-金色の戦士- 第22話 暗雲
※設定整理のため、サンシャーラ歴(1222年)の年代表記を修正しました。
物語内容に変更はありません。
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 暗雲
帝国歴24年。サンシャーラ歴 前522年。
北の港町ヴェネスは、一年で最も美しい季節を迎えていた。
海から吹き込む風は冬の刺すような冷たさを失い、潮の香りと共に柔らかな春の陽気を運んでくる。
活気づく大通りを抜け、海沿いの一等地に建つ立派な石造りの建物——『ファンネリア商会』の重厚な扉を開けると、そこには一年前とは全く違う熱気が渦巻いていた。
応接室は、一年前よりずっと広く感じられた。
いや、実際の部屋の広さが変わったわけではない。
壁一面に貼り出された大陸全土を網羅する真新しい海図、机の上に山のように広げられた各地の特産品の目録、そして棚を埋め尽くす分厚い帳簿の数が、この一年という月日の生きた密度を雄弁に物語っていた。
祖国アヴァニア王国が滅亡し、キリークが過酷な旅に出てから約一年。
キリークは18歳の春を迎えていた。
そしてその一年の間に、ヴェネスで父親から商会を受け継いだファンネリアは、堂々と自身の名を冠した『ファンネリア商会』を立ち上げ、若き商会長として大陸中に独自の販路を拡大していた。
各地の死線を潜り抜けるキリークたちが、旅先から何気なく送った珍しいお土産。
辺境の香辛料や珍しい鉱石などが、その巨大な商網を築くための最初の足がかりとなっていたのだ。
「……で、ヴェネスに戻ってきた理由は一つ」
長旅の埃を払う間もなく、キリークは応接室の机に身を乗り出して言った。
「ラーナに、直接聞きたいことがある」
キリークは真っ直ぐにファンネリアを見据えた。
「アーシャの文献も行き詰まった」
ガルが煙草を咥えながら言った。
「あいつなら何か知ってるかもしれねぇ」
「ラーナが?」
「神代の話になると妙に詳しいだろ」
キリークも静かに頷いた。
そこにはもう、一年前の『守られる小娘と保護者』という空気はない。
幾多の死地を共に乗り越え、背中を預け合ってきた対等な戦友としての、静かで揺るぎない信頼が二人の間にあった。
ファンネリアもまた、商会長としての確かな威厳と、帰還した親友への深い愛情を込めて、若草色の瞳を細めた。
「ラーナを呼んできてもらうわ……でも、その前に、少しだけ見せて」
ファンネリアは立ち上がり、キリークの姿を頭の先から足元まで見つめた。
砂漠の太陽で焼けた肌、使い込まれて色落ちした革鎧、腰の直刀についた無数の新しい傷。
そのすべてを確かめるように見てから、ふっと口元を綻ばせた。
「今回は、大きな怪我はしなかったのね」
「海に落ちて、風に飛ばされて、砂に埋もれかけたがな」
ガルが横から呆れたように口を挟む。
「怪我はしてない」
キリークが真顔で即答すると、ガルは「そうだな」とだけ言って肩をすくめた。
ファンネリアはクスクスと笑い、二人を見た。
「お土産、ちゃんと届いたわ。ありがとうね。ネフェルティアの香辛料、この港町で大評判だったわ」
「あの砂漠の市場で見つけたのはキリークだ」
「ガルが値段を交渉したんでしょう? 手紙に書いてあったわ」
ガルは誤魔化すようにふいと視線を逸らし、紫煙を吐き出した。
キリークは笑うファンネリアを見つめた。
一年前、裏社会の人間に攫われ、貴族に売られかけてもなお、涙を呑み込んで立ち続けていた少女。
あの時は守られる側だった。
けれど今は違う。
ファンネリアは、自分の足で立ち、自分の意志で前へ進み、自分の手で誰かを守ろうとしている。
その若草色の瞳は、もう誰かの背中だけを追うものではなかった。
「……おめでとう、ファンネリア商会」
キリークの言葉に、ファンネリアは少し驚いた顔をした後、照れたように、しかし誇り高く笑った。
