-金色の戦士- 第20話 灼熱
『サンシャーラ神話物語』
灼熱
男の指輪が光った。
本当に、ただそれだけだった。
呪文の詠唱も、魔法陣の展開も、予備動作すらない。
次の瞬間、広間の硬い岩盤の床に、凄まじい音を立てて亀裂が走った。
「……っ」
キリークは反射的に床を蹴り、横へ跳んだ。
刹那、亀裂の奥から轟音と共に紅蓮の炎が噴き出した。
壁の刻印からではない。
地面を真っ二つに引き裂くように、長大な炎の壁が広間の下から一気に立ち昇ったのだ。
それは、空間を完全に分断していた。
炎の壁が、キリークと、残されたガルたちの間に絶対的な境界線として立ちはだかる。
「キリーク!」
「みんな!」
炎の向こう側から、ガルの焦燥を含んだ怒声が聞こえた。
壁を強引に越えようと動く気配がある。
しかし、噴き上がる炎の密度と熱量が異常すぎた。
少し近づいただけで皮膚が焼け焦げるような超高温。
並の人間が触れれば、一瞬で炭と化すだろう。
「面白い」
男の声が、地鳴りのような炎の音を縫って、静かに広間に響いた。
炎の壁の此岸……火口を背にした空間に、黒い軍服の男が悠然と立っていた。
空間は完全に分断された。
キリークと男、一対一だ。
「貴様、女か。この苛烈な試練の地までよく辿り着いたものだ。本来ならそのしぶとさを褒めてやりたいところだが……」
男は腰の鞘から、細身の剣をゆっくりと抜いた。
その刀身には、光を吸い込むような気味の悪い黒い光が、泥のように滲み出ている。
キリークは無言のまま、直刀を正眼に構えた。
(一人で、やるしかない)
怖いとは、思わなかった。
いや……本当は、怖かった。
手のひらには嫌な汗が滲み、心臓は警鐘のように早鐘を打っている。
しかし、恐怖を自覚するより先に、体が勝手に戦いの態勢を作っていた。
逃げ場はない。
背後には煮えたぎるマグマの火口。
前には正体不明の強敵。
その圧倒的なまでの絶望的状況が、かえってキリークから一切の迷いを消し去っていた。
「マイトレーヤを返せ」
「マイトレーヤ?」
地を這うようなキリークの声に、男は不思議そうに首を傾げた。
「ああ、貴様のその藤色の髪……なるほど、新しい依代の話か。だが、そんな個人的な感情で吠えられて、私が素直に『はい』と返すように見えるか?」
「返しなさい!」
「フッ」
男が鼻で笑い、無造作に踏み込んだ。
速い。
瞬きする間もない神速の踏み込み。
しかし、キリークの目はその動きを捉え、体はすでに迎撃へと動いていた。
下から擦り上げるように、直刀が鋭い弧を描く。
男の黒い剣が、上からそれを迎え撃つ。
ガィィィンッ!
重い金属音が広間に反響した。
弾かれなかった。
キリークの腕が痺れるほどの重い一撃だったが、完全に拮抗し、鍔迫り合いの形で止まったのだ。
(……受け止めた)
驚愕したのは、男ではなくキリーク自身だった。
牢獄島でアシュヴィンに直刀を折られた時と違う。
押し返せている。
力が、通じている。
「ほう」
男も少し驚いたように、薄い目をわずかに見開いた。
「ただの鉄の剣ではないな。その刀身、何か厄介な力が宿っているな?」
直刀の刃には、ラーナの加護が薄く、しかし確かな青銀の光を纏っていた。
キリークは鍔迫り合いから引かなかった。
むしろ、さらに体重を乗せて強く押し込んだ。
予想外の抵抗に、男がわずかに体勢を崩して後退する。
その隙を、キリークは逃さなかった。
一気に間合いを詰め、畳み掛ける。
一閃、二閃、三閃。
自身のファルサから炎を纏わせた斬撃の雨が、流れるような連撃となって男を追い詰める。
男は涼しい顔を崩さないまま、最小限の動きでそれを防ぎ、じりじりと後退して距離を取った。
「女にしては、なかなかやる。実戦慣れしている動きだ」
「そっちこそ、随分と余裕そうね」
乱れた息を整えながら、キリークは男の所作を注意深く観察した。
強い。
剣の腕も、身のこなしも一流だ。
しかし、アシュヴィンとは明確に違う。
アシュヴィンには、人間という枠組みから外れた、別の次元の不気味な強さがあった。
立つ次元が違うような、圧倒的な圧力。
だが、この男は違う。
強いが、同じ土俵で戦える。
届く。
キリークの戦士としての本能が、そう告げていた。
だが、男が左手の指輪を光らせた瞬間、その希望は打ち砕かれた。
指輪から、黒い霧のようなものが不気味に広がり始めたのだ。
キリークはとっさに大きく後方へ跳び退いた。
シュー……という嫌な音を立てて、霧が触れた硬い岩盤が、じりじりと黒く変色し、腐食していく。
「魔法か」
「闇の属性だ。お前の使う火とは、ひどく相性が悪いだろう?」
男の言葉通り、意志を持ったように黒い霧がうねり、キリークの体を包み込もうと迫ってくる。
キリークはファルサを全開にし、直刀から炎の壁を放った。
炎が霧を強引に焼き払う。
しかし、霧の密度が上がるにつれ、炎がみるみるうちに押し負け、キリーク自身の消耗が激しくなっていった。
(押されてる……!)
