-金色の戦士- 第25話 捨身
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 捨身
アシュヴィンが歩み寄ってくる。
その手には、先ほどまでキリークの命を狙っていた鋭い槍が、無造作に下ろされていた。
女と男が、逃げ道を塞ぐように両脇に立っている。
完全に、囲まれていた。
キリークは片膝をついたまま、雪に突き立てた直刀の柄を限界まで強く握りしめた。
体が鉛のように重い。
荒い息が白く凍りつき、肺を焼くように痛めつけている。
女の短刺が掠めた肩から流れる血が、白い雪を黒く染めていく。
しかし、どれほど肉体が限界を迎えてても、頭は恐ろしいほどに冷え切って動いていた。
(女の動き……今まで正面から来ることは、ほとんどなかった……)
視界の端で、薄く笑う女を捉える。
(でも、六撃目は正面から来た……思い出せ、その時男はどこにいた?)
キリークはさっきの男と女の連携を、記憶の底から必死に手繰り寄せ……一つの明確な答えを見つけた。
機動力のある女が正面から派手に動き、こちらの意識を強制的に前へ向けさせる。
(男は、左から、きた)
そして、その死角となる左側から、重量のある男が致命的な一撃を叩き込むのだ。
(女が正面から来る時……男は必ず、別の方向にいる)
キリークは荒い息をゆっくりと殺し、雪に突き立てた直刀の柄を静かに、だが確かな力を込めて握り直した。
アシュヴィンが、キリークの数歩手前で立ち止まった。
「剣を置け」
甘く、そして絶対的な命令だった。
「……嫌」
「なぜそこまで意地を張る」
アシュヴィンは、理解できないものを見るように僅かに眉をひそめた。
「もう誰もいない。君が守るものは、もう何一つ残ってないじゃないか」
キリークは、血と雪に塗れた顔を上げる。
その瞳の光は、少しも死んでいなかった。
「マイトレーヤがいる。何度聞いても答えは同じよ」
アシュヴィンはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……そうか」
どこか残念そうな声だった。
「君はいつもそうだ」
「?」
「自分より、誰かを選ぶ」
アシュヴィンは静かに首を振った。
「だから傷だらけになる」
視線だけで女へ合図を送る。
「動けなくなるまでやれ」
女が動いた。
「本当に、聞き分けのない子ね」
風のプーラが雪を巻き上げる。
今度も、真っ直ぐ正面から来た。
(……来た)
キリークは動かなかった。
一歩、二歩、女が滑るように近づいてくる。
同時に、キリークの左側の死角から、岩のような男の気配が重く動いたのが分かった。
女の短刺が、キリークの急所を避けて左肩へと鋭く伸びてくる。
(今だ!)
キリークは、避けなかった。
「なに!?」
自ら前へ踏み込み、女の短刺を左肩で真正面から受け止めた。
刃が革鎧を貫き、肉に深く食い込む。
骨を削るような激痛が全身を駆け抜ける。
しかし、構わなかった。
痛みより先に、手が動いていた。
もうそういう体になっていた。
女の動きが完全に止まった。
刃が肉と骨に深く食い込み、すぐには引き抜けない。
風の推進力そのものが、キリークの肉体という檻に囚われたのだ。
至近距離で、女の細い目が驚愕に見開かれた。
「狂って……ッ!?」
その一瞬——左から迫っていた男の注意が、完全に女へ向いた。
「おいッ!」
仲間の異変に気を取られ、男の地のプーラの集中がわずかに、ほんのわずかに乱れる。
絶対の硬化に、致命的な隙が生まれた。
「止まったわね……!」
キリークは痛みを奥歯で噛み砕き、右手に残った全精力を込めて、直刀を振り抜いた。
鋭い刃が、無防備な女の胴を正確に薙ぐ。
血飛沫が雪山に舞った。
女が声も出さずに雪の上に倒れ伏した。
動かなかった。
