キリークは寝台から自力で起き上がった。


脇腹はまだ疼くが、昨日までのような痛みは感じない。

カーサの手当てのおかげだということは分かっている。

でも、なぜあれほどの傷がここまで早く治るのかは分からない。

ただ、礼を言うとカーサは決まって「何もしていない」と返すので、最近は言葉の代わりに無言で視線を交わすだけにとどめている。

体が動くなら、鈍らせるわけにはいかない。


キリークは小屋の隅で直刀を抜き、ゆっくりと素振りを始めた。

傷に障らない範囲で。

それでも数十回も振れば額に汗が滲む。

右脇腹が疼く。

そして腕を振り上げるたび、左肩がそれよりも鋭く痛む。

どちらの傷もまだ塞がりきってはいない。

それでも、止まるわけにはいかない。

立ち止まれば、恐怖より先にマイトレーヤの顔が浮かんでしまうから。


「やめておけと言いたいが」

ガネフが戸口から雪まみれの薪を運びながら言った。

「言っても聞かんのだろう?」

「聞かない」

「だろうな」

ガネフは薪をかまどの脇に積み上げると、ふと手を止めてキリークの素振りを見ている。軍人が、新兵の動きを値踏みする目で。

「直刀一本でアシュヴィンに挑む気か」

「他にない」

「間合いが足りん。さっきから見ているが、お前の間合いは槍の半分もない。近づく前に終わる、と言ったはずだ」

ガネフは腕を組んだ。

「それでも行くなら……少し待っていろ」

そう言って、奥の物置に消えた。


ガネフが引っ張り出してきたのは、長い革の鞭だった。

黒く、しなやかで、表面に細い金属の繊維が編み込まれている。

握りの根元には、何かを嵌め込むための小さな座が刳り抜かれている。


キリークが受け取ると、見た目より重く、握りには血と汗が染み込んだような使い込まれた感触がある。

「帝国軍の試作兵装だ」

ガネフは言った。

「ファルサの触媒を伝導する特殊な繊維が編み込んである。握りのその座に石を嵌めれば、繊維全体に力が回る。ファルサは持っているか?」

キリークは答える代わりに、懐から小さな宝石を取り出した。

赤金色に鈍く光る石。

火のファルサを宿す触媒。

あの絶望的な落下の中で、奇跡的に失わなかったもの。

それを無言で、鞭の握りの座に嵌め込む。

石が淡く脈打つ。

熱が繊維を伝い、鞭の全長が生き物のようにじわりと温度を帯びる。

先端から赤い火花が散り、空気が焦げる匂いがした。


「使えるようだな」

ガネフが小さく頷いた。

「これなら槍の間合いに割って入れる。鞭で相手の得物を絡め取り、隙を作って直刀で仕留める。中距離から一気に間合いを潰す戦い方だ」

「なぜこんなものを持っているの?」

「脱走する時に持ち出した」

ガネフは肩をすくめた。

「使い道もなく錆びさせるよりは、お前が振り回した方がマシだろう」

キリークは鞭を握りしめた。

赤金の石が脈動する。

炎を纏わせ、空に向かって一閃した。

鋭い音と共に、赤い軌跡が宙を裂く。

手応えがある。

これなら――間合いを、潰せる。


「……ありがとう」

キリークは短く息を吐いて言った。

「礼はいい。死なずに使え」

ガネフは背を向けた。

「午後から鍛えてやる。膝が動く範囲でだがな」


その日の午後、ガネフはキリークに鞭の扱いを叩き込んだ。

手本を見せる時、ガネフは右膝を庇うように動いた。

深く踏み込もうとすると、微かに顔をしかめて動きを止める。

古傷だ、とキリークは察した。

帝国軍を離れた理由が、その膝にあるのだろう。

キリークはそれ以上深くは問わず、ただ己の目で動きを盗んだ。

「俺の膝はもう使い物にならん」

ガネフは汗を拭いながら言った。

「だから口で教える。動きは自分の体に刻め」

鞭を振り、赤金の石を脈動させ、炎を纏わせて直刀へ繋ぐ。

何度も繰り返した。

左肩の傷が腕を振るたびに痛むが、奥歯を噛み締めて無視する。

日が傾く頃には、鞭の軌道が少しずつ体に馴染んでくる。


「少し休め」

ガネフの言葉に、キリークは壁に背を預けてずるりと座り込んだ。

荒い息を吐いていると、小屋の隅で退屈そうにしていたヴォルクが、のそりと近づいてきた。

大きな鼻先をキリークの手のひらに押し付け、「撫でろ」と要求するように低い喉を鳴らす。

「……お前、飼い主より愛想がいいのね」

キリークが短く息を吐き、耳の後ろを掻いてやると、ヴォルクは気持ちよさそうに目を細める。


ふと視線を感じて顔を上げると、いつもの椅子に座っていたカーサが、無言でこちらを見つめている。

その深空色の瞳が、キリークの手とヴォルクの頭を交互に追っている。

「……やってみる?」

キリークが促すと、カーサは少し戸惑うような間を置いてから、ゆっくりと近づいてきた。

キリークの隣にしゃがみ込み、おそるおそる小さな手を伸ばす。

「耳の後ろが好きみたいよ」

キリークが教えると、カーサは真顔のまま、ヴォルクの耳の後ろをぎこちなく撫でた。

ヴォルクが「ふん」と鼻を鳴らしてカーサの膝に重い顎を乗せると、カーサはほんの少しだけ目を丸くする。

「……温かい」

