-金色の戦士- 第19話 神座
『サンシャーラ神話物語』
神座
クッカが引く車は、思ったより揺れた。
荒野の地面は均一ではない。岩が突き出し、轍が深く刻まれ、乾いた土がひび割れている。車輪が段差を越えるたびに、荷台が大きく跳ね上がった。
「揺れすぎだ!!」
アーシャが古文書を抱えながら叫んだ。
「これでは字が読めん! もっと丁寧に走れ!」
「荒野に丁寧な道はない」
ガルが手綱を握ったまま答えた。
「だいたい、あんたの荷物が重すぎるから揺れが大きくなるんだ」
「わしの荷物は全部必要なものだと言っておろうが!」
「半分は不要だ」
「学問を知らん者は黙れ!!」
ガルはそれ以上取り合わず、呆れたように前を向いて手綱を引いた。
キリークは揺れる荷台の端に腰を下ろし、荒野を眺めていた。
地平線まで、草原が続いている。
背の高い黄褐色の草が風に波打ち、遠くに木立が点在している。空は高く、青い。
悪くない景色だった。
「綺麗な景色ね」
隣でミラが言った。
「草原に来るのは久しぶり。昔、百色蠍の遠征でよく通ったわ」
「この辺りも?」
「もっと西よ。でも似たような景色だった」
ミラは草原を見たまま、少し目を細めた。
懐かしんでいるのか、何かを思い出しているのか、キリークには判断できなかった。
「ミラさん……無理して私に付き合っているんじゃ……」
「そんなわけないでしょ」
ミラは即答した。
「逃げるのは、もう終わりにしたのよ」
キリークは小さく目を瞬いた。
ふっと表情を緩め、ミラはからかうように言った。
「それに、あんたが私の心配するなんて、百年早いのよ」
キリークは口を閉じた。
心配していたのは本当だ。
だからこそ、言い返せなかった
迷いを吹っ切った晴れやかな笑みに、キリークの肩から自然と力が抜ける。
魔物が現れたのは、昼を過ぎた頃だった。
草むらが揺れた。
次の瞬間、左右から低い唸り声が上がった。
「来た」
ガルが手綱を引いてクッカを止めた。
草の中から、灰色の獣が飛び出してくる。
四足で走り、牙をむいた口から唾液が飛んでいた。
一匹、二匹、三匹……五匹。
「多いわね」
ミラが静かに剣を抜いた。
キリークは直刀を構え、ファルサに火を灯した。
指先に、馴染んだ熱が集まる。
ラーナの加護が、刀身に薄く光った。
「アーシャさんは車の中に……」
「分かっておる!」
言うが早いか、アーシャは荷物の影に身を縮めた。
最初の一匹が、キリークへ飛びかかった。
踏み込む。
直刀に炎を纏わせ、正面から斬り上げる。
獣が弾き飛んだ。
二匹目が横から来る……その前に、風切り音がした。
ミラが動いていた。
速い。
ファルサを起動した瞬間、ミラの足元から風が巻いた。
体が一瞬で加速し、二匹目の横を抜けざまに剣が閃く。
獣が地に伏した。
「……っ、速い」
「前だけ見てなさい」
ミラの声が、すでに別の場所から聞こえた。
その直後、三匹目が荷台のアーシャを狙って跳躍した。
「ひぃっ!」
アーシャが身をすくめる。
しかし、御者台のガルは表情一つ変えなかった。
片手でクッカの手綱を握ったまま、足元に置いていた真新しいメイスを無造作に掴み上げる。
「騒ぐな」
迫る獣の頭蓋へ、下からかち上げるように圧倒的な質量を叩きつけた。
鈍い破砕音。獣は悲鳴を上げる間もなく空中で弾き飛ばされ、地面を転がって動かなくなった。
キリークは残りの二匹と向き合った。
一匹をファルサの炎で牽制し、もう一匹の突進を横にかわして首元を斬る。
返す刀で振り向きざまに、最後の一匹を仕留めた。
静かになった。
「終わったか」
ガルが手綱を持ったまま言った。
「ええ」
ミラが剣を払い、鞘に収めた。
ガルはミラを一瞥した。
「腕は鈍ってないらしいな」
「どうも」
「なら問題ない」
キリークはミラを見た。
戦い方が、違う。
キリークが正面から火力で押し切るのに対して、ミラは風で動きを制御し、最小の力で急所を突く。
炎の派手さはない。
しかし一つの無駄もなかった。
「ミラさんのファルサ、風なの?」
「そう。火みたいに派手じゃないけどね」
「十分すぎるくらいだと思う」
「慣れただけよ」
ミラは草原を一瞥し、また前を向いた。
「長くやってると、派手さより確実さの方が大事になってくるの。生き残るためにね」
