-金色の戦士- 第26話 残響
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 残響
意識が戻ったのは、鼻を突く獣脂の匂いと、耳元でけたたましく響く荒い鼻息のせいだった。
重い瞼を押し上げる。
天井が見える。
煤けてひび割れた太い丸太の梁。
自分が野営地や、帝国の牢獄にいるのではないことだけは理解できた。
キリークはそれだけ確認して、次に自分の体の状態を把握しようとした。
右脇腹――疼く。
いや、疼くという生易しいものではない。
呼吸をするたびに折れた骨が内臓を突き刺すような、焼けた鉄を押し当てられているような激痛が走る。
左肩――動かすと灼けるように痛む。
アシュヴィンの部下から受けた短刺の傷だ。
粗末な布が固く巻かれているのが布越しにわかる。
足は、動く。
手の指も、かすかにだが感覚はある。
ならいい。
死んではいない。
キリークは状況を打破すべく、体を起こそうとした。
その途端、全身の筋肉と骨が悲鳴を上げ、視界が真っ白に飛ぶ。
喉の奥から声にならない呻きが漏れる。
「動くな」
部屋の奥から、低い声が飛んできた。
それと同時に、ベッドの脇にぬうっと巨大な毛玉のような影が立ち上がった。
犬だ。
狼と見紛うほどの大柄な獣が、顔を近づけてキリークの首筋の匂いを嗅いでいる。
その鼻息が耳元で鳴っていたのだ。
「退け、ヴォルク。そいつはまだ死んでない。餌じゃないぞ」
声の主へ視線を向けると、部屋の隅の簡素なかまどの前に、背の高い男が立っていた。
四十ぐらいだろうか。
短く刈り込んだ白髪交じりの髪に、日焼けで浅黒く、深い皺の刻まれた頬。
着古した厚手の獣皮の服には無数の引っ掻き傷がある。
男は何かをかき混ぜている鍋の前に立ち、そこから湯気とともに脂の溶けた匂いが漂ってくる。
「……ここは」
声はひどく掠れている。
喉が砂漠のように渇き、血の味がする。
「谷底の山小屋だ。俺の家。文句あるか」
男は振り返りもしなかった。
名をヴォルクと呼ばれた犬は、つまらなそうに一度鼻を鳴らすと、ベッドの下にドサリと丸くなった。
「お前が崖から落ちて、雪だまりに突っ込んでいるのを、そこの犬が見つけた。血の匂いを追ってな。運んでやったのは俺だ。感謝したけりゃ黙って寝ていろ。起き上がれる体じゃない。その肩の傷も、俺が手持ちの薬草で塞いだだけだ。動けばまた血が噴くぞ」
キリークは震える息を吐き出し、唇を強く噛んだ。
そうだ。
崖から落ちたのだ。
アーシャを逃がすため、一人で残った。
アシュヴィンたちとの死闘。
左肩に短刺を受けながらも、地のプーラを纏う男を崖下へ道連れにした。
もつれ合うように奈落へ落ちて……そこから先の記憶がない。
あの、底知れない絶望を湛えたような黒の瞳が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
どのくらい眠っていたのか。
アシュヴィンはどこへ向かったのか。
ガルは……。
「……どのくらい経った?」
「三日だ」
三日。
キリークは毛布を強く握りしめた。
傷口が引き攣れ、血が滲むのを感じるほど、無意識に。
その三日でアシュヴィンはどこに行ったのか。
マイトレーヤはどんな場所に連れ込まれた。弟の怯える顔が浮かび、奥歯がギリッと鳴る。
「……無駄だぞ」
男が今度は振り返った。
灰色の、感情を一切映さない目がキリークを見下ろしている。
「その顔をしている奴は大抵、体が治る前に動いて死ぬ。お前みたいな訳ありの傭兵くずれが、どういう執念で生きてるかは知らん。だが、無理をして動けば死ぬ。俺はそういう馬鹿を何人も見てきた」
「あなたには関係ない話よ」
