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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
7章 小さな願い(山小屋編)
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-金色の戦士- 第26話 残響

『サンシャーラ神話物語』

-金色こんじきの戦士- 残響



意識が戻ったのは、鼻を突く獣脂の匂いと、耳元でけたたましく響く荒い鼻息のせいだった。


重い瞼を押し上げる。

天井が見える。

煤けてひび割れた太い丸太の梁。

自分が野営地や、帝国の牢獄にいるのではないことだけは理解できた。


キリークはそれだけ確認して、次に自分の体の状態を把握しようとした。


右脇腹――疼く。

いや、疼くという生易しいものではない。

呼吸をするたびに折れた骨が内臓を突き刺すような、焼けた鉄を押し当てられているような激痛が走る。


左肩――動かすと灼けるように痛む。

アシュヴィンの部下から受けた短刺の傷だ。

粗末な布が固く巻かれているのが布越しにわかる。


足は、動く。

手の指も、かすかにだが感覚はある。

ならいい。

死んではいない。

キリークは状況を打破すべく、体を起こそうとした。

その途端、全身の筋肉と骨が悲鳴を上げ、視界が真っ白に飛ぶ。

喉の奥から声にならない呻きが漏れる。


「動くな」

部屋の奥から、低い声が飛んできた。

それと同時に、ベッドの脇にぬうっと巨大な毛玉のような影が立ち上がった。

犬だ。

狼と見紛うほどの大柄な獣が、顔を近づけてキリークの首筋の匂いを嗅いでいる。

その鼻息が耳元で鳴っていたのだ。


「退け、ヴォルク。そいつはまだ死んでない。餌じゃないぞ」

声の主へ視線を向けると、部屋の隅の簡素なかまどの前に、背の高い男が立っていた。

四十ぐらいだろうか。

短く刈り込んだ白髪交じりの髪に、日焼けで浅黒く、深い皺の刻まれた頬。

着古した厚手の獣皮の服には無数の引っ掻き傷がある。


男は何かをかき混ぜている鍋の前に立ち、そこから湯気とともに脂の溶けた匂いが漂ってくる。


「……ここは」

声はひどく掠れている。

喉が砂漠のように渇き、血の味がする。

「谷底の山小屋だ。俺の家。文句あるか」

男は振り返りもしなかった。

名をヴォルクと呼ばれた犬は、つまらなそうに一度鼻を鳴らすと、ベッドの下にドサリと丸くなった。


「お前が崖から落ちて、雪だまりに突っ込んでいるのを、そこの犬が見つけた。血の匂いを追ってな。運んでやったのは俺だ。感謝したけりゃ黙って寝ていろ。起き上がれる体じゃない。その肩の傷も、俺が手持ちの薬草で塞いだだけだ。動けばまた血が噴くぞ」


キリークは震える息を吐き出し、唇を強く噛んだ。

そうだ。

崖から落ちたのだ。

アーシャを逃がすため、一人で残った。

アシュヴィンたちとの死闘。

左肩に短刺を受けながらも、地のプーラを纏う男を崖下へ道連れにした。

もつれ合うように奈落へ落ちて……そこから先の記憶がない。

あの、底知れない絶望を湛えたような黒の瞳が、一瞬だけ脳裏をよぎる。

どのくらい眠っていたのか。

アシュヴィンはどこへ向かったのか。

ガルは……。


「……どのくらい経った?」

「三日だ」

三日。

キリークは毛布を強く握りしめた。

傷口が引き攣れ、血が滲むのを感じるほど、無意識に。

その三日でアシュヴィンはどこに行ったのか。

マイトレーヤはどんな場所に連れ込まれた。弟の怯える顔が浮かび、奥歯がギリッと鳴る。


「……無駄だぞ」

男が今度は振り返った。

灰色の、感情を一切映さない目がキリークを見下ろしている。

「その顔をしている奴は大抵、体が治る前に動いて死ぬ。お前みたいな訳ありの傭兵くずれが、どういう執念で生きてるかは知らん。だが、無理をして動けば死ぬ。俺はそういう馬鹿を何人も見てきた」

