-金色の戦士- 第6章幕間 悲報
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 悲報
港町ヴェネスの朝は早い。
『ファンネリア商会』の1階フロアは、今日も夜明けと共に怒号のような活気に包まれていた。
「東の便が着くぞ! 荷受けの準備を急げ!」
「南街の倉庫が足りない! セビ番頭、どうしますか!?」
「慌てるな、第三倉庫の奥を空けろと指示したはずだ!」
ファンネリアは、山積みになった伝票から目を離すことなく、的確に指示を飛ばしていた。
順調に拡大を続ける商会の女主人の顔には、充実した自信が満ちている。
——その時だった。
商会の重いオーク材の扉が、蝶番が悲鳴を上げるほどの勢いで乱暴に開かれた。
「なんだ!?」
「おい、誰だお前は!」
荷運びの男たちが驚いて手を止め、護衛の傭兵たちが即座に剣の柄に手をかける。
騒ぎに顔を上げたファンネリアの若草色の瞳が、侵入者の姿を捉え、大きく見開かれた。
「……待って! 剣を下ろしなさい!」
ファンネリアは椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。
そこに立っていたのは、アーシャだった。
いや、アーシャと呼ぶのも躊躇われるほどの、凄惨な姿だった。
防寒用の分厚い外套は無残に引き裂かれ、露出した顔や手には赤黒い雪焼けと凍傷の痕が痛々しく刻まれている。
大切に抱えていたはずの荷物は半分しかなく、息をするたびに喉の奥で血の匂いが鳴った。
「ファンネ……リア……」
アーシャは一歩踏み出そうとして、そのまま応接室の前の床へ糸が切れたように崩れ落ちた。
「アーシャさん!!」
ファンネリアが駆け寄る。
「毛布を! 早く! それから温かいお湯と薬箱を持ってきなさい!」
声は命令の形をしていた。
そうしなければ、別のものが出てきそうだった。
女主人の悲痛な叫びに、硬直していた店員たちが弾かれたように動き出す。
応接室の長椅子に運ばれたアーシャは、しばらくの間、肩で激しく息をしていた。
「水を……」
「ゆっくり飲んでください」
ファンネリアが自ら差し出したカップの白湯を、アーシャは震える両手で受け取り、むせるのも構わずに一気に飲み干した。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
血走った赤い瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……すまない。すまない……」
ただ事ではない。
ファンネリアの背筋に、氷のような悪寒が走った。
「……何があったのか、話してください」
ファンネリアは震えそうになる自分の両手を膝の上で固く握りしめ、静かに言った。
アーシャは、途切れ途切れに話し始めた。
アルフェン山脈の過酷な道のり。
開かれた祭壇の扉。
突然の、アシュヴィンの襲撃。
「……崩落が起きて……ガルが……谷底へ落ちた……」
「……ッ!」
控えていたセビ番頭が息を呑み、ファンネリアの顔からすっと血の気が引いた。
「そしてキリークが……あの化け物たちからわしを逃がすために、一人で、残って……!」
「……キリークは、どうなったの?」
「……分からない」
アーシャの声が、堰を切ったように激しく震えた。
「わしは……言われた通りに、山を駆け下りた……その後のことは、見ていない。でも、あんな奴らを相手に、一人で……!」
ファンネリアは言葉を失った。
応接室は水を打ったように静まり返り、窓の外で、港の陽気な風がひゅうと鳴る音だけが残酷に響いている。
「……伝言がある」
アーシャが、血の滲む唇を噛み締めながら続けた。
「キリークが、ファンネリアへ伝えてくれと言った」
「……なんて?」
アーシャは少しの間、痛ましそうに目を閉じた。
「『今回は、お土産はないかも』と……」
重く、冷たい沈黙が落ちた。
いつも飄々としていた彼女の、不器用で、どうしようもなく優しい最期の覚悟。
ファンネリアは深く俯いた。
華奢な肩が、わずかに、しかし確かに揺れる。
お土産を楽しみにしていた。
毎回、本当に楽しみにしていた。
それを、あの子は最後まで覚えていた。
膝の上で握りしめた拳の爪が、手のひらに食い込んで血を滲ませている。
しかし……数秒の後。
ファンネリアは顔を上げた。
唇を一度だけ強く噛み、若草色の瞳を真っ直ぐに前を向ける。
「……泣いている暇はないわ」