「そうね」

子供の小さな手と、戦士の傷だらけの手。

その間に、大きな灰色の獣が挟まって安らかな寝息を立て始める。

冷たい吹雪の音が響く小屋の中で、そこだけが微かに緩んだ空気を纏っている。


夜。

訓練の疲れで小屋に落ち着いた空気が流れる中、ガネフがかまどの火を見つめながら、ぽつりと語り始めた。

「お前、大破神ヴィヴァルタの神話は知っているか?」

「名前くらいは」

「昔、この世界を喰らおうとした神がいた」

ガネフは火に薪をくべた。

「それを封じたのが、五人の英傑だ。剣士、弓兵、術士――出自も力もばらばらの五人が、己の身を犠牲にして大破神を封印した。世界を守るために、自分の命を投げ出してな」


炎が爆ぜる。

「世界のために命を捨てる。英雄譚としちゃ立派なもんだ」

ガネフの口調には、わずかな皮肉が滲んでいる。

「だが俺は、軍にいた頃にそういう『英雄』を何人も見送った。立派な死に方の裏で、残された奴らがどうなるかも、な」

キリークは無言で火を見つめている。反論する言葉は持っていない。


「……『金色こんじき』のあの人と、同じ目をしている」

隣に座っていたカーサが、ぽつりと言った。

「え?」

キリークが振り向くと、カーサは炎を見つめている。

まるで遠い昔を思い出すように。

「昔も、似たようなことがあった」

その言い方は奇妙だ。

まるで、その英傑を実際に見たことがあるかのような……神話の中の人物を、知り合いのように語る口ぶりだった。

「カーサ、その英傑を見たことがあるみたいな言い方ね」

「……うん」

カーサは静かにそう言って、それきり口を閉じた。

ガネフが片眉を上げてカーサを見たが、何も言わなかった。

子供の妙な言動には、もう慣れているらしい。

キリークも言葉を飲み込み、微かに目を細めて揺れる火の粉をただ見つめ返した。


火が落ち着いた頃。

カーサはまた、例の革紐を編んでいる。

指が規則的に紐を交差させていく。

だいぶ形になってきたのか、輪のような構造が見えてきている。

その不器用な手つきを見ているうちに、キリークの胸の奥がきしむ。


マイトレーヤだ。

あの子も、よくこうして何かを作っていた。不器用な手つきで、舌先を少しだけ出して、真剣な顔で。

今頃、どんな場所にいるのか。

寒くないか。

怖い思いをしていないか――。


「……髪、編んであげましょうか?」

気づくと、キリークはそう言っていた。

カーサの赤銀色の髪は、美しいのにいつもボサボサに乱れている。

カーサは手を止めて、不思議そうにキリークを見上げた。

「髪を、編む?」

「そう。じっとしていて」

キリークはカーサの後ろに回り、その髪に指を通した。

意外なほど細く、絹のような手触りだ。

指で梳き、丁寧に編んでいく。

左肩が痛むが、構わない。


カーサはされるがまま、目をぱちぱちと瞬かせている。

二人の足元では、ヴォルクがどさりと横たわって心地よさそうに丸まっている。

子供らしからぬ静謐な子が、この時ばかりは少し戸惑っているようだ。

その姿に、キリークはまたマイトレーヤを重ねた。


寝癖だらけの頭を、毎朝直してやった日々。「痛い」と文句を言いながら、結局おとなしくしていた弟。


ふっと、キリークの顔が緩む。

手元に集中していると、不意に焦げた匂いが鼻をかすめる。

かまどの薪が爆ぜた匂いだ。

キリークの手が一瞬止まり、肩越しに振り返りかけた。

あの大きな背中を、無意識に探すように。

もちろん、そこにはガネフが背を向けて道具の手入れをしているだけだ。


あの人はいない。

分かっている。

分かっているのに、体が勝手に探してしまう。


「どうしたの?」

カーサが小さく聞いた。

「……何でもない」

喉の奥の強張りを無理やり飲み込み、キリークは編む手を再開した。


喪失は、こういう何でもない瞬間に、ふいに胸を刺してくる。

戦っている時より、よほど鋭く。

髪を編み終えると、カーサは小さな三つ編みを指でそっと触れた。

「……変な感じ」

「嫌だった?」

「ううん」

カーサは首を振った。

「あたたかい」

その言葉に、キリークは少し驚いた。

いつも無機質で、現象を確かめるような物言いをする子が、初めて自分の感覚を、感情に近い言葉で口にした。

カーサ自身も、自分の言葉に戸惑っているようだ。

胸元に手をやり、何かを確かめるような仕草をした。

その服の下で、一瞬、青白い光が漏れた気がする。

「それ、何を下げているの?」

キリークが何気なく聞くと、カーサは胸元を手で覆った。

「……大事なもの」

それだけだ。

キリークはそれ以上聞かなかった。

誰にだって、踏み込まれたくない領域はある。


火の爆ぜる音と、ヴォルクの低い寝息。

静かな夜だ。

今夜は、独りではない夜だ。

キリークはカーサの小さな三つ編みを見ながら、ほんの少しだけ、胸の奥の冷たさが和らぐのを感じていた。

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