-金色の戦士- 第24話 孤軍
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 孤軍
アーシャの足音が、雪を踏んで遠ざかっていった。
不器用で、何度も躓きながら走る必死な足音。
それは今のキリークにとって、自分を現世に繋ぎ止める細い命綱のように聞こえた。
だが、その音もすぐに無慈悲な風雪に掻き消され、完全な静寂だけが残された。
キリークは直刀を構えた。
手が震えている。
(……敵討ちじゃ、ない)
胸の奥で、激しく血を流す感情を必死に押さえ込んだ。
ガルが崩落に消えた光景が、黒い渦のように胸を食い破ろうとしている。
だが、今ここで感情のままアシュヴィンに飛びかかればどうなるか。
一瞬で殺される。
アーシャが逃げる時間が消える。
石が全部奪われる。
マイトレーヤへの道が完全に閉ざされる。
(敵討ちじゃない。アーシャさんを逃がして、石を守る。それだけだ)
深く冷たい空気を肺の底まで吸い込んだ。
震えていた手が、少しずつ止まった。
柄を握る指先に、冷徹な戦士としての覚悟だけが宿る。
最初に動いたのは女だった。
「健気な子ね。でも、無駄よ」
女の冷たい声とともに風のプーラが起動した瞬間、その姿が霞んだ。
速い。
ミラの風を見ていなければ、目で追えなかったかもしれない。
しかし、ミラとは違う。
ミラの風は洗練されていた。
経験と技術が積み重なった、美しいほど無駄のない動きだった。
この女の風は——もっと獰猛で、血生臭かった。
力任せではない。
しかし、相手を確実に削り殺すための容赦がない。
最初の短刺が、左の頬を掠めた。
反応はできた。
直刀で軌道を逸らしたはずだった。
しかし完全には避けられず、浅い線から血が滲む。
「あら、避けるのね」
女の声は、すでにキリークの背後の全く別の位置から聞こえていた。
キリークは直刀を構え直した。
(正面を向いていてはいけない)
背中に意識を広げる。
足元の雪の感触を拾う。
風の向きを読む。
ここは雪山だ。
ただでさえ足場が悪い。
一歩踏み込むたびに雪が沈み、踏み込みの力が逃げていく。
相手の女は風の力で雪面を滑るように動くが、キリークの足には鉛のような重力がのしかかっていた。
二撃目が来た。
女が右の脇腹へ、低い軌道からえぐるように短刺を突き出す。
横へ跳んだ。
刃が革鎧の表面を削り、冷たい空気が肌を叩く。
着地の瞬間、右足が深く雪に沈んだ。
体勢が一瞬、致命的に乱れる。
その瞬間に槍が来た。
アシュヴィンだった。
女が崩した体勢へ、呼吸を合わせるような完璧なタイミングで、槍の鋭い刺突が真っ直ぐに伸びてくる。
前へ倒れ込むように雪上を転がった。
槍の穂先が、頭の数センチ上を風を切って通過した。
雪まみれになりながら転がり、膝をついて起き上がる。
「……よく避けた。驚いたよ」
アシュヴィンが静かに言った。
その声には、一切の殺気がなかった。
「でも、それだけだ。無意味な抵抗はやめろ」
「休ませないわよ」
三撃目。
女が上から、死角となる角度を変えて襲いかかってくる。
直刀で真っ向から受けた。
硬質な金属音が雪山に響いた。
しかし女の体重と風の推進力が乗った衝撃が腕に走り、キリークの体勢が大きく崩れた。
そこへ、再びアシュヴィンの槍が来る。
直刀を滑らせてなんとか受け流すと、アシュヴィンがスッと後ろに下がり、代わりに男が、岩壁のように目の前に立っていた。
地のプーラが発動している。
男の体が、尋常ではない重量感を帯びていた。
キリークは渾身の力で、男の腹へ蹴りを入れる。
だが、痛かったのはキリークの足の方だった。
男は微動だにしていない。
「無駄だ。俺の地は貫けない」
男の低い声とともに、丸太のような腕が伸びてきた。
掴まれる前に、反射的に横へ跳ぶ。
しかし着地の瞬間、またしても足元の雪が崩れた。
片膝をついた。
その背後に、すでに女が回っている。
「遅いわ」
短刺が肩口を深く掠める。
熱い痛みが走り、鮮血が雪を汚した。
立ち上がり、大きく距離を取る。