自分が旅をしている間、ここでも誰かが戦っていた。
その当たり前のことが、今更のように胸に沁みた。
「ありがとう。さあ、ラーナが来るまでに、もっと話を聞かせてちょうだい」
「そう言えば、アーシャさんは?」
「地下倉庫よ。天球儀を引っ張り出してきて、今も一人で計算してる」
「徹夜?」
「三日目」
その異常な執念に、キリークとガルは絶句した。
その後、ファンネリアは時間の許す限りキリークたちの話を聞いた後、名残惜しそうに応接室を出て行った。
「空の神殿のことだろう」
入れ替わりに、ラーナが応接室に入ってくるなり、そう言った言った。
「なんで分かったの?」
「人間に無関心な自然神の中でも、アルカーシャは、もっとも捉えどころがない神だからな」
ラーナは空を見たまま言った。
「何もせず、ただ全ての生命が活動するための『絶対的な空間』として在り続ける……それがアルカーシャだ」
「なに、それ……」
キリークは理解が追いつかず、小さく首を傾げた。
「記録に残りにくい神ってことか」
煙草の煙を吐き出しながら、ガルが呟く。
「そういうことだ」
ラーナは空に向けていた視線をゆっくりと下ろし、キリークを見据えた。
「レムリア帝都の北……蒼天連峰アルフェンの中腹に、アルカーシャの神殿はある」
「帝都の、北」
「そうだ」
キリークは少し黙った。
帝国の心臓部だ。
これまでの遺跡とは話が違う。
属州でも辺境でもない。
皇帝の支配が最も強く及ぶ土地だった。
これまでとは、重さが違う。
それだけは分かった。しかし足が引いたかといえば、そうではなかった。
「面倒な場所だな」
ガルが煙草を咥えたまま呟いた。
「帝都周辺は兵の数も違う。見つかれば今までみたいにはいかねぇ」
「分かってる」
キリークは頷いた。
分かっている。
それでも行かなければならない。
守護石も、マイトレーヤも、その先にある。
「だが、いつでも入れるわけではない」
ラーナは淡々と告げた。
「明けの明星が輝く一時間だけ、神殿への扉が開かれる」
「一時間か」
ガルが短く言った。
「失敗はできねぇな」
「最初からそのつもりよ」
キリークが答える。
ラーナは静かに頷いた。
「空の守護石は?」
ラーナの目が、わずかに動いた。
どこか遠くを見るような、慈愛と憂いが混ざった目だった。
「……安全な場所にある」
「安全な場所? どこ?」
「一番信頼できる者の手の中に」
ラーナはそれ以上は言わなかった。
キリークは聞こうとした。
しかしラーナの横顔を見て、やめた。
何か、触れてはいけないものがある気がした。
「そこへ行けば会える?」
「会える」
ラーナは静かに続けた。
キリークは守護石を四つ取り出し、手の中に並べた。
火、水、風、地。
それぞれが異なる形をしていて、異なる色で光っている。
「もう少しで、全部揃うわ」
「ああ」
「そしたら、マイトレーヤを助けられる?」
ラーナは少しの間、黙った。
「可能性が上がる」
「……そう」
「今言えるのはそれだけだ」
正直な答えだった。
キリークは守護石を握りしめた。
出立を明日に控えた夜。
商会の主室には、静寂だけが落ちていた。
窓の外からは、波の音と遠くの酒場の喧騒が微かに聞こえてくる。
ガルは無言で、布の上に四つの守護石を並べていた。
触れるだけで熱を帯びる火の石。
常に表面が濡れているかのような水の石。
微かな気流を纏う風の石。
そして、見た目以上に重く冷たい地の石。
四つの神の力が、ランプの灯りを受けて鈍く脈打っている。
「キリーク」
剣の手入れをしていたキリークは、ガルの低い声に顔を上げた。
「なに?」
「二つずつに分けるぞ」
ガルは淡々とした動作で、土の石と水の石を一方へ、火の石と風の石をもう一方へと分けた。
「なんで……」
「もしもの時、一度で全部失わないためだ」
キリークは眉をひそめた。
「……縁起でもない」
「縁起より生存率だ」