白銀峰が見えてきたのは、三日目の夕暮れだった。
最初は水平線の向こうに白い点として現れ、それがだんだんと大きくなり、やがて山の輪郭が浮かび上がってくる。
万年雪をまとった独立峰。
それが第一印象だった。
しかし近づくにつれ、様子がおかしいと気づいた。
山頂付近の雪が、部分的に溶けている。
岩肌が露出し、そこから白い蒸気のようなものが立ち上っていた。
「あれが火の神の熱気か」
ガルが言った。
「死火山のはずなのに、中はまだ生きてるのね」
「正確には」
アーシャが古文書を広げた。
「休火山だ。地表から見れば死んでいる。しかし地底では今も活動が続いている。火の神の神殿が機能し続けているからだ」
「神殿が、火山を動かしてるの?」
「逆だ。火山があるから神殿が機能する。排熱と神力は表裏一体……」
「分かった分かった、続きは山の中で聞く」
一行は登山を開始した。
山腹は、猛毒の火山ガスが滞留する迷路のような岩場だった。
「待て、道が塞がっておる!」
先頭を歩いていたアーシャが声を上げた。
崖の上から崩落したらしい、人間よりも大きな岩が山道を完全に塞いでいる。
「迂回するしかないわね……」
「どけ」
ガルがキリークの言葉を遮り、背中からメイスを引き抜いた。
無造作に踏み込み、塞がった岩の中央へ向けてその鉄塊を豪快に振り抜いた。
轟音。
巨大な岩が内側から爆発したように砕け散り、粉々の破片となって谷底へ落ちていった。
「行くぞ」
メイスを肩に担ぎ直して歩き出すガルの背中を見て、アーシャが静かに口を閉じた。
「右へ三歩、そこから斜めに登れ。私の指示から一歩でも外れれば、ガスと熱で肺が焼けるぞ」
アーシャは古文書と地形を照らし合わせ、一切の迷いなく安全なルートを指示し続ける。ただの口うるさい老人ではない。
彼がいなければ、火の神の足元に辿り着くことすら不可能だった。
山頂へ向かうほど、気温が変わった。
寒くなるはずだった。
しかし雪が溶けた岩肌から熱が漏れ出していて、妙に蒸し暑い場所がある。
雪の中を歩きながら汗をかくという、奇妙な状況が続いた。
「暑い! なんで雪山なのに汗が止まらんのだ!」
アーシャが外套を脱ぎ捨てた。
「脱いだら今度は寒くなるよ」
「うるさい! とにかく暑い!」
「環境が不安定なんだ」
ガルが岩肌を触った。
「熱が均一に漏れていない。神殿の排熱経路が、まだ生きてる証拠だ」
「……つまり、神殿は機能してるってこと?」
「93パーセントの確度で、そう言える」
アーシャが得意げに言った。
「全部93パーセントなのね」
「何が悪い」
高山帯に入ると、魔物が現れた。
岩肌に同化した、灰白色の蜥蜴型の魔物だ。動きが速く、岩の上を自在に走り回る。
五匹が、一行を囲むように配置についた。
「厄介な地形ね」
ミラが岩場を見渡した。
「足場が悪い。飛び回られると追いかけられない」
「風で追えないの?」
「こういう地形では、風より相手の方が速い場合があるわ」
ミラは少し考えてから、キリークを見た。
「熱で足場を作れる?」
「……どういうこと?」
「岩を熱して、あいつらが嫌う場所を作る。動ける範囲を絞れば、こっちが有利になる」
キリークは岩場を見た。
「やってみる」
ファルサに炎を集め、岩肌に叩きつける。
岩が赤熱し、じりじりと熱が広がった。蜥蜴型の魔物が、熱い岩を避けて動きを変えた。
「そこ」
ミラが風を纏って跳んだ。
動きを制限された魔物に、ミラの剣が次々と閃く。
速く、的確だ。
三匹が瞬く間に仕留められた。
残り二匹が後退した。
キリークが正面から踏み込み、炎を纏わせた直刀で斬り伏せた。
「……上手くいった」
「あんたのファルサがあったから」
ミラは着地しながら言った。
「一人じゃ思いつかなかった手よ。火と風は相性がいいわ」
後ろでは、アーシャが岩陰から顔だけ出して戦況を観察していた。
「ふむ、興味深い連携じゃ。火による環境制御と、風による機動力の組み合わせ……記録しておかなければ」
「メモより荷物を持て」
ガルが言った。
神殿の入り口は、火口付近の岩壁に隠れていた。
アーシャが古文書と照合しながら、石版の模様を指でなぞった。
「……ここだ」
岩壁の一部が、他と違う石で作られていた。表面に、古い文字が刻まれている。