息が限界まで上がっていた。
肺が冷気で焼け付くように痛い。
(……完璧な連携)
女が機動力を生かして乱す。
こちらを牽制し、削り、すぐに別の死角へ移動する。
そこへアシュヴィンが致命の刺突を放つ。
キリークが反撃しようと踏み込むと、アシュヴィンは後ろに下がり、代わりに地のプーラで硬化した男が絶対の盾として塞ぐ。
この残酷な順番で回っている。
女の機動力を消せれば——しかし、風のプーラを完全に封じる手がない。
アシュヴィンへ直接向かえば——女と男が同時に左右から割り込んでくる。
男の硬化を崩せれば——女とアシュヴィンが別方向から同時に来る。
どこから崩そうとしても、必ず別の巨大な穴が生まれる。
手も足も出ない。
ただ削り殺されるのを待つだけの、緩やかな処刑だった。
それでも剣を置く気にはなれなかった。
「疲れただろう、キリーク」
アシュヴィンが、慈しむような声で言った。
「君を傷つけたくはないんだ。その剣を置けば、すぐに楽になる」
「……置かない」
キリークは荒い息を吐きながら、直刀を握り直す。
「なぜ」
アシュヴィンが一歩近づく。
「もう邪魔をする者はいない。君がここで血を流して死ぬ理由なんて、どこにもないじゃないか」
「マイトレーヤがいる。私は諦めない」
その名を聞いた瞬間、アシュヴィンは少しの間キリークを見た。
「……そうか」
感情が読めなかった。
しかし、その瞳の奥には、黒く煮詰まったようなひどく重い執着が渦巻いているのがわかった。
「君はいつも、自分以外のために血を流す。そんな君だから……」
アシュヴィンは言葉を切り、静かに槍を構え直した。
「手足を折ってでも、連れて帰る」
四撃目。
今度は女が低く来た。
雪の上を滑るように、足を狙って。
跳んで避けた。
空中で無防備になる。
(来る)
アシュヴィンの槍が来ることは分かっていた。
空中で無理やり体を捻る。
槍が脇腹を掠め、革鎧を引き裂いた。
着地した瞬間、激痛で足が雪に沈んで膝をついてしまう。
即座に、男が目の前に来る。
キリークは下から直刀を振り上げたが、男の鎧に乾いた音を立てて簡単に弾かれた。
「諦めろ」
(どこかに、絶対に隙がある)
地のプーラは全身を硬化させる。
しかし、プーラを維持するには強靭な集中が必要なはずだ。
別のことに注意が向けば、一瞬だけ硬化が薄れる場所が生まれるかもしれない。
しかし、それを試している余裕が、今のキリークには一切なかった。
五撃目。
女が右から来た。
「そろそろ終わりにしてあげる」
キリークは直刀で迎え撃った。
女の短刺を弾く。
しかし女はすぐに跳んで距離を取り、また別の角度へ回り込んでいく。
追えない。
追えば、確実にアシュヴィンの槍が喉を貫く。
六撃目。
今度は女と男が同時に動いた。
女が正面から。
男が左から。
正面の女へ直刀を向けた。
その分、男への対処が致命的に遅れた。
男の拳が、盾のように重く割り込んでくる。
直刀が大きく弾かれ、体勢が完全に崩れた。
そこへ、アシュヴィンの槍が来た。
無理やり横へ跳んだ。
ぎりぎりで躱した。
しかし着地の衝撃に耐えきれず、足が滑った。
片膝をついた。
雪が、ひどく冷たかった。
直刀を地面に突き立てて、かろうじて倒れるのだけを堪えた。
息が乱れている。
肩が痛い。
足が重い。
全身から血が流れ、視界がチカチカと点滅している。
三人が、キリークを完全に囲むように立っていた。
アシュヴィンが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
立てない。
それは分かった。
しかし、倒れない。
それだけが、今のキリークに残った全てだった。
「終わりだ、キリーク」
彼はもう、槍を下ろしていた。
雪山に響く、ひどく静かで、甘やかな声だった。
キリークは直刀の柄を強く握りしめた。
片膝をついたまま、顔を上げる。
その視線は、決してアシュヴィンから離さなかった。
夜明けの雪空に、冷たい明けの明星が、ただ一つだけ輝いていた。