「あなたには関係ない話よ」

キリークは睨み返すように言ったが、声に覇気はない。

「そうだな」

男はあっさりとそう言って、木皿を手に取って鍋に向き直った。

「お前が無理をして死ぬのは勝手だ。だが俺の家で死ぬな。春まで土は凍りついてる。穴を掘って後始末をするのが面倒だ」

素っ気ない言葉だったが、手は止まらずにスープをかき混ぜ続けている。


その時、気配がした。

ベッドの右側。

子供が、部屋の隅の丸太椅子に座ってキリークを見ていた。

いつからそこにいたのか、全く気づかない。

10歳ほどだろうか。

赤みを帯びた銀色の髪が肩に乱れかかり、大きな瞳は夜明け前の空のような深い色をしている。

薄手の古い服を纏っているだけで、寒さを凌ぐようなものは何も羽織っていない。

足元すら裸足だ。

なのにその体から、寒さに震える気配が少しも感じられない。


子供は瞬きもほとんどせずに、ただじっと、キリークを見つめている。

「……あなたも、この人の家の人?」

「いや、俺も詳しくは知らん」

キリークが問うと、子供の代わりに、男がぶっきらぼうに返した。

「気づいたらいた。追い払おうとしたが出ていかないし、害もないから好きにさせている。ヴォルクもこいつには吠えねえ」

まるで野良猫の話をするような言い方だった。

子供は男の言葉にも、キリークの鋭い視線にも動じない。

ただ静かに、その大きな目でキリークを見続けている。


キリークは、もう一度身を起こそうとした。

寝ている場合ではない。

マイトレーヤを追わなければ。

あのアシュヴィンを止めなければ。


右脇腹に激痛が走り、思わず呻く。

それでも歯を食いしばり、毛布を退けようとした時のことだ。


「なぜ、立とうとするの?」

子供が口を開いた。

声は低く、静かで、子供のものとは思えないほど感情の起伏がない。

問いかけというより、目の前の現象を確認するような口調だった。

「命が、零れかけているのに」


キリークは手を止めた。

それは無謀を責める言葉でも、優しく引き止める言葉でもなかった。

ただ純粋な疑問として、空気に溶けるように置かれた言葉だ。

それがかえって、鋭い氷の刃のようにキリークの中に入り込む。


なぜ、か。

わかりきっている。

マイトレーヤを取り戻すために。

アシュヴィンを、あの恐ろしく歪んだ男を斬り伏せるために。

当然のことだ。

そんなことは一秒も考えるまでもない自明のことで――。


なのに、圧倒的な敗北の記憶と、己の無力さ、そして失ったものの大きさが、巨大な鉛の塊となって胸の奥にのしかかっている。


「こいつはいつも、こういう変な喋り方をするんだ」

男が鍋から椀にスープをよそいながら、気だるげに割り込んだ。

「気にするな。俺も最初は面食らったが、慣れる」

子供は男を見て、それからまたキリークを見た。

表情は変わらなかったが、どこか、キリークからの答えの続きを待っているような気配が漂う。


キリークは答えなかった。

正確には、答えようとして、言葉が出てこない。

当然すぎる理由を言葉にしようとすると、その奥に何か別の重たいものが引っかかるような感覚がする。

うまく言語化できないそれを持て余して、キリークはただ唇を引き結んだ。


男がスープの椀を持って近づいてきた。

獣脂と塩、それに干し肉の端切れが浮いているだけの簡素なものだ。

「食え。治癒を早めるには腹に入れるしかない」

「……自分で食べられる」

キリークは左腕を使わず、右腕だけで椀を受け取ろうとした。

だが、指先がひどく震え、力が入らない。

危うく椀を落としそうになったところを、男の無骨な手が力強く支えた。

「強がるな。こぼしたら次はないぞ」

男は強引に木のスプーンでスープをすくい、キリークの口へ押し込んだ。

味などわからない。

だが、胃の腑に落ちる熱だけが、自分がまだ生きていることを痛感させる。

無言で数口飲み込むと、男は顎で窓の方を示した。

「外を見てみろ」

キリークが小さな窓に目をやると、白い壁が見える。

窓の外が全て白に染まっている。

壁のように積み上げられた雪が窓枠を半分埋め、その向こうで激しい吹雪の唸りが聞こえてくる。


「猛吹雪だ。三日前から降り続いている。この時期の谷の吹雪は、一度荒れれば一週間は止まん。この小屋から出たら五歩で死ぬ。奇跡的に助かった命を、吹雪にくれてやるつもりか?」