「開け方は?」
「石版に書いてある。特定の順序で紋様を押す」
「何番目から?」
「左から三番目、上から二番目……」
アーシャが指示した順序通りに紋様を押していくと、岩壁がゆっくりと動いた。
石が削れる音がした。
重い扉が開いていく。
中から、熱気が吹き出した。
全員が思わず後退した。
「……熱い」
「これが火の神の領域だ」
アーシャが汗を拭いながら言った。
それでも目は輝いていた。
「神代文明期の石版通りの構造だ。素晴らしい。完全に一致している」
「先に進めるの?」
「93パーセントの確度で……」
「行くわよ」
引き返す理由を探す前に、足が動いていた。
通路は長かった。
石造りの壁が続き、足元の岩盤から熱が伝わってくる。
松明もないのに、奥へ進むほど仄かに明るくなっていく。
岩の割れ目から漏れる赤い光が、通路を照らしていた。
「……マグマが近い」
ガルが壁に手を当てた。
「熱が上がってる。近づくほど環境が厳しくなる」
「引き返せと言いたいの?」
「事実を言っている」
アーシャが通路の壁を食い入るように調べていた。
「この刻印……神代文明の初期様式だ。現存する遺跡の中でも最古の部類に入る。こんな場所に保存状態のいい石版が……」
「後でいくらでも調べられるから、先に進んで」
「分かっておる! ただ、これだけは記録させてくれ!」
老人が石版に顔を近づけた瞬間、ガルに腕を引かれた。
「後だ」
「む……」
一行は先へ進んだ。
通路が広間に繋がった。
足を踏み入れた瞬間、全員が立ち止まった。
広い。
天井が高く、岩盤が円形に広がっていた。
中央に、巨大な穴があった。
覗き込む必要もなかった。
穴の中から、赤い光が溢れている。
熱気が波のように押し寄せてくる。
マグマだ。
煮えたぎる溶岩が、目の下で渦を巻いていた。
「……これが」
キリークは言葉を失った。
広間の壁に、無数の刻印が刻まれていた。
古い文字、古い紋様。
火柱のような形、炎を象った模様。
その全てが、中央の火口へ向かって収束するように配置されていた。
「神殿の中枢だ」
アーシャが震える声で言った。
「ここが……火の神ランヴァリーシャの座所だ」
その言葉が終わった瞬間、火口から炎の柱が上がった。
一行が後退する。
熱波が顔を叩いた。
しかし炎の柱は一行を無視するように、ただ天井へ向かって伸びていく。
広間の刻印が、赤く発光し始めた。
これは、神だ。
キリークはそう感じた。
意思があるのか、ないのか分からない。
人間を見ているのか、いないのか分からない。
ただそこにある、圧倒的な何か。
「……どうすれば」
「分からん」
アーシャが即答した。
「石版には、ここまでの記録しかない。この先は……誰も記録していない」
火口から、また炎が上がった。
今度は方向が違った。
横へ、薙ぐように。
全員が飛び退いた。
「……これは、試されてるの?」
「違う」
ガルが短く言った。
「ただ、あそこにあるだけだ。俺たちがいようといまいと関係ない」
その通りだった。
火の神は、人間に興味がない。
試しているわけでも、拒んでいるわけでもない。
火山が噴火するように、嵐が吹き荒れるように、ただそこにある。
それだけだ。
キリークは直刀を握った。
どうすれば……。
守護石は腰にある。
あとは、こちらが動くしかなかった。
「それを、こちらへ渡していただきましょうか」
冷たい声がした。
全員が振り返った。
広間の入り口に、人影が立っていた。
帝国の服ではない。
黒と金の、見覚えのある装束。
しかし、牢獄島のあの魔術師とは違う。
体格が大きく、立ち姿に隙がない。
腰に剣を帯び、指に幾つもの指輪をはめていた。
男は微笑んでいた。
冷たい笑みだった。
「君たちのおかげで手間が省けました。さあ、その火の守護石をこちらへ」
火口から、また炎が上がった。
神は関係ない。
ただそこにある。
しかし今、キリークたちは前に神の熱波、背後に敵という状況に立っていた。
「……また、あの連中か」
ガルが低く言った。
男の笑みが、深くなった。
「選んでいただきましょう。神に焼かれるかか、私に殺されるか、をね」
轟、と。
背後の火口から灼熱の炎が噴き上がった。
キリークは直刀の柄を握り直した。
逃げ場はなかった。