ガルの目は、これまでにないほど真剣だった。
歴戦の傭兵としての勘が、彼に最悪の事態を想定させていた。
帝都の雪山。
それは、ただの遺跡探索ではない。
敵の喉元に自ら飛び込む自殺行為に等しい。
冗談でも、脅しでもない。
その静かな確信に満ちた瞳に反論を封じられ、キリークは無言で火の石と風の石を受け取った。
掌の中で、二つの石がひどく重く感じられた。
最悪の事態を想定している。
そのガルが、それでも行くつもりでいる。
それが、何よりの覚悟の示し方だった。
「物資の手配は終わったわ」
ふと、部屋の入り口から声がした。
いつから聞いていたのか、ファンネリアが静かに立っていた。
その手には、雪山用の防寒具と高品質な保存食のリストが握られている。
「……全員で、帰ってきて」
絞り出すようなファンネリアの言葉に、ガルは煙草を咥えて短く笑った。
「割に合わねえ仕事だ」
「いつも通りね」
キリークは笑って返し、手の中の石をしっかりと革袋に収めた。
翌朝。
商会の前に集まったキリークは、一人足りないことに気づいて尋ねた。
「アーシャさんは?」
「荷物を増やしておる」
商会の奥から、自分の背丈ほどもある大量の羊皮紙や分厚い本、測量道具を抱えたアーシャがよろよろと姿を現した。
「減らせ」
ガルが煙草を咥えたまま、即座に切り捨てる。
「馬鹿を言え! 学問に不要な荷物など一つもないわ!」
「雪山での生存に不要な荷物だ。半分置いていけ」
ギャーギャーと文句を叫ぶアーシャからガルが容赦なく荷物をむしり取り、ようやく万全の準備が整った。
抜けるような青空の下、ファンネリアとラーナに見送られ、万全の準備を整えた一行は港町の石畳を歩き出した。
「必ず帰ってくるから。お土産、期待しててね」
「ええ。気をつけて、いってらっしゃい」
ファンネリアが、花が咲くような柔らかい笑顔で手を振った。
隣のラーナの黄金の瞳は、これから彼女たちを待ち受ける残酷な運命を見透かしているかのように、静かに澄み切っていた。
朝の市場は活気に満ちていた。
焼きたてのパンの匂い、魚を売り捌く男たちの威勢の良い声、笑いながら走り抜けていく子供たち。
平和で、暖かくて、希望に満ちた春の朝。
しかし、路地を曲がった先で、キリークはぴたりと足を止めた。
賑やかな市場の喧騒が、まるでそこだけ切り取られたかのように遠ざかる。
向こうから、二人の人物が歩いてくる。
一人は小柄で動きの軽い、目の細い女。
もう一人は、がっしりとした体格で足取りの重い男。
帝国の軍服を着ているわけではない。
粗末な旅人の外套を羽織っているだけだ。
しかし、その身に纏う空気が、あまりにも異質だった。
市場の風景に全く馴染んでいない。
冷え切った異物感。
すれ違う瞬間、女が立ち止まり、キリークを見て冷たく微笑んだ。
「……遺跡巡り、ご苦労さん」
「……」
キリークは無言で女を睨み返した。
背筋を冷たい汗が伝う。
直感が、目の前の存在を『圧倒的な敵』だと告げていた。
この出会いが偶然ではないことだけが、静かに分かった。
女はそれ以上何も言わず、男と共に路地の奥へと歩き去っていった。
すれ違いざま、男の重く冷たい視線が、キリークの横顔を無遠慮に一瞥した。
二人の足音が路地の奥へと完全に消えた後、キリークは隣を見た。
ガルは音を立てることもなく、すでに腰の武器に手をかけていた。
その横顔には、これまでに見たことがないほどの強い警戒心が張り付いている。
「ガル、知ってる人たち?」
「知らねぇ」
ガルは、二人が消えた路地の奥を鋭い目で見据えたまま、地を這うような低い声で呟いた。
「だが、向こうは俺たちを知ってる」
朝の喧騒は、何事もなかったかのように続いている。
しかしキリークの胸に残った違和感だけは、いつまでも消えなかった。
行く手にある帝都の方角には、抜けるような春の空が広がっていた。




