-金色の戦士- 第27話 微温
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 微温
焦げた匂いで目が覚めた。
一瞬、キリークの体が反射的に半身を起こしかける。
この匂いは――煙草だ。
葉が焼ける匂い。
あの人がいつも、戦いの後にひと息つく時の。
「ガル……」
声に出してから、気づく。
かまどの前にいるのは、ガネフ、と名乗った男だ。
火吹き竹で焚き付けを起こしているところで、生木が燻って白い煙を上げている。
煙草ではない。
ただの煙だ。
あの大きな背中はどこにもない。
キリークは伸ばしかけた手をゆっくり毛布に戻した。
喉の奥が妙に重い。
「起きたか」
ガネフは振り返らずに言った。
「動けるなら卓まで来い。スープがある」
卓には三つの椀が並んでいる。
キリークが壁伝いに椅子まで辿り着くと、足元に灰色のヴォルクが寄ってきて、キリークの膝に顎を乗せ、大きな瞳で見上げてくる。
キリークは無意識にその頭を撫でた。
骨太で、温かい頭だ。
向かいの椅子には、すでに子供が座っている。
椀をじっと見つめている。
湯気の立つスープを前に、まったく手をつけようとしない。
「飲まないの?」
「熱い」
カーサは短く言った。
「飲み方が分からない」
「飲み方」
キリークは少し笑った。
「ふーって息を吹きかけて冷ますの。こうやって」
手本を見せると、カーサは真顔のまま椀に顔を寄せ、「ふー」と短く息を吹く。
それから少し考えて、「ふー、ふー」と、二度三度と息を吹きかけた。
子供の真剣さが妙に可笑しくて、キリークは久しぶりに頬が緩むのを感じる。
「妙な子だろう?」
ガネフが立ったままスープを啜りながら言った。
「言葉は通じるのに、飯の食い方も知らねえ。まるで何も知らないまま大きくなっちまったみてえだ」
言われて、キリークは改めて子供を見る。
不器用に息を吹きかける姿は微笑ましい。
けれど、その仕草のひとつひとつに、どこか危うさがあった。
まるで、人として当たり前に知っているはずのことを、ひとつずつ覚え直しているような……。
子供は視線に気づくと、顔を上げた。
「何?」
「……何でもない」
誤魔化すように目を逸らしかけ、キリークはふと思い立ち、短く問う。
「名前は?」
「カーサ」
淀みなく返ってきた響きには、己を証明するような熱はない。
ただ与えられた記号を鳴らしただけの、無機質な声だ。
「そう……私はキリーク」
「キリーク」
カーサはその名を一度だけ口の中で転がし、深い空色の瞳でキリークを真っ直ぐに見つめ返した。
「キリーク。遠くばかり見ている人」
事実だけを掬い取るような無遠慮な指摘に、キリークは微かに奥歯を噛み締める。
子供らしくない観察眼だ。
けれどその指摘の仕方には、最初の頃の無機質さとは違う、何か気遣うような温度が滲んでいる気がした。
キリークは、無言のまま自らの椀に視線を落とす。
スープの椀が空になった頃、ガネフが切り出した。
「お前、誰と戦った?」
キリークは手を止める。
「崖の上で槍とやり合っただろう。傷を見れば分かる」
ガネフの声は淡々としている。
「帝国の槍術には独特の刺し方の癖がある。お前の脇腹の傷は、それだ」
「アシュヴィン。私の弟を連れ去った男よ」
ガネフの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
それを見逃さない。
「知っているのね」
「名前は今知った」
ガネフは椅子に腰を下ろした。
「悪いことは言わん。やめろ」
「やめない」
「即答か」
ガネフは溜息をつく。
「俺は帝国軍に十五年いた。あの突撃槍騎兵隊と何度か組んだこともある。あいつらのファルサの練度は尋常じゃない。副隊長級ともなれば、一人で前線を支える化け物だ。お前の直刀のリーチでは、間合いに入る前に串刺しだ」
「それも、分かってる」
「分かっていてなお行くなら、俺の言うことは一つだ」
ガネフはキリークをまっすぐ見た。
「無策で行けば犬死にする。少し頭を使え」
その言い方に、わずかな含みがある。キリークは目を細めた。
「……あなた、何か考えがあるの?」