後退しながら、焦燥の中で思考を回す。
正面から炎で霧を焼き切ろうとすれば、間違いなくこちらのファルサが先に尽きる。
魔法の出力勝負では勝ち目がない。
別の手が要る。
思考の隙を突くように、男が霧の中から踏み込んできた。
濃闇の霧を裂いて、黒い剣が心臓を狙って真っ直ぐに伸びてくる。
キリークは剣で受けず、強引に体を捻った。
刃が脇腹を掠め、革鎧の表面を肉ごと薄く削り取る。
焼け付くような痛みが走った。
しかし……代償を払ったことで、男の懐に完全に潜り込むことに成功した。
近距離だ。
長剣も、あの厄介な霧を展開する魔法も、この間合いでは上手く使えない。
キリークは腰の回転を乗せ、下から男の喉元へ向けて直刀を突き入れた。
男が目を見開き、咄嗟に上体を反らして躱す。
しかし完全には避けきれず、直刀の切っ先が男の脇腹を浅く斬り裂いた。
黒い軍服が裂け、血が滲む。
「……っ」
初めて痛みに顔を歪め、男が大きく後退した。
その直後だった。
男の指輪が、狂ったように激しく明滅した。
防御ではない。
殺意に満ちた攻撃魔法だ。
霧とは比較にならない、極大の黒い奔流が、至近距離からキリークへ向かって放たれた。
「しまっ……」
キリークは全速力で横へ跳んだ。
間に合わない。
体を捻りながら、かろうじて中心への直撃だけは避けた。
しかし、魔法の余波の衝撃が、キリークの小柄な体を容赦なく揺さぶった。
木の葉のように吹き飛び、火口の岩壁に背中から激しく打ちつけられる。
肺から空気が弾き出され、視界が白く明滅した。
血の味を吐き捨て、震える足で立ち上がろうとした時。
コロリ、と。
腰のポーチから、何かがこぼれ落ちた。
赤い光が、傾斜した硬い岩肌を転がっていく。
火の守護石だ。
(まずい……!)
