-金色の戦士- 第38話 泰平
※過去話の年代表記を見直し、サンシャーラ歴を一部修正しております。
物語内容への影響はありません。
『サンシャーラ神話物語』
−金色の戦士− 泰平
帝国歴31年。サンシャーラ歴 前515年
港町ヴェネスは、どこまでも高く澄み渡るような青空に恵まれていた。
潮の匂いと、香辛料の香り。
威勢のいい商人たちの声と、重い荷車が石畳を叩く車輪の音。
桟橋には大小の交易船が帆を休め、市場はかつてないほどの活気に満ち溢れている。
理不尽な運命に抗い、世界の理そのものを叩き斬ったあの神話のような戦いから、七年の月日が流れていた。
世界は終わらなかった。
まるで何事もなかったかのように、今日という日を回り続けている。
その活気づく港町の一角、陽光が降り注ぐ広い敷地に、『ファンネリア商会』が運営する真新しい孤児院兼託児所があった。
働く両親たちのために建設された子供を預かる施設と、身寄りのない孤児たちを引き取り、腹いっぱい食べさせ、文字を学ばせるための場所。
風に揺れる色とりどりの洗濯物の下、中庭には今日も子供たちの高く澄んだ笑い声が響き渡っている。
その中庭の入り口に、ひとりの若い女が足を踏み入れた。
「あ、ファンネリアお姉ちゃんだ!」
気づいた子供たちが、弾かれたように一斉に駆け寄ってくる。
ファンネリア。
かつてただ帰りを待つだけだった健気な娘は、今や広大な帝国領にその名を知られる、立派な商会長へと成長していた。
仕立ての良い上質なドレスに身を包みながらも、意志の強い若草色の瞳と、その気さくで朗らかな笑顔はあの頃のままだ。
「こらこら、走らないの。転ぶわよ」
ファンネリアはしゃがみ込み、群がってくる子供たちの頭を順番に優しく撫でながら、中庭を見渡した。
「みんな、今日もいい子にしてた? お勉強はちゃんとやった? ……先生は?」
「先生、奥で棚を直してる!」
「呼んでくるー!」
子供のひとりが、建物の奥に向かって元気いっぱいに叫んだ。
「せんせーい! ファンネリアお姉ちゃん来たよー!」
奥の木扉がギイと重い音を立てて開き、のっそりと、見上げるほどの巨漢が出てきた。
顔に無数の古い傷跡が残る、大柄な男。
ガルだった。
「……うるせえぞ、ガキども。鼓膜が破れるかと思っただろうが。一人ずつ喋れ」
ひどく不機嫌そうな、凄みのある低い声。
だが、その見上げるような巨体には、すでに二人の子供がよじ登っていた。
ガルは心底面倒くさそうに舌打ちをしながらも、決して乱暴に振り払いはしなかった。
それどころか、滑り落ちそうになった片方の子を不器用な手つきでひょいと持ち上げ、自身の広い肩に乗せてやる。
あの絶望的な雪山の崩落の後。
ファンネリアが派遣した山岳救助隊は、奇跡のように谷底で瀕死のガルを発見した。
どうやって生き延びたのか。
どうやってあの高さから落ちて助かったのか。
本人は今も、一切語ろうとしない。
ただ、ガルは帰ってきた。
それだけで十分だった。
長い療養を終えた後、彼は二度と傭兵には戻らなかった。
代わりに、なぜか孤児院兼託児所に居着いた。
理由を尋ねても、
「成り行きだ」
としか答えない。
子供たちに振り回される傷だらけの元傭兵は、今日も相変わらず不機嫌そうだった。
「ご苦労様、ガル先生」
ファンネリアが、目を細めて悪戯っぽく言った。
「……その呼び方はやめろと言ってるだろ、商会長」
ガルは深いため息をつき、ぼりぼりと首の後ろを掻いた。
肩に乗った子供が、彼の顔の恐ろしい傷跡を小さな手でぺたぺたと触って遊んでいる。
かつて戦場を渡り歩き、死の匂いを纏っていた傭兵の顔は、もうどこにもなかった。
呆れるほど不器用で、ぶっきらぼうで、それでいて、ひどく穏やかな顔つきになっていた。
ただ、黒かった髪には白いものが混じり始めていた。
「似合ってるわよ。意外と子供の扱い、上手じゃない」
「世辞はいい」
ガルは肩の子供をそっと地面に下ろした。
「そら、おやつの時間だ。食堂に行く前に、井戸で手を洗ってこい。泥だらけの手でパンを触るなよ」
「はーい!」
子供たちが、歓声を上げてわっと水場へ散っていった。
中庭の隅にある日陰のベンチに、二人は並んで腰を下ろした。
ガルが懐から擦り木を取り出し、煙草に火をつける。
紫煙が、心地よい海風に溶けて流れていく。
「どうだ、商会の方は」
「相変わらず忙しいわよ。おかげさまでね」