「吹雪が止むまでは誰も動けん」
ガネフは立ち上がり、背を向けた。
「その間に考えろ、と言っている」
「なぜ? あなたには関わりのない話でしょう」
ガネフは答えない。
火吹き竹を手に取り、かまどの火を直し始める。
会話は終わり、という背中だった。
午後、吹雪は弱まる気配もなく小屋を揺らし続けている。
カーサがキリークの寝台の脇に座り、細い革紐を指で編んでいる。
何を作っているのかは分からない。
ただ規則的に紐を交差させる手つきを、キリークはぼんやり眺めていた。
その手の動きが、マイトレーヤのそれと重なる。
あの子も、よく何かをいじっていた。
器用とは言えない手つきで、舌を少しだけ出して、真剣な顔で。
今頃、どんな場所にいるのか。
寒くないか。怖い思いをしていないか――。
「痛む?」
カーサが手を止めずに言った。
「平気よ」
「嘘」
カーサは断言する。
「眉間に皺が寄っている。痛い時か、誰かのことを考えている時、あなたはそうなる」
キリークは思わずカーサを見た。
たった一日半。
それだけの付き合いで、この子はもう自分の癖を見抜いている。
「……よく見ているのね」
「いつも見てる」
カーサはそう言って、また紐に視線を落とした。
夜。
ガネフが奥に引っ込み、小屋に静寂が満ちる。
吹雪の唸りだけが響く、無音に近い静けさ。
その静けさが、キリークには辛い。
野営していた頃は、いつも近くに規則正しい寝息があった。
少しうるさいくらいの、低い寝息。
それがあったから眠れた。
今は何もない。
静かすぎて、かえって眠れない。
傷の熱がぶり返してくる。
右脇腹が脈打つように疼く。
キリークは毛布を握りしめ、声を殺した。
まどろみの中で、聞き慣れた声が脳裏をかすめる。
――だから言っただろう。無茶をするな、と。
「……うるさい」
キリークは虚空に呟いた。
返事はない。
あるはずもない。
冷たい風の音だけが、その問いを攫っていく。
目を開けると、寝台の脇にヴォルクが伏せている。
そして、その向こうにカーサが立っていた。
カーサはそっとキリークの手に、自分の両手を重ねる。
目を閉じて、ただそうしているだけ。
なのに、痛みが引いていく。
潮が引くように、脇腹の熱が薄れていく。
体の芯の疲労までもが溶けていくようだ。
その時、カーサの首元で何かが青白く光った。
胸元に下げた小袋のようなものが、一瞬だけ仄かに輝いて、すぐに消える。
「カーサ。それ、何……?」
「何も」
カーサは静かに手を離した。
「ただ、ここにいるだけ」
キリークはそれ以上問えなかった。
痛みが消えた事実だけが残り、追及する気力は熱と共に溶けている。
「ねえ」
カーサが言った。
「なぜ、そんなに傷ついてまで、行こうとするの?」
いつもの問い。
責めるでも止めるでもない、ただ現象を確かめるような声。
「取り戻したい子がいるから」
キリークは天井を見たまま答える。
「弟なの。たった一人の」
「その子のためなら、痛くてもいいの?」
「いいの」
カーサは長い間、黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……人間は、自分より大切なものを、持てるのね」
それは問いではない。
初めて見る現象を手のひらに乗せて、そっと確かめるような呟きだった。
キリークはその言葉の意味を、深くは問わなかった。
ただ、なぜか胸の奥に小さく刺さる。
いつの間にか、カーサは寝台の端に潜り込んでいる。
キリークの服の裾を小さな手でぎゅっと掴んで、目を閉じている。
眠っているのかどうかは分からない。
呼吸があまりに静かで、時折、本当に息をしているのか確かめたくなるほどだ。
それでも掴む手には確かな体温がある。
寝台の脇では、ヴォルクが鼻先を前足に乗せて伏せている。
静かすぎる夜だ。
けれど今夜は、独りではない。
キリークは小さな手の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
痛みはもうほとんどない。
夢の中に、あの低い声は出てこなかった。
それが、少しだけ寂しかった。