声は、全く震えていなかった。
そこにあるのは、悲しみに暮れる少女の顔ではなく、大商会を率いる絶対的な主の顔だった。
「セビ! 店の資金をいくらでも使いなさい。今すぐ山岳救助の手配を。冒険者ギルドから最高の装備と人材をありったけ集めるのよ!」
「し、しかしファンネリア様、アルフェン山脈の奥地となれば……」
「金に糸目はつけないと言っているの! あの子が命懸けで作ってくれた時間よ、一秒だって無駄にはさせない。動いて!!」
「……は、はいッ!」
セビをはじめ、店員たちが一斉に部屋を飛び出していく。
アーシャは呆然と、立ち上がったファンネリアを見上げていた。
慌ただしく戦場のように変わった商会の中で。
部屋の隅から、ラーナが静かにファンネリアの前へ歩み寄った。
「……ファンネリア」
「なんですか、ラーナ。今はあなたにかまっている暇は……」
「聞け」
その声の尋常ではない重さに、ファンネリアは書類へ伸ばしかけた手を止めた。
ラーナの目が、いつもと違っていた。
人を食ったような余裕は消え、そこには遥か高みから命を見下ろすような慈愛と、深い憂いが混ざっていた。
「よくやった、人間の娘。この半年、よくあの子たちを支えてくれた」
「……何を、言ってるの?」
「ここから先は、神の領域の事象だ。お前たち人間の手には余る」
ファンネリアの目が、険しく細くなった。
「どういうこと? あなた、まさか……」
「行かなければならない。世界の天秤が、傾きかけている」
「待って……どこへ行くつもり!?」
ラーナはすでに、身を翻して扉へ向かっていた。
「あの子のそばへ」
「待って! 私も連れて行って! お金なら、物資ならいくらでも……」
「できない」
ラーナは開いたままだった扉の前で立ち止まった。
振り返らなかった。
「お前には、お前にしかできないことがある。人間として、ここで繋ぎ止めろ」
バタン、と重い扉が閉じた。
「ラーナ!!」
ファンネリアが扉を開けて廊下の向こうに飛び出した時には、もうラーナの姿はどこにもなかった。
店を飛び出し、大通りへ出る。
風が吹いていた。
港の朝の活気ある風が、空っぽになった心の中を虚しく吹き抜けていった。
どこにも、あの不思議な女の人影はなかった。
ファンネリアはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「私にしか、できないこと……」
繋ぎ止めろ、とラーナは言った。
何を、とは言わなかった。
でも分かった気がした。
あの子たちが帰ってくる場所を、守ることだ。
風だけが、冷たく答えた。
彼女は強く拳を握り直し、己の戦場である商会へと踵を返した。
——時を同じくして。
アルフェン山脈の深い谷底は、死のような静寂に包まれていた。
吹き荒れていた吹雪が嘘のように収まり、分厚い灰色の雲の切れ間から、微かな光が差し込んでいる。
真っ白な雪の上に、キリークが横たわっていた。
意識はなかった。
全身の傷から流れた血が、周囲の雪を黒く染めている。
それでも、彼女の右手は直刀の柄を固く握りしめ、決して離していなかった。
冷たい雪が、彼女の体を隠すように静かに、静かに降り積もっていく。
どれくらい時間が経ったのか、誰にも分からなかった。
ふと、気配がした。
足音は全くなかった。
新雪を踏む音すらさせず、ただ、そこに幻のように影が現れた。
小さなシルエットだった。
薄着だった。
極寒の吹雪や雪山の環境など、はじめから存在しないかのように意に介さない、軽すぎる格好をしている。
赤銀色の髪が、風に揺れた。
黄金色の瞳が、雪の上に倒れ伏すキリークを静かに見下ろした。
子供だった。
完全に表情が欠落していた。
喜怒哀楽の感情があるのかないのか、それすら分からない。
ただ、ガラス玉のような瞳で、じっとキリークの血に塗れた顔を見ていた。
しばらく、彫像のように動かなかった。
やがて子供は、ゆっくりと雪の上へしゃがみ込んだ。
キリークの顔を、間近で覗き込む。
それから——かすかに、首を傾けた。
人間が珍しい玩具を見つけた時のように、興味深そうに。
あるいは、そこに『自分の探していた何か』があることを、確かめるように。
空から、再び大きな雪の結晶が舞い落ちてきた。
しかしキリークの体を覆う前に、子供がそれを遮るように影を落とした。
意図があったのかどうか、誰にも分からなかった。
子供の赤銀色の髪に触れた雪は、溶けることなく滑り落ちていく。
谷底に、深くて冷たい絶対の静寂が戻った。