男の言い方はぶっきらぼうで、同情も憐れみもない。

ただ事実だけを並べた、それが逆に妙な説得力を持っている。

自然の猛威の前では、人間の意地も執念も無意味だ。


キリークは仰向けに倒れ込んだ。

天井の染みを見上げる。

三日。

それに加えて、この吹雪が続く間も。

アシュヴィンは遠ざかる。

マイトレーヤは遠ざかる。

ごう、と風の唸りが小屋を揺らした。

その音の中に、不意に別の音が混じった気がする。

くぐもった、低い音。

特定の方向から聞こえるわけでもなく、ただ耳の奥に直接響くような――「やめとけ、馬鹿野郎」と呆れるような。

キリークは無意識に首を巡らせた。

部屋の隅。

かまどの傍。

暗がり。

誰もいない。

当然だ。

あの人はここにいない。


「……何だ?」

男が椀を持ったまま、怪訝そうにこちらを見ている。

床のヴォルクも耳を立てている。

「何でもない」

キリークは目を閉じた。

「何でも、ない」

煙草の匂いがした気がする。

違う。

ただの薪の煙だ。

かまどの火の匂いだ。

もう、あの無骨な相棒はどこにもいない。

自分を庇って、深い谷底へ消えた。

わかっている……わかっているのに……。


夜になっても吹雪は止まなかった。


男はキリークに残りのスープを食わせると、犬に餌を投げ与え、自分も簡単に食事を済ませて奥の部屋に引き上げた。

余計なことを喋る人間ではないらしかった。


一人になった。

山小屋の夜は静かだ。

静か、というより、無音に近い。

かまどの火が爆ぜるかすかな音と、床で丸まるヴォルクの寝息。

そして外を吹き荒れる吹雪の重い風音。

だが他には何もない。


キリークは目を開けたまま天井を見つめている。

眠れない。

体が休眠を求めているのに、脳の奥底が痺れたように覚醒している。

静かすぎて、耳の奥がじんじんする。

無意識に体を丸め、左肩の痛みに耐えるように自分の右腕を強く抱きしめる。


ふいに、毛布の端が動いた。

キリークが目を向けると、あの子供がいた。

いつの間にかベッドの足元に座っていて、その小さな手がそっと毛布の裾を掴んでいる。昼間と同じ表情で、ただそこにいる。


「……眠らないの?」

キリークが問うと、子供は少し考えるような間を置いてから、

「あなたが眠れていないから」

とだけ答えた。

説明になっていない答えだった。

「どうして、ずっと何もない場所を見ているの?」


子供の静かな声が、夜の空気に落ちた。


「そこには、もう誰もいないのに」


キリークは無意識に、喉の奥を固く引き攣らせた。

残酷なまでの事実を突きつけられても怒りは湧かず、ただ、圧倒的な不在の重さだけを無言で毛布の中に握り込んだ。


キリークは奥歯を噛み締める。

否定の言葉は出ない。

図星を突かれた苛立ちすら湧かず、ただ妙な具合に、それ以上反論する気が失せる。


小さな手の重さが毛布越しに伝わってくる。温かかった。

不思議と、その手を振り払う気にはなれなかった。


キリークはそれから目を逸らすように、また天井を見上げた。

滲みそうになる視界を、一度の瞬きで強引に誤魔化す。


吹雪の音を聞いている。

静かすぎる夜の中で、毛布の端だけが、かすかに温かかった。

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