-金色の戦士- 第5章幕間 帰還
『サンシャーラ神話物語』
帰還
白銀峰の険しい山道を下りるのに、丸二日かかった。
登りよりも時間がかかった最大の理由は、キリークの焼け爛れた右腕だった。
厚く包帯を巻いてはいるが、歩く振動だけで骨の髄まで痛みが響き、少しでも荷物を持とうものなら脂汗が滲む。
見かねたミラがキリークの荷物をすべて肩代わりし、普段なら文句ばかり言うアーシャでさえ、この時ばかりは無言で自分の大きな荷物を背負い続けていた。
「……歩けるか?」
不意に、隣を歩くガルが低い声で聞いた。
「歩いてるわよ」
「そういう意味で聞いたんじゃない」
「大丈夫よ。本当に」
キリークが強がって微笑むと、ガルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、キリークの痛みを庇う狭い歩幅に合わせて、歩く速度をほんの少しだけ落としてくれた。
何も言わずに合わせてくれるのが、ガルらしかった。
今は、その不器用な気遣いだけで十分だった。
山を下りきり、旧アヴァニアの港町が見えてきた頃。
潮の香りが混じる風の中で、ミラが不意に足を止めた。
「……私はここまでよ」
キリークは驚いて振り返った。
「え? 港まで一緒に行けるのに」
「あんたは、もう手のかかる子供じゃないのよ」
ミラは笑った。
いつもの、少し意地悪で快活な笑顔だった。しかし今回は、その瞳の奥に、確かな信頼と……何かを満たしきったような穏やかな光があった。
「……役に立てた?」
「すごく」
「ならよかった」
ミラは、キリークの太く包帯が巻かれた右腕をじっと見た。
「次はもっと上手くやりなさい。一人で全部背負おうとしないこと」
「善処します」
「善処じゃなくて、やりなさい」
「……それ、ガルと全く同じこと言ってる」
キリークが苦笑すると、ミラは肩をすくめた。
「似たもの同士なのかもね、あいつと私。傭兵上がりは苦労性なのよ」
少し離れた場所で煙草を咥えていたガルが、その言葉にわずかに眉を上げた。
「……心外だ」
「あら、似てないと思う?」
「……」
ガルは深く煙を吐き出し、それ以上は反論しなかった。
そのやり取りがおかしくて、キリークは声を出して笑った。
笑うと右腕が痛んだが、それでも構わなかった。
「またいつか、ね」
「ええ。その時は、マイトレーヤも一緒に」
ミラが踵を返し、港町とは反対の街道へ歩き出そうとした、その時だった。
「……ま、待ってくれ!」
アーシャが、背中の巨大な荷物を揺らしながら小走りで前へ出た。
珍しかった。この偏屈な老学者が、遺跡以外のもので小走りをするのを、キリークは初めて見た。
「その、なんじゃ……また、会えるかの」
アーシャはミラを見ていた。目が、明らかに左右に泳いでいる。
ミラは振り返り、頬を染めるアーシャの顔をまじまじと観察した。
それから、ひまわりのようににっこりと笑った。
「あなたの本が出たら、読んであげる」
「……ほ、本当か!?」
「本当よ。だから、途中で死なないで早く書きなさい」
「う、うむ……! それは、まあ……現在、鋭意執筆中じゃ!」
「楽しみにしてるわ」
ミラは悪戯っぽくウインクをして、今度こそ背を向けて歩き出した。
アーシャは、その凛とした背中が街道の向こうに見えなくなるまで、だらしない顔でずっと見送っていた。
「……じいさん」
ガルが低い声で呼んだ。
「なんじゃ」
「荷物、自分で持て」
「む……」
アーシャは渋々、ミラが降ろした自分の木箱を担ぎ直した。
鼻の下がまだ少し伸びていたが、キリークもガルも、あえて指摘はしなかった。
その後、ヴェネス行きの船に乗り込んだキリークは、ミラの姿が見えなくなるまで甲板から岸を眺めているつもりだった。
しかし、体はとうに限界を超えていたらしい。
潮風に吹かれながら、悔しいような、少し笑えるような安堵感に包まれ、キリークはゆっくりと目を閉じた。
気付けば、そのまま深い眠りに落ちていた。