キリークは睨み返すように言ったが、声に覇気はない。
「そうだな」
男はあっさりとそう言って、木皿を手に取って鍋に向き直った。
「お前が無理をして死ぬのは勝手だ。だが俺の家で死ぬな。春まで土は凍りついてる。穴を掘って後始末をするのが面倒だ」
素っ気ない言葉だったが、手は止まらずにスープをかき混ぜ続けている。
その時、気配がした。
ベッドの右側。
子供が、部屋の隅の丸太椅子に座ってキリークを見ていた。
いつからそこにいたのか、全く気づかない。
10歳ほどだろうか。
赤みを帯びた銀色の髪が肩に乱れかかり、大きな瞳は夜明け前の空のような深い色をしている。
薄手の古い服を纏っているだけで、寒さを凌ぐようなものは何も羽織っていない。
足元すら裸足だ。
なのにその体から、寒さに震える気配が少しも感じられない。
子供は瞬きもほとんどせずに、ただじっと、キリークを見つめている。
「……あなたも、この人の家の人?」
「いや、俺も詳しくは知らん」
キリークが問うと、子供の代わりに、男がぶっきらぼうに返した。
「気づいたらいた。追い払おうとしたが出ていかないし、害もないから好きにさせている。ヴォルクもこいつには吠えねえ」
まるで野良猫の話をするような言い方だった。
子供は男の言葉にも、キリークの鋭い視線にも動じない。
ただ静かに、その大きな目でキリークを見続けている。
キリークは、もう一度身を起こそうとした。
寝ている場合ではない。
マイトレーヤを追わなければ。
あのアシュヴィンを止めなければ。
右脇腹に激痛が走り、思わず呻く。
それでも歯を食いしばり、毛布を退けようとした時のことだ。
「なぜ、立とうとするの?」
子供が口を開いた。
声は低く、静かで、子供のものとは思えないほど感情の起伏がない。
問いかけというより、目の前の現象を確認するような口調だった。
「命が、零れかけているのに」
キリークは手を止めた。
それは無謀を責める言葉でも、優しく引き止める言葉でもなかった。
ただ純粋な疑問として、空気に溶けるように置かれた言葉だ。
それがかえって、鋭い氷の刃のようにキリークの中に入り込む。
なぜ、か。
わかりきっている。
マイトレーヤを取り戻すために。
アシュヴィンを、あの恐ろしく歪んだ男を斬り伏せるために。
当然のことだ。
そんなことは一秒も考えるまでもない自明のことで――。
なのに、圧倒的な敗北の記憶と、己の無力さ、そして失ったものの大きさが、巨大な鉛の塊となって胸の奥にのしかかっている。
「こいつはいつも、こういう変な喋り方をするんだ」
男が鍋から椀にスープをよそいながら、気だるげに割り込んだ。
「気にするな。俺も最初は面食らったが、慣れる」
子供は男を見て、それからまたキリークを見た。
表情は変わらなかったが、どこか、キリークからの答えの続きを待っているような気配が漂う。
キリークは答えなかった。
正確には、答えようとして、言葉が出てこない。
当然すぎる理由を言葉にしようとすると、その奥に何か別の重たいものが引っかかるような感覚がする。
うまく言語化できないそれを持て余して、キリークはただ唇を引き結んだ。
男がスープの椀を持って近づいてきた。
獣脂と塩、それに干し肉の端切れが浮いているだけの簡素なものだ。
「食え。治癒を早めるには腹に入れるしかない」
「……自分で食べられる」
キリークは左腕を使わず、右腕だけで椀を受け取ろうとした。
だが、指先がひどく震え、力が入らない。
危うく椀を落としそうになったところを、男の無骨な手が力強く支えた。
「強がるな。こぼしたら次はないぞ」
男は強引に木のスプーンでスープをすくい、キリークの口へ押し込んだ。
味などわからない。