転がった石が、煮えたぎる火口の縁で、ギリギリのところで止まった。
キリークが手を伸ばそうとした瞬間。
ゴゴゴゴゴォォッ! と、火口のマグマが大きくうねり、足元の岩盤が激しく揺れた。
そのわずかな振動で。
赤い石が、縁から真っ逆さまに落ちていった。
「……っ!」
キリークは痛みを忘れて跳んだ。
間に合わなかった。
キリークの手は虚しく空を掴み、赤い石は無情にもマグマの海へと吸い込まれていった。
やってしまった、と思う暇すらキリークにはなかった。
後悔より先に、石を失った状態でどうやって目の前の敵を倒すか、次の手を探して思考を回転させていた。
石がマグマの中へ消えた、次の瞬間だった。
「……ッ!!」
男の表情が、一変した。
常に口元に浮かべていた余裕の笑みが消え去り、冷徹な仮面が完全に剥がれ落ちた。
「貴様ァァァァァァッ!!」
地の底から絞り出すような、鼓膜を劈く絶叫だった。
男が、あろうことか自身の剣を床に投げ捨てた。
それまでの洗練された剣士の態度から一変し、まるで理性を失った獣のように、奇声を発しながらキリークに向かって真っ直ぐに突っ込んでくる。
男の狂気に満ちた突進の重さを受けきれず、キリークの体勢が崩れる。
空いた顔面に、男の拳が容赦なくめり込んだ。
脳が揺れ、視界が飛ぶ。
男は完全に理性を失っていた。
もはや剣で勝つことなどどうでもよく、ただ目の前の女を、肉塊になるまで叩き潰すことしか頭になかった。
二発目。
三発目。
髪を掴まれ、何度も硬い岩壁に叩きつけられる。
血を吐きながらも、なんとか顔を上げたキリークの目に、信じられないほど不気味な光が飛び込んできた。
キリークを殴りつける男の握りしめた拳の中で、あの指輪が、どす黒い炎のように燃え上がっているのだ。
全身から、これまでとは比較にならない、粘りつくような濃密な殺気が限界まで滲み出ていた。
「何をしたっ! 我々が何年かけて、どれほどの犠牲を払ってここまで辿り着いたと思っている! 我らの大業のために! どれほどの血が流れたか! それを貴様が……貴様のような下等な泥人形が、すべてを台無しにしおって……ッ!!」
血を吐くような怒声が、広間に反響した。
男の指輪から限界を超えた黒い光が溢れ出し、触れた床をドロドロに融解させていく。黒い霧が爆発的に広がり、広間全体を絶望の闇色に染めていく。
怒りだった。
取り繕う余裕もない、自分たちの何十年もの計画を台無しにされた、剥き出しの狂気だった。
キリークは、岩壁を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。
殴られた右頬が裂け、血が流れている。
肋骨が何本か折れているらしく、少し動くだけで胸の奥が悲鳴を上げ、まともに息が吸えない。
守護石も失った。
それでも。キリークの瞳の奥の光だけは、微塵も死んでいなかった。
震える両手で、再び直刀を正眼に構える。
「我々の大業をォォォォォォッ!!」
男の全身から、黒い光が津波のように溢れ出した。
これまでとは規模が全く違う。広間全体を埋め尽くすほどの、極大の闇の魔法。
男は怒りに身を任せ、自身の命すら削る勢いで、全てを解き放った。
絶対的な死を孕んだ黒い奔流が、真正面からキリークに迫ってくる。
(マイトレーヤを、返せ……)
声には出さなかった。
血で喉が詰まって、声にならなかった。
しかし胸の中で、その言葉だけが、決して消えない炎として燃え盛っていた。
キリークは、迫り来る闇の奔流から、一歩も退かなかった。
ファルサに残った全て……文字通り、自分の命の残骸すべてを炎に変え、直刀に叩き込んだ。
ラーナの加護がそれに呼応し、青銀の光が太陽のように眩く弾けた。
一歩、力強く踏み込んだ。
死の奔流の中心へ向かって、真っ向から。
「マイトレーヤを、返せぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
すべてを焼き尽くす炎と、すべてを呑み込む闇が、空間の中心で激突した。
弾かれなかった。
キリークの振るう青銀と赤金の刃が、濃密な闇の奔流の中を、まるで分厚い紙を引き裂くように進んでいく。
そのまま……男が展開していた強固な闇の防壁を、上から下まで、完全に両断した。
一瞬の、絶対的な静止。
男の表情が、狂乱の怒りから、信じられないものを見るような驚愕へと変わった。
「……馬鹿、な」
キリークの振り抜かれた直刀が、男の胸を、鎖骨からみぞおちまで深く斬り裂いていた。
「ガハッ……!」
男は大量の血を吐き出しながら、後退した。
よろめきながら、一歩。
また一歩。
その足元が、すでに火口の縁であることに、男は気づいていなかった。
かかとが、何もない虚空を踏み抜いた。
男は虚しく空を掴んだ。
怒りが、純粋な死への恐怖に変わる瞬間だった。
「大業が……我らの……神、が……」
絶望の声が、遠く、下へと吸い込まれていく。
男の体が、煮えたぎる火口へと真っ逆さまに落ちていった。
ドボン、と。
マグマが、一瞬だけ大きく波打った。
悲鳴すら上がる間もなく、本当に、ただそれだけだった。
主を失ったことで、広間を分断していた不自然な炎の壁が、跡形もなく消え去り、火口の低い地鳴りだけが静寂の中に残された。
「キリーク!!」
炎の壁が消えた直後、ガルが駆け寄ってきた。
その背後から、ミラも血相を変えて続く。
「怪我は!?」
「……大丈夫」
大丈夫ではなかった。
殴られた右頬が熱を持って腫れ上がり、脇腹は刃で削られ血まみれだ。
呼吸をするたびに肋骨の奥がギシギシと軋み、視界は二重に揺れている。
それでも、キリークは倒れなかった。
直刀を杖代わりにして地に突き立て、なんとか自らの足で姿勢を保っていた。
「全然大丈夫そうに見えないんだけど!?」
ミラが心底呆れたように、悲鳴に近い声を上げた。
「立ててるから、平気」
「その馬鹿みたいな理屈で平気だった試しが、過去に一度でもあるの!?」
怒鳴るミラの言葉にキリークは答えられず、ただ力なく火口の方へ目を向けた。
「守護石が……落ちちゃった」
眼下では、マグマが怒りのように煮えたぎっていた。
その赤い光の海の奥深くに、失われた石が沈んでいる気がした。
その時だった。
広間の壁に刻まれた古代の刻印が、一斉に鼓動するように眩く発光し始めた。
ゴォォォォォォッ!!