目を覚ました時には、船はすでにヴェネスへ向かう穏やかな海の上だった。
数日後。
ヴェネスの桟橋に降り立つと、見慣れた若草色の瞳が、潮風の中で待っていた。
「……お帰りなさい」
ファンネリアだった。
帰ってきた、とキリークは心から思った。
いつの間にか、この商会が自分の帰るべき日常になっている。
ファンネリアは無事に帰還した三人を見て、花が咲いたように微笑んだ。
しかし、キリークの右腕の痛々しい包帯を見た瞬間、その表情がサッと険しいものに変わった。
「……キリーク、その腕」
「大したことないから。ちょっと火傷しただけで」
「大したことある腕をしてるわよ」
ファンネリアはキリークの右腕をそっと、しかし力強く取り、包帯の奥の状態を確認した。
その顔は、ただただ、大切な友人を心配する顔だった。
「すぐに中を見せなさい。腕のいい医者を呼ぶから……」
「本当に大丈夫で……」
「黙って」
有無を言わさぬ、絶対零度の声だった。
キリークは口を噤んだ。これ以上逆らうと怒られる、と本能が告げていた。
ガルがアーシャの重い荷物を担いで歩き出しながら、ぼそりと呟いた。
「ファンネリアの言う通りにしとけ。命が惜しければな」
「あなたも怪我してるでしょう、ガル」
「俺の肩はもう問題ない」
「嘘をつかないで。顔色が悪いのよ」
ファンネリアはガルの方も鋭く睨みつけた。ガルは気まずそうに視線を逸らし、紫煙を吐いた。
そんな中、アーシャだけが商会の立派な建物を感嘆の目で見上げて、目を輝かせていた。
「おお、ついに帰ってきた! して、飯はまだあるかの!?」
「あります。でも、その前に泥だらけの手を洗ってください」
「分かっておるわ!」
その夜。
キリークは商会の二階の清潔なベッドで、泥のように眠っていた。
ファンネリアが手配した医者に診てもらい、薬を塗り直され、熱い風呂を用意させられ、夕食を半分も食べないうちに意識が落ちていた。
一方、階下の執務室では、ガルとファンネリアがテーブルに大きな地図を広げていた。
ガルは地図から顔を上げた。
「……土産は届いたか」
「ええ。白銀峰の麓の宿場で仕入れて送ってくれたものよね?」
「ああ。キリークが目をつけて、交渉した」
ファンネリアは手元の帳簿を開き、満足げに数字を指でなぞった。
「あの特有の香草を使った燻製肉、港町で売り出したら思った以上に売れたわ。保存が利く上に風味が強いから、長期航海の船乗りに大受けなのよ」
「そうか」
「次も旅先で何か見つけたら、どんどん送ってちょうだい。小さくても構わないわ。あの子が目をつけるものは、不思議と大体当たるのよ」
ガルは新しく煙草に火をつけ、深く煙を吐いた。
「あいつは、妙なものに気がつくからな」
「戦いの勘だけじゃなく、商売にも勘がいいのかしらね」
ファンネリアは帳簿をパタンと閉じ、再び大陸の地図へ目を戻した。
「……さて。次は『水』か『風』の守護石ね。アーシャさんの文献と照合して場所を絞りたいところだけど……あの人、今夜は使い物にならないでしょうから……」
ガルは煙草を咥えたまま、二階の天井を見上げた。
「あいつの剣は、もう折れねえよ」
ファンネリアは少しの間、地図から目を離してガルを見た。
数多の死線を潜り抜けてきたベテランの傭兵が、確信を持ってそう言っている。
「……ええ。そうでしょうね」
ファンネリアは、誇らしげに、そして少しだけ眩しそうに微笑んだ。
一方、商会の隅のデスクでは。
アーシャが山積みの古文書を広げ、お茶を手にしたラーナへ向かって、熱の入った大演説を繰り広げていた。
「……つまりだな! 火の神ランヴァリーシャというのは、単なる自然現象の神格化などではない! 神代文明期において、大規模な排熱機構と神力循環システムを一体化させた存在なのだ! あの神殿の幾何学的な構造がその絶対的証拠で……!」
「知っている」
ラーナが、お茶をすすりながら静かに言った。
「……なんだと? なんでお前のような小娘が、そんなことを知っている!?」