だが、胃の腑に落ちる熱だけが、自分がまだ生きていることを痛感させる。
無言で数口飲み込むと、男は顎で窓の方を示した。
「外を見てみろ」
キリークが小さな窓に目をやると、白い壁が見える。
窓の外が全て白に染まっている。
壁のように積み上げられた雪が窓枠を半分埋め、その向こうで激しい吹雪の唸りが聞こえてくる。
「猛吹雪だ。三日前から降り続いている。この時期の谷の吹雪は、一度荒れれば一週間は止まん。この小屋から出たら五歩で死ぬ。奇跡的に助かった命を、吹雪にくれてやるつもりか?」
男の言い方はぶっきらぼうで、同情も憐れみもない。
ただ事実だけを並べた、それが逆に妙な説得力を持っている。
自然の猛威の前では、人間の意地も執念も無意味だ。
キリークは仰向けに倒れ込んだ。
天井の染みを見上げる。
三日。
それに加えて、この吹雪が続く間も。
アシュヴィンは遠ざかる。
マイトレーヤは遠ざかる。
ごう、と風の唸りが小屋を揺らした。
その音の中に、不意に別の音が混じった気がする。
くぐもった、低い音。
特定の方向から聞こえるわけでもなく、ただ耳の奥に直接響くような――「やめとけ、馬鹿野郎」と呆れるような。
キリークは無意識に首を巡らせた。
部屋の隅。
かまどの傍。
暗がり。
誰もいない。
当然だ。
あの人はここにいない。
「……何だ?」
男が椀を持ったまま、怪訝そうにこちらを見ている。
床のヴォルクも耳を立てている。
「何でもない」
キリークは目を閉じた。
「何でも、ない」
煙草の匂いがした気がする。
違う。
ただの薪の煙だ。
かまどの火の匂いだ。
もう、あの無骨な相棒はどこにもいない。
自分を庇って、深い谷底へ消えた。
わかっている……わかっているのに……。
夜になっても吹雪は止まなかった。
男はキリークに残りのスープを食わせると、犬に餌を投げ与え、自分も簡単に食事を済ませて奥の部屋に引き上げた。
余計なことを喋る人間ではないらしかった。
一人になった。
山小屋の夜は静かだ。
静か、というより、無音に近い。
かまどの火が爆ぜるかすかな音と、床で丸まるヴォルクの寝息。
そして外を吹き荒れる吹雪の重い風音。
だが他には何もない。
キリークは目を開けたまま天井を見つめている。
眠れない。
体が休眠を求めているのに、脳の奥底が痺れたように覚醒している。
静かすぎて、耳の奥がじんじんする。
無意識に体を丸め、左肩の痛みに耐えるように自分の右腕を強く抱きしめる。
ふいに、毛布の端が動いた。
キリークが目を向けると、あの子供がいた。
いつの間にかベッドの足元に座っていて、その小さな手がそっと毛布の裾を掴んでいる。昼間と同じ表情で、ただそこにいる。
「……眠らないの?」
キリークが問うと、子供は少し考えるような間を置いてから、
「あなたが眠れていないから」
とだけ答えた。
説明になっていない答えだった。
「どうして、ずっと何もない場所を見ているの?」
子供の静かな声が、夜の空気に落ちた。
「そこには、もう誰もいないのに」
キリークは無意識に、喉の奥を固く引き攣らせた。
残酷なまでの事実を突きつけられても怒りは湧かず、ただ、圧倒的な不在の重さだけを無言で毛布の中に握り込んだ。
キリークは奥歯を噛み締める。
否定の言葉は出ない。
図星を突かれた苛立ちすら湧かず、ただ妙な具合に、それ以上反論する気が失せる。
小さな手の重さが毛布越しに伝わってくる。温かかった。
不思議と、その手を振り払う気にはなれなかった。
キリークはそれから目を逸らすように、また天井を見上げた。
滲みそうになる視界を、一度の瞬きで強引に誤魔化す。
吹雪の音を聞いている。
静かすぎる夜の中で、毛布の端だけが、かすかに温かかった。




