-金色の戦士- 第28話 追憶
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 追憶
三日目の朝、キリークは寝台から自力で起き上がった。
脇腹はまだ疼くが、昨日までのような痛みは感じない。
カーサの手当てのおかげだということは分かっている。
でも、なぜあれほどの傷がここまで早く治るのかは分からない。
ただ、礼を言うとカーサは決まって「何もしていない」と返すので、最近は言葉の代わりに無言で視線を交わすだけにとどめている。
体が動くなら、鈍らせるわけにはいかない。
キリークは小屋の隅で直刀を抜き、ゆっくりと素振りを始めた。
傷に障らない範囲で。
それでも数十回も振れば額に汗が滲む。
右脇腹が疼く。
そして腕を振り上げるたび、左肩がそれよりも鋭く痛む。
どちらの傷もまだ塞がりきってはいない。
それでも、止まるわけにはいかない。
立ち止まれば、恐怖より先にマイトレーヤの顔が浮かんでしまうから。
「やめておけと言いたいが」
ガネフが戸口から雪まみれの薪を運びながら言った。
「言っても聞かんのだろう?」
「聞かない」
「だろうな」
ガネフは薪をかまどの脇に積み上げると、ふと手を止めてキリークの素振りを見ている。軍人が、新兵の動きを値踏みする目で。
「直刀一本でアシュヴィンに挑む気か」
「他にない」
「間合いが足りん。さっきから見ているが、お前の間合いは槍の半分もない。近づく前に終わる、と言ったはずだ」
ガネフは腕を組んだ。
「それでも行くなら……少し待っていろ」
そう言って、奥の物置に消えた。
ガネフが引っ張り出してきたのは、長い革の鞭だった。
黒く、しなやかで、表面に細い金属の繊維が編み込まれている。
握りの根元には、何かを嵌め込むための小さな座が刳り抜かれている。
キリークが受け取ると、見た目より重く、握りには血と汗が染み込んだような使い込まれた感触がある。
「帝国軍の試作兵装だ」
ガネフは言った。
「ファルサの触媒を伝導する特殊な繊維が編み込んである。握りのその座に石を嵌めれば、繊維全体に力が回る。ファルサは持っているか?」
キリークは答える代わりに、懐から小さな宝石を取り出した。
赤金色に鈍く光る石。
火のファルサを宿す触媒。
あの絶望的な落下の中で、奇跡的に失わなかったもの。
それを無言で、鞭の握りの座に嵌め込む。
石が淡く脈打つ。
熱が繊維を伝い、鞭の全長が生き物のようにじわりと温度を帯びる。
先端から赤い火花が散り、空気が焦げる匂いがした。
「使えるようだな」
ガネフが小さく頷いた。
「これなら槍の間合いに割って入れる。鞭で相手の得物を絡め取り、隙を作って直刀で仕留める。中距離から一気に間合いを潰す戦い方だ」
「なぜこんなものを持っているの?」
「脱走する時に持ち出した」
ガネフは肩をすくめた。
「使い道もなく錆びさせるよりは、お前が振り回した方がマシだろう」
キリークは鞭を握りしめた。
赤金の石が脈動する。
炎を纏わせ、空に向かって一閃した。
鋭い音と共に、赤い軌跡が宙を裂く。
手応えがある。
これなら――間合いを、潰せる。
「……ありがとう」
キリークは短く息を吐いて言った。
「礼はいい。死なずに使え」
ガネフは背を向けた。
「午後から鍛えてやる。膝が動く範囲でだがな」
その日の午後、ガネフはキリークに鞭の扱いを叩き込んだ。
手本を見せる時、ガネフは右膝を庇うように動いた。
深く踏み込もうとすると、微かに顔をしかめて動きを止める。
古傷だ、とキリークは察した。
帝国軍を離れた理由が、その膝にあるのだろう。
キリークはそれ以上深くは問わず、ただ己の目で動きを盗んだ。
「俺の膝はもう使い物にならん」
ガネフは汗を拭いながら言った。
「だから口で教える。動きは自分の体に刻め」
鞭を振り、赤金の石を脈動させ、炎を纏わせて直刀へ繋ぐ。
何度も繰り返した。
左肩の傷が腕を振るたびに痛むが、奥歯を噛み締めて無視する。
日が傾く頃には、鞭の軌道が少しずつ体に馴染んでくる。
「少し休め」
ガネフの言葉に、キリークは壁に背を預けてずるりと座り込んだ。
荒い息を吐いていると、小屋の隅で退屈そうにしていたヴォルクが、のそりと近づいてきた。
大きな鼻先をキリークの手のひらに押し付け、「撫でろ」と要求するように低い喉を鳴らす。
「……お前、飼い主より愛想がいいのね」
キリークが短く息を吐き、耳の後ろを掻いてやると、ヴォルクは気持ちよさそうに目を細める。
ふと視線を感じて顔を上げると、いつもの椅子に座っていたカーサが、無言でこちらを見つめている。
その深空色の瞳が、キリークの手とヴォルクの頭を交互に追っている。
「……やってみる?」
キリークが促すと、カーサは少し戸惑うような間を置いてから、ゆっくりと近づいてきた。
キリークの隣にしゃがみ込み、おそるおそる小さな手を伸ばす。
「耳の後ろが好きみたいよ」
キリークが教えると、カーサは真顔のまま、ヴォルクの耳の後ろをぎこちなく撫でた。
