-金色の戦士- 第23話 喪失
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 喪失
アルフェン山脈は、遠くから見ると美しかった。
万年雪をまとった峰々が、青い空に白く連なっている。
蒼天連峰という名前の通り、空と山の境界が溶け合うような景色だった。
近づくにつれ、その印象が変わった。
風が強い。
気温が低い。
足場が悪い。
白銀峰とは違う種類の過酷さがあった。
あちらは熱だった。
こちらは、すべてを削ぎ落とすような寒さだった。
「……本当に、帝都の近くにこんな山があるのね」
「だから誰も近づかない」
ガルが前を歩きながら言った。
「帝国にとっては天然の要塞だ。遺跡が残っているとしたら、それが理由だろう」
「人が来ないから、手が入らなかったの?」
「ああ」
アーシャが荷物を背負いながら後に続いた。
息が上がっていたが、珍しく文句は言わなかった。
「……アーシャさん、大丈夫?」
「大丈夫だ。これくらいは慣れている」
「嘘をついてる顔ね」
「慣れていると言ったら慣れているんだ」
キリークはアーシャの荷物を半分引き受けた。
アーシャは一度だけ反発して、それから黙って渡した。
二日かけて、山頂付近に辿り着いた。
アーシャが天球儀の計算と照合しながら、岩場を一つ一つ確認していく。
「……ここだ」
岩壁の陰に、石造りの構造物があった。
雪と氷に半分埋もれているが、表面の刻印は残っていた。
「遺跡の入り口か」
「そうだ。ただし」
アーシャは天球儀を取り出した。
「扉を開くには、明けの明星が特定の位置に昇る瞬間が必要だ。今夜の夜明け前、約三時間後がそのタイミングになる」
「三時間、ここで待つの?」
「そうなる」
ガルは空を見た。
雲がない。
星が出ている。
風は強いが、視界は悪くない。
「待ってろ。雪穴を掘る」
小さな焚き火を囲んで、3人が座っていた。
雪を掘って風を防いでいるが、それでも冷たい空気が首筋に入ってくる。
焚き火の熱が、顔だけを温めた。
アーシャはいつの間にか眠っていた。
古文書を胸に抱いたまま、規則正しい寝息を立てている。
キリークとガルだけが、起きていた。
「……弟を取り戻したら、どうするつもりだ?」
ガルが唐突に言った。
キリークは焚き火を見た。
「どうする、って……」
「旅が終わった後の話だ」
考えたことがなかった。
マイトレーヤを探すこと、守護石を集めること、前に進むこと。
それだけを考えてきた。
その先を、具体的に思い描いたことがなかった。
「……分からない」
正直に答えた。
「そうか」
「ガルは?」
「南の島へ行く。寒いのは苦手なんだ」
煙草をふかす横顔はひどく穏やかだった。
「傭兵は、やめるの?」
「長くはやれない。ここらが潮時だろう」
ガルは雪空を見上げた。
その横顔を、キリークは盗み見た。
いつもと変わらない顔だった。
それが、なぜか胸に刺さった。
「お前がまだ半人前だったら、もう少し面倒を見るつもりだった。今はその必要もないだろう」
「……一人前になったって言いたいの?」
「事実を言った」
キリークは焚き火の炎を見た。
奴隷船で戦った時のこと。
生贄の村でのこと。
絶海の牢獄島でのこと。
自然神の神殿でのこと。
そのすべての旅の隣には、常にこの不器用な傭兵の姿があった。
「……南の島に遊びに行く」
「来るな」
「行く。マイトレーヤと一緒に」
「……好きにしろ」
焚き火が爆ぜた。
雪の上に、小さな火の粉が散っていく。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
夜明け前。
東の空が、わずかに白み始めた。
アーシャが目を覚ました。
天球儀を取り出し、星の位置を確認した。
「……もうすぐだ」
全員が立ち上がった。
焚き火を消す。
装備を確認する。
キリークは直刀の柄を握った。
ガルはメイスを手に取った。
東の空に、一つの星が輝き始めた。
他の星よりひときわ明るく、澄みわたる光を放つ。
明けの明星だった。
「……来た」
アーシャが岩壁の刻印に手を当てた。
星の光が特定の角度に達した瞬間、刻印が光を放った。
石造りの扉が、ゆっくりと動き始めた。
「開いたぞ!」
アーシャの声が、雪山に響いた。
その瞬間だった。
音がなかった。
気配もなかった。
ただ、空気が変わった。
キリークは振り返った。
アシュヴィンが立っていた。
帝国の将校服。
整った顔立ち。
虚ろな瞳。
その両脇に、二つの影がある。
港町の路地ですれ違った、小柄な女と大柄な男だった。
「……待ってたよ、キリーク」
穏やかな声だった。
静かに、まるで昨日も顔を合わせていたかのような感じで言った。
そして、その視線が、キリークの隣に立つガルへ向けられて……。
「ガル……」
言葉が出なかった。
ガルの手がメイスへ伸びる。
しかし、その動きよりも早く、アシュヴィンが動いていた。
槍が、空気を切った。
ガルが横へ動いた。
反応した。
避けようとした。
それでも届かなかった。
槍がガルの胴を貫いた。
キリークの世界が、一瞬止まった。
音が消えた。
寒さが消えた。
ガルの横顔だけが、やけに鮮明に見えた。
「ガル……!」
アシュヴィンは槍を引いた。
ガルの腰から、守護石の入った革袋を引きちぎる。
ガルが雪の上に膝をついた。
「……っ、行け」
低い声だった。
「キリーク……行け」
「何を……」
「行けと言っている!」
ガルはメイスを雪面に叩き込んだ。
辺りに轟音が響く。
足元の氷層に、亀裂が走った。
「ガル……!」
「行けッ――」
氷が、砕けた。
雪と瓦礫が崩れ落ちる音が、山を揺らした。
アシュヴィンとキリークたちの間の大地が割れ……ガルが、崩落の中へ消えた。
崩落の轟音が、ようやく遠ざかっていった。
雪煙がゆっくりと晴れていく。
断崖の向こう。
アシュヴィンは動かなかった。
その両脇には、小柄な女と大柄な男もいる。
三人とも、崩落など意にも介していないように立っていた。
キリークは崩落した場所を見ていた。
雪煙だけが舞っている。
「……」
声が出なかった。
ガルの姿は、もうどこにも見えない。
「石は二つか」
静かな声だった。
「残りは、君が持っているのか?」
キリークは答えなかった。
直刀を抜いた。
手が震えている。
「……アーシャさん」
「……なんだ」
「走って。ヴェネスへ戻って」
「お主を置いては……」
「走って」
キリークは前を向いた。
崩落の向こうに、アシュヴィンが立っている。
その両脇に、男女が並んでいる。
アシュヴィンの姿がブレた。
ガルが命を賭して割った大地の亀裂を、羽のように軽やかな跳躍で越えてくる。
「ファンネリアに伝えて」
「……なんと伝える?」
キリークは少しの間、黙った。
「今回は、お土産はないかも、って」
アーシャの足音が、雪を踏んで遠ざかっていった。
キリークは雪を蹴った。
迫り来るアシュヴィンを、真正面から迎え撃つために。
キリークは直刀を構えた。
(泣くのは後だ……今は前だけを見る)
夜明けの空に、明けの明星が輝いていた。




