-金色の戦士- 第21話 巡礼
『サンシャーラ神話物語』
-金色の戦士- 巡礼
水の神ヴァヴィーチェの遺跡は、海の底にあった。
属州ピスパンニア――旧ピスパンニア王国の沿岸。
帝国に飲み込まれて久しいその海岸線に、満潮時だけ水没する古い石造りの祭壇がある。
アーシャが古文書と潮汐の記録を照合し、干潮の時刻を割り出した。
「……準備はいいか」
ガルが聞いた。
「いつでも」
キリークは直刀の柄を確かめた。
潮が引いた石段を下りていくと、祭壇の床が露わになっていた。
石の表面に、水草が貼りついている。
「気をつけて歩け」
「分かってる」
「分かってるなら……」
「滑ってない」
慎重に進んだ。
祭壇の中央、石の台座に守護石を置くように。
アーシャの解読した石版には記されていた。
キリークは台座へ向かって歩いた。
足元の石が、濡れている。
次の瞬間、足が滑った。
盛大に滑った。
ぶくぶくと泡を立てながら、祭壇の床に張った浅い水の中へ沈んだ。
沈黙が落ちた。
ガルが無言でキリークの首根っこを掴み、引き上げる。
水を吐きながら、キリークは台座を見た。
「……もう一回」
情けないとは思った。
しかし止まる理由にはならなかった。
「足元を見て歩け」
「見てた」
「見てなかった」
キリークは、一歩一歩確かめながら台座へ向かった。
今度は慎重に。
水の神ヴァヴィーチェは、人間の都合など知らなかった。
守護石が台座に触れた瞬間、祭壇の床から水が噴き出し、全員がずぶ濡れになった。
それだけだった。
石が、手の中で重くなった。
「……取れた」
「そうだな」
ガルは煙草を取り出し、濡れているのに気づいて戻す。
アーシャが海水を滴らせながら古文書を抱きしめていた。
「文書が……文書が濡れた……」
「乾かせば読める」
「乾かしたら縮む……!」
風の神カントゥリヌスの祭壇は、属州カーメリア――旧カーメリア王国の高原にあった。
暴風域の中心。
常に風が吹き荒れ、立っているだけで体が持っていかれそうになる。
「神の力を……!」
キリークが台座へ向かって踏み込んだ瞬間。
神の突風が、真横から来た。
キリークが吹き飛んだ。
文字通り、吹き飛んだ。
「あいつ飛んでいきおったぞ!」
アーシャが叫んだ。
ガルは煙草を咥えたまま、キリークが飛んでいった方向を見る。
遠くの草原に、小さな点が落ちた。
しばらく動かなかった。
やがて点がゆっくりと立ち上がり、よたよたと戻ってくる。
「……何も言わないで」
「何も言ってない」
「顔が語ってる」
「気のせいだ」
キリークは土を払い、もう一度台座へ向かった。
今度は低く重心を落とし、風を真正面から受けながら一歩一歩進む。
途中で三回吹き飛ばされた。
四回目に、石が台座に触れた。
風の石が、手の中に収まった。
ガルが一言だけ言った。
「根性だけはある」
「褒めてる?」
「事実を言った」
地の神アットパータの迷宮は、ネフェルティアの砂漠の地下にあった。
ここはまだ帝国の支配が及んでいない、五大国の生き残りであるネフェルティア領内だ。
帝国の追手が迫る前に石を回収すべく、三人は複雑怪奇な地下通路を急いでいた。
落盤と入り組んだ迷路。
アーシャの言う通り、罠だらけだった。
「……右だ、右へ進むんだ!」
アーシャが古文書を片手に自信満々に指差す。
「さっきもそう言って行き止まりだった。左が正解なんじゃないの?」
「馬鹿を言え! このわしの完璧な解読によれば、93パーセントの確度で右の道が正解なんだ!」
「じゃあ……これは何?」
キリークが呆れたように指差した先には、冷酷なまでにそびえ立つ完全なる『行き止まり』の岩壁があった。
沈黙が落ちた。
アーシャは冷や汗をかきながら、古文書から顔を上げた。
「……残りの、七パーセントの方だな」
「……」
「怒るな! 自然神の迷宮は人間の確率論など通用せんのだ!」
ガルが煙草を取り出し、火はつけずにそのまま咥えてため息をついた。
「……七パーセントを三回連続で引く確率を計算してみろ、学士様」
「やかましい!」
落盤が三回。(七パーセント)
行き止まりが四回。(七パーセント)
それでも言い争いながら、なんとか最深部に辿り着いた。
地の石が台座に触れた瞬間、天井から砂が降ってきた。
全員で出口へ走った。
太陽の下へ飛び出した瞬間、後ろで通路が崩れる音がした。
砂漠の青空の下、三人は揃って倒れ込んだ。
アーシャが砂を吐きながら言った。
「……神代文明の迷宮は、こんなに意地悪ではなかったはずだ!」
「自然神だ」
ガルが天を仰いだまま言った。
「人間の都合など知らん」
焚き火を囲んで、三人で座る。
砂漠の夜は、静かだった。
赤い三角形の火の石。
青い球体の水の石。
深緑色の半月形の風の石。
黄色い方形の地の石。
四つの守護石が、布の上に並んでいる。
それぞれが異なる色と形を持ち、焚き火の光を受けて鈍く輝いていた。
「……四つ揃ったわね」
キリークは静かに言った。
一つひとつ手に入れた時のことが、ぼんやりと蘇った。
火傷の跡が、まだ腕に残っている。
それでも、揃った。
「ああ」
「あと一つ……」
「そうだな」
ガルは煙草に火をつけた。
砂漠の夜風が、炎を揺らしている。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、アーシャが古文書を閉じた。
「困ったのう」
「何が?」
キリークが顔を上げる。
アーシャは難しい顔をしていた。
「空の神アルカーシャに関する記録だけが妙なのだ」
「妙?」
「場所を示す記録がない」
「失われたんじゃないの?」
「違う」
アーシャは首を振った。
「最初から存在せんのだ」
焚き火が小さく爆ぜた。
「火も、水も、風も、地も。神殿の場所や守護石の記録は残っておった。しかし空だけがない」
「書き忘れたとか?」
「神代文明の連中がそんな間抜けなことをするか」
アーシャは腕を組んだ。
「意図的に伏せられておる。そう考える方が自然だな」
キリークは布の上の守護石を見た。
あと一つ。
それなのに、肝心の場所が分からない。
ここまで来て、という気持ちが喉元まで来た。
しかし口には出さなかった。
「どうするの?」
誰にともなく尋ねた。
答えたのはガルだった。
「帰るか」
「ヴェネスへ?」
「ああ」
煙草の煙が夜空へ流れる。
「ラーナなら何か知ってるかもしれねぇ」
キリークは少し考えた。
確かに、あの女神は神代文明より遥か以前から生きている。
アーシャの古文書より、よほど信用できる情報源だった。
「……そうね」
「決まりだな」
アーシャも頷いた。
「わしも一度資料を整理したい。ここ数ヶ月、ずっと旅の空だったからの」
キリークは夜空を見上げた。
無数の星が瞬いている。
空の神。
最後の一柱。
その居場所だけが、まだ見えなかった。
見上げれば見上げるほど、遠かった。
それでも目が離せなかった。
「……帰ろうか」
ガルが短く頷いた。
「ファンネリアにお土産、何か買っていかないと」
「遺跡巡りの帰りに土産を探す旅人がどこにいる」
「私たち」
ガルは短く息を吐いた。
しかしその横顔は、険しくなかった。
焚き火が、砂漠の夜を照らしていた。