重い沈黙が落ちた。
女の短刺が深く刺さったままの左肩が、焼け火箸を突っ込まれたように痛かった。
しかし、右腕は動く。
直刀を握れる。
男の目が、変わった。
それまで機械のように無感情だった男の目に、明確な怒りと憎悪が宿った。
「あ、ああ……ッ!!」
低い声が出た。
それは言葉ではなく、獣の咆哮だった。
男が動いた。
地のプーラを全開にして、キリークへ向かって真っ直ぐに突進してきた。
怒りに我を忘れたその動きは、先ほどまでの冷静な連携とは程遠い。
まるで巨大な岩が転がり落ちてくるような、ただの力任せの質量兵器だった。
足元の雪が、男の凄まじい突進の踏み込みで爆発するように吹き飛ぶ。
「死ねェェェッ!!」
キリークは、男の拳が届く寸前で横へ跳んだ。
「遅い……!」
すれ違いざまに落とされた、氷のような呟き。
自ら纏ったその岩の鎧の重さと、一直線のベクトルが完全に裏目に出ていた。
男は止まれなかった。
凄まじい推進力と、地のプーラによる異常な重量。
それが仇となった。
断崖の縁へ向かって、突進の勢いがそのまま突き抜ける。
足元の雪が崩れる音。
「なっ……!?」
男が己の致命的なミスに気づき、ブレーキをかけようとしたその瞬間。
キリークはすでに、男の背後に回り込んでいた。
もう直刀を振るう必要はない。
残った力を全部、両足に集めた。
崖下へ向かって前のめりになっている男の背中へ、キリークは渾身の体当たりをくらわせた。
「貴様ァァァッ!!」
男が縁の向こうへ傾く。
キリークは最後まで男の身体を押し続けた。
そして——二人の姿が、断崖の闇へ吸い込まれていく。
夜明け前の風だけが、雪を巻き上げていた。
猛吹雪の吹き荒れる奈落の谷底へ、白い空があっという間に遠ざかっていく。
断崖の縁には、アシュヴィンだけが立っていた。
崩れ落ちた雪煙が舞い上がり、冷たい風に流されてゆっくりと散っていく。
キリークの姿は、もうどこにも見えない。
アシュヴィンは動かなかった。
しばらくの間、ただ無表情で猛吹雪の谷底を見下ろしていた。
彼の手の中には、小さな革袋がある。
槍で貫いたガルの腰から引きちぎったものだ。
そこには土と水の守護石が二つ入っている。
しかし、残りの二つ——火と風の石は、キリークが持っていた。
奪えなかった。
奪う前に、彼女は自ら奈落へ落ちていった。
すべてを自分の支配下に置くという、完璧な計画は完全に崩れ去ったのだ。
それでも、アシュヴィンは怒らなかった。
目的の石を失った絶望も、微塵も感じていなかった。
ふと、頬に何かが触れた。
雪の冷たさではなかった。
アシュヴィンは、ゆっくりと自分の頬に手を当てた。
頬が、異常なほど熱かった。
理由は分からなかった。
ただ、胸の奥が狂おしいほどにざわついていた。
心臓の音が、雪山に響くほど大きく高鳴っている。
奪えなかった。
折れなかった。
またしても、手の届かない場所へ逃げられた。
それなのに。
キリークは、谷底へ消えていく最後の最後まで、一度も自分に対して剣を置かなかった。
三人で完全に囲み、肉体を削り、絶望を与え、それでもその心は折れなかった。
自分の手駒の動きを見切り、捨て身の罠にかけ、躊躇なく奈落へ身を投じた。
思い通りにならない。
自分がどれほど力を振るっても、どれほど追い詰めても、あの気高き戦士の魂だけは、どこまでも思い通りにならない。
それが——どうしようもなく、愛おしかった。
「……また、会いに行く」
谷底に向けて呟いたその言葉は、誰への命令でも宣言でもなく、ただ溢れ出た本音だった。
誰にも聞こえない、甘く溺れるような声で言った。
アシュヴィンは静かに踵を返した。
足音一つ立てることなく、猛吹雪が吹き荒れる雪山の闇の中へ、その姿は亡霊のように消えていった。