火口の中心から、天を焦がすほどの巨大な炎の柱が上がった。
ガルとミラが危険を察知し、キリークを庇って後退する。
しかし、その炎は人を焼こうとする殺意を持っていなかった。
ただ、天の頂を目指して、上へ上へと真っ直ぐに伸びていく。
広間全体が、神々しいほどの赤光に染め上げられた。
圧倒的な熱と圧力が、キリークの体を優しく包み込んだ。
言葉ではなかった。
明確な意思とも呼べないかもしれない。
しかし確かに、強大な「何か」の意志が、魂に直接伝わってきた。
(――欲しければ、自らの手で掴み取れ)
キリークは火口を見た。
巨大な炎の柱の根元、激しく渦を巻くマグマの中心に、ひときわ強い赤い光が見えた。
沈んでいない。
浮かんでいる。
キリークは直刀に宿るラーナの加護を一瞥した。
それから、足を引きずりながら、再び火口の縁へ向かって歩き出した。
「……おい、キリーク!」
ガルが鋭く呼んだ。
しかし、キリークは止まらなかった。
火口の縁のギリギリに立った。
凄まじい熱気が顔を叩き、まつ毛が焦げそうだった。
眼下では、溶岩の海が恐ろしい音を立てて渦を巻いている。
その中心に、赤い石がある。
キリークは、右腕にファルサの炎を、限界まで分厚く纏わせた。
(……マイトレーヤのために)
恐怖はなかった。
炎を纏った右腕を、眼下で荒れ狂う数千度の赤い渦へ向けて、真っ直ぐに突き刺した。
「ッッッ!!」
右腕の感覚が一瞬で消え失せた。
熱いという次元ではない。焼けるというより、骨の髄まで砕かれるような、頭がおかしくなるほどの激痛だった。
しかし、キリークは腕を引かなかった。
痛みは想像していた。想定の範囲内だ。
だから、手は止まらなかった。
マグマの奥深く。
指先が、確かな硬い「何か」に触れた。
それを、力強く掴む。
そして、一気に引き抜いた。
マグマの中から腕を引き上げた瞬間、纏わりついていた殺人的な熱が嘘のようにサッと引いていった。
キリークの手の中に、石があった。
先ほどまで持っていたものとは、まるで別物だった。
同じ深い赤い色だが、密度が違う。
重さが違う。内包する熱が違う。
まるで、心臓のように脈打つ、生きている『力』そのものだと感じた。
「……取れた」
痛みに顔を歪めながらも、誰にともなく呟いた。
その声に応えるように、天を衝いていた炎の柱が、静かに火口の中へ沈んでいった。
広間の刻印の発光も、ゆっくりと潮が引くように消えていく。
火の神は、役目を終えたかのように再び深い沈黙の眠りについた。
「……何をやってるんだ、お前は」
背後から、ガルの怒りを押し殺したような低い声が聞こえた。
「無事だったから、よかったでしょ……」
「無事じゃないだろうが」
ガルが無言で歩み寄り、キリークの右腕を強引に掴んだ。
ファルサで保護していたとはいえ、無傷で済むはずがない。
手首から肘にかけて皮膚が赤く爛れ、一部は痛々しい水膨れになっていた。
「痛いか?」
「……痛い」
「正直に言えるようになったのは進歩だな」
ミラが大きなため息をつきながら、薬箱を取り出して近づいてきた。
「そこに座りなさい」
「でも……」
「座・れ」
怒気を含んだ、有無を言わさぬ声だった。
キリークは観念して、近くの手頃な岩へ大人しく腰を下ろした。
ミラが無言でキリークの右腕を取り、持っていた水で冷やしてから、傷薬を塗り込む。
次の瞬間。
「っ……!!」