「あれは私が生まれるずっと前から稼働している、ひどく古い仕様だ。あの循環システムは効率が悪い」
「生まれるずっと前からだと!? お前、自分を何歳だと思っとるんだ」
ラーナは少し考え込んだ。
「数えたことがない」
「数えたことがない!? 自分の年齢を数えたことがない人間がどこにおる!」
「人間ではないからな」
「黙れ小娘! 冗談はいいからわしの話を聞かんか! つまりだな、排熱機構と神力循環の相関性というのは……!」
「明日にしろ。夜が遅い」
「わしはまだ話し足りん!」
「明日だ」
ラーナは無表情のまま、アーシャの手元を照らしていたランプをふっと吹き消した。
「……ああっ!? 消すな! わしの貴重な文書が見えんだろうが!」
「寝ろ」
「人を年寄り扱いするな!!」
暗闇の中で、アーシャの抗議の声が虚しく響いていた。
翌朝。
キリークが目を覚ますと、窓から柔らかい朝の光が差し込んでいた。
体が鉛のように重い。
しかし、昨日よりはずっとましだった。
右腕を動かしてみる。
痛みは走るが、指先まで動く。
ゆっくりとベッドから起き上がった時、扉が開いた。
ラーナだった。
手にした盆の上には、湯気の立つお茶と、新しい傷薬が乗っている。
「……起きたか」
「うん。ありがとう」
「ファンネリアに頼まれた。届けろ、と」
「そう」
キリークは盆からお茶を受け取り、一口飲んだ。
温かさが内臓に染み渡る。
ラーナはキリークの横顔を一瞥し、それから窓の外の港の景色を見た。
しばらく、静寂が続いた。
「……火の神は、どうだった」
ラーナの唐突な問いに、キリークは重いため息をついた。
分厚い包帯を巻かれた右手を、力なく持ち上げて見せる。
「……見てのとおりよ。死ぬかと思ったわ」
「そうか」
「言葉がまったく通じないのよ。ただそこに圧倒的な熱として存在しているだけで……本当に、怖かった」
「それが自然神というものだ。人に寄り添うようにはできていない」
「あと四人も、ああいう理不尽な感じなの?」
ラーナは少しの間、黙り込んだ。
「それぞれ、違う」
「……火よりひどいのもいる?」
「……可能性は、ある」
キリークは、たまらずベッドの毛布に顔を沈めた。
「勘弁して……」
本音だった。
強がる気力も、今朝のボロボロの体には残っていなかった。
ラーナは表情を変えなかった。
しかし、一拍置いてから、静かな声で言った。
「あと、四柱だ」
「……」
「怪我には気を付けろよ」
キリークは毛布から顔を上げ、半眼でラーナを睨んだ。
「数千度の火口に腕を突っ込んだ人間に言うセリフ?」
「だから、言っている」
ラーナは窓の外を見たままだった。
青銀の髪が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。
その横顔はいつも通り無表情だが、どこか、人間の必死な営みを楽しんでいるように見えなくもなかった。
「……絶対、心の中で笑ってるでしょ」
「笑っていない」
「顔には出てないけど、声が笑ってる」
「気のせいだ」
その時、階下からファンネリアのよく通る声が響いた。
「キリーク! 起きてるなら朝食ができてるわよ! アーシャさんが鍋の中身を全部食べる前に降りてきなさい!」
「わしはまだ食っておらんぞ!!」
「三杯目を装填しようとしてましたよね?」
「……朝飯は三杯食うのが健康の基本じゃ!」
キリークは、呆れたようにラーナを見た。
ラーナは窓の外を見たまま、かすかに目を細めていた。
「行け」
「うん」
キリークは立ち上がった。
右腕が重い。
全身の関節が痛い。
しかし、足は確かに前へと動く。
火の守護石が、胸元でトクンと温かく脈打っていた。
これで一つ。
あと、四つ。
階段を下りながら、キリークは心の中で強く唱えた。
(マイトレーヤ。待っていて)
朝の光に満ちた商会には、老人の怒鳴り声と、それをたしなめる明るい笑い声が、心地よく混ざって響いていた。