ヴォルクが「ふん」と鼻を鳴らしてカーサの膝に重い顎を乗せると、カーサはほんの少しだけ目を丸くする。
「……温かい」
「そうね」
子供の小さな手と、戦士の傷だらけの手。
その間に、大きな灰色の獣が挟まって安らかな寝息を立て始める。
冷たい吹雪の音が響く小屋の中で、そこだけが微かに緩んだ空気を纏っている。
夜。
訓練の疲れで小屋に落ち着いた空気が流れる中、ガネフがかまどの火を見つめながら、ぽつりと語り始めた。
「お前、大破神ヴィヴァルタの神話は知っているか?」
「名前くらいは」
「昔、この世界を喰らおうとした神がいた」
ガネフは火に薪をくべた。
「それを封じたのが、五人の英傑だ。剣士、弓兵、術士――出自も力もばらばらの五人が、己の身を犠牲にして大破神を封印した。世界を守るために、自分の命を投げ出してな」
炎が爆ぜる。
「世界のために命を捨てる。英雄譚としちゃ立派なもんだ」
ガネフの口調には、わずかな皮肉が滲んでいる。
「だが俺は、軍にいた頃にそういう『英雄』を何人も見送った。立派な死に方の裏で、残された奴らがどうなるかも、な」
キリークは無言で火を見つめている。反論する言葉は持っていない。
「……『金色』のあの人と、同じ目をしている」
隣に座っていたカーサが、ぽつりと言った。
「え?」
キリークが振り向くと、カーサは炎を見つめている。
まるで遠い昔を思い出すように。
「昔も、似たようなことがあった」
その言い方は奇妙だ。
まるで、その英傑を実際に見たことがあるかのような……神話の中の人物を、知り合いのように語る口ぶりだった。
「カーサ、その英傑を見たことがあるみたいな言い方ね」
「……うん」
カーサは静かにそう言って、それきり口を閉じた。
ガネフが片眉を上げてカーサを見たが、何も言わなかった。
子供の妙な言動には、もう慣れているらしい。
キリークも言葉を飲み込み、微かに目を細めて揺れる火の粉をただ見つめ返した。
火が落ち着いた頃。
カーサはまた、例の革紐を編んでいる。
指が規則的に紐を交差させていく。
だいぶ形になってきたのか、輪のような構造が見えてきている。
その不器用な手つきを見ているうちに、キリークの胸の奥がきしむ。
マイトレーヤだ。
あの子も、よくこうして何かを作っていた。不器用な手つきで、舌先を少しだけ出して、真剣な顔で。
今頃、どんな場所にいるのか。
寒くないか。
怖い思いをしていないか――。
「……髪、編んであげましょうか?」
気づくと、キリークはそう言っていた。
カーサの赤銀色の髪は、美しいのにいつもボサボサに乱れている。
カーサは手を止めて、不思議そうにキリークを見上げた。
「髪を、編む?」
「そう。じっとしていて」
キリークはカーサの後ろに回り、その髪に指を通した。
意外なほど細く、絹のような手触りだ。
指で梳き、丁寧に編んでいく。
左肩が痛むが、構わない。
カーサはされるがまま、目をぱちぱちと瞬かせている。
二人の足元では、ヴォルクがどさりと横たわって心地よさそうに丸まっている。
子供らしからぬ静謐な子が、この時ばかりは少し戸惑っているようだ。
その姿に、キリークはまたマイトレーヤを重ねた。
寝癖だらけの頭を、毎朝直してやった日々。「痛い」と文句を言いながら、結局おとなしくしていた弟。
ふっと、キリークの顔が緩む。
手元に集中していると、不意に焦げた匂いが鼻をかすめる。
かまどの薪が爆ぜた匂いだ。
キリークの手が一瞬止まり、肩越しに振り返りかけた。
あの大きな背中を、無意識に探すように。
もちろん、そこにはガネフが背を向けて道具の手入れをしているだけだ。
あの人はいない。
分かっている。
分かっているのに、体が勝手に探してしまう。
「どうしたの?」
カーサが小さく聞いた。
「……何でもない」
喉の奥の強張りを無理やり飲み込み、キリークは編む手を再開した。
喪失は、こういう何でもない瞬間に、ふいに胸を刺してくる。
戦っている時より、よほど鋭く。
髪を編み終えると、カーサは小さな三つ編みを指でそっと触れた。
「……変な感じ」
「嫌だった?」
「ううん」
カーサは首を振った。
「あたたかい」
その言葉に、キリークは少し驚いた。
いつも無機質で、現象を確かめるような物言いをする子が、初めて自分の感覚を、感情に近い言葉で口にした。
カーサ自身も、自分の言葉に戸惑っているようだ。
胸元に手をやり、何かを確かめるような仕草をした。
その服の下で、一瞬、青白い光が漏れた気がする。
「それ、何を下げているの?」
キリークが何気なく聞くと、カーサは胸元を手で覆った。
「……大事なもの」
それだけだ。
キリークはそれ以上聞かなかった。
誰にだって、踏み込まれたくない領域はある。
火の爆ぜる音と、ヴォルクの低い寝息。
静かな夜だ。
今夜は、独りではない夜だ。
キリークはカーサの小さな三つ編みを見ながら、ほんの少しだけ、胸の奥の冷たさが和らぐのを感じていた。