キリークは思わず肩を跳ね上がらせ、悲鳴を噛み殺した。
沁みるどころの話ではない。焼けた皮膚の奥の神経まで、太い針を突き込まれるような激痛だった。
「動くな」
「……はい」
「返事だけは素直ね、本当に」
ミラは容赦なく手を止めなかった。
手荒だが、的確で慣れた手つきで薬を塗り込み、真っ白な包帯をきつく巻いていく。
隣では、ガルが壁に背を預け、忌々しそうに煙草に火をつけていた。
「怪我はするな、とは言わない。お前がそういう無茶な戦い方しかできないのは、もう分かってる」
煙を吐き出しながら、ひどく低い声で言った。
「ただ……死ぬな」
キリークは、包帯でぐるぐる巻きにされた自分の右腕を見た。
「死んでないわよ」
「今回は、な」
ガルの吐き出した紫煙が、暗い天井へ真っ直ぐに昇っていく。
「あんな無茶を続ければ、次は間違いなく死ぬ。常にそう思って戦え。自分の命を安く見積もるな」
キリークは少しだけ反論しようと口を開きかけ、そして黙った。
それから、小さく頷く。
ミラが、包帯の端をきゅっと結び終えた。
「よし……いいわね、キリーク? これからは、一人で勝手に命を削るような自己犠牲は、今日で絶対に終わりにしなさい」
「でも……」
「でも、じゃない」
ミラはキリークの泥だらけの顔を、真っ直ぐに見据えた。
「あんたがここで死んだら、誰がマイトレーヤを助けるの? それだけ考えなさい」
キリークは黙った。
痛いほど分かっていた。
頭では分かっているのに、弟が関わると、それでも体が自分を顧みずに先に動いてしまう。
たぶん、この身勝手な不器用さはすぐには直らないだろう。
キリークは、左手で新しく手に入れた守護石を強く握りしめた。
熱かった。
しかし、決して自分を焼くことのない、命の鼓動のような確かな重さがあった。
「……ありがとう、ミラさん」
「そのお礼は、無事にマイトレーヤを連れて帰ってから聞き直すわ」
その時、広間の奥の岩陰から、けたたましい声が上がった。
「生きた神の排熱現象! さらにマグマへの直接介入と、神威を宿した守護石の顕現! これぞ世紀の、いや歴史的瞬間だーーー!!」
アーシャが目を血走らせて岩壁の刻印に顔をくっつけ、奇妙な踊りのようなステップを踏みながら小躍りしていた。
戦闘の間、ずっと邪魔にならないように岩陰に隠れて記録を取っていたらしい。
「見ろ、この刻印の変化を! 守護石が顕現した後、ただの模様だと思っていた配列が明らかに変わっておる! これは神代文明の記録にも……おおっ、筆が止まらん!」
「帰るわよ」
ミラが冷たく言い放つ。
「待て待て待て! あと少し、あと三日だけこの場を観察させてくれ!」
ガルが無言で歩み寄り、アーシャの背丈ほどある巨大な荷物をヒョイと担ぎ上げて歩き出した。
「帰るぞ」
「ああっ! わしの貴重な荷物を勝手に……仕方ない、後生だ、せめてその石のスケッチだけでも!」
わあわあと騒ぐアーシャの声を背に受けながら、キリークはゆっくりと立ち上がった。
右腕が鉛のように重く、全身の関節が痛みを訴えている。
しかし、足はしっかりと大地を踏みしめていた。
キリークは、火の守護石を革のポーチの奥深くに収めた。
生きた熱が、布越しに胸にじんわりと伝わってくる。
これで一つ。
あと四つ。
(マイトレーヤ。待っていて)
キリークは顔を上げ、仲間たちの待つ出口へ向かって、力強く歩き出した。