ファンネリアは、少しだけ疲れたように足を伸ばした。
「東西南北、あちこち手を広げすぎたかしらね。でも、これくらい忙しい方がちょうどいいの」
しばらく、二人は黙って、遠くから聞こえる子供たちの賑やかな声を聞いていた。
「そういえば、アーシャさんは?」
「ああ」
ガルが煙を吐いた。
「今も遺跡を掘ってるらしい」
「らしい、じゃないでしょう」
ファンネリアが呆れたように小さく肩をすくめる。
「会ってねえからな」
「あの人、この前半年ぶりに商会へ顔を出したと思ったら、『とんでもない発見をした!』って騒いでたわ」
ファンネリアが苦笑する。
「元気そうで何よりだ」
ガルは目を細め、水平線の彼方を見つめた。
「考えてみれば、不思議な縁よね」
「何がだ」
「だって、あの人が命懸けで山を下りてこなかったら……」
ファンネリアはそこで言葉を切る。
海風が、沈黙した二人の間を静かに吹き抜けていった。
ガルも何も言わない。
「……そうだな」
短く、それだけ答える。
それきり会話が途切れる。
子供たちの笑い声だけが中庭に響いていた。
しばらくして、ファンネリアがぽつりと言った。
「そういえば最近、面白い噂を聞いたの」
「あ?」
「東の街道で山賊を追い払った剣士がいるんですって」
「よくある話だ」
「そうね」
ファンネリアは頷いた。
「しかも藤色の髪だったそうよ」
ガルの眉がわずかに動いた。
それだけだった。
「よくある話だな」
「ええ。どこにでもいるわ」
二人はしばらく黙った。
潮風だけが吹いていた。
商会の仕事をすべて終えたファンネリアは、ひとり、茜色に染まり始めた港町を歩いていた。
夕日に照らされる喧騒の中を。
明日の荷を担ぐ男たち、夕飯の魚を値切る女たち、路地裏を駆け回る泥だらけの子供たち。
神の奇跡にすがるのではなく、自らの足で立ち、泥臭く、必死に、そして確かに生きている人々の営みを眺めながら。
ふと、ファンネリアは心の中で、あの黄金の瞳の女神を思い出した。
――ラーナ。
あの日、何も説明せずに姿を消した人。
結局、最後まで何者だったのか。
どこへ行ったのか。
今も生きているのかさえ、分からない。
それでも。
あなたが信じようとしたものは、きっと間違っていなかったのだと思います。
港の男たちの怒鳴り声。
市場で笑う子供たち。
今日を懸命に生きる人々の姿。
神様が見ていなくても。
人間はちゃんと前を向いて歩いています。
だから、どうか安心してください。
ファンネリアは、夕風に髪を揺らしながら小さく笑った。
喧騒から少し離れた、海を見下ろす静かな高台に、港の霊園があった。
冷たい鉄格子の前で、ファンネリアの足が、止まる。
七年が経っていた。
商会の者や、キリークを知っている街の者たちは、とうの昔に、あの無茶ばかりする戦士は死んだと思っている。
世界を救って消え、二度と帰らなかった悲劇の英雄だと。
けれど、この霊園に、彼女の墓はない。
ファンネリアが、絶対に作らせなかったからだ。
彼女は、鉄格子の向こう、どこまでも続く広い海を見た。
そして、呆れたように、けれどひどく悪戯っぽく、微笑んだ。
「キリーク。あなたのお墓は、まだ作ってないわ」
悲壮感など、欠片もない声だった。
だって、あんな所で死ぬような人ではない。神の理屈だろうが世界の終わりだろうが、全部蹴っ飛ばして自分の我儘を押し通した人なのだ。
それに、あの日、出航の前に確かに言ったのだ。
「必ず帰る」と。
彼女は、約束を破るような、そんな不誠実な人では絶対にない。
それに――もし勝手にお墓なんか作ったら。
後でひょっこり帰ってきた時に、文句を言うに決まっているのだ。
『縁起でもない! 誰が死んだって?』と顔をしかめて。そして、『死にかけたんだから、商会でいちばん高いお肉を奢りなさいよね』と、さも当然のように要求してくるのだ。
泥だらけで、傷だらけで、それでも不敵に笑うその顔がはっきりと目に浮かんで、ファンネリアはまた、ふふっと笑った。
霊園に背を向けて、日常の喧騒へ帰ろうと歩き出した、その時だった。
ふと。
夕日を背に歩く人混みの中に、見覚えのある後ろ姿を、見た気がした。
特徴的な、藤色の髪の――姉弟。
腰に直刀を提げた女と、その隣に並んで歩く、すっかり背の伸びた青年。
ファンネリアの足が、ピタリと止まった。
息を、呑んだ。
夕日に照らされたその後ろ姿は、記憶の中の姿と、寸分違わず重なっていた。
「キリ……」
咄嗟に手を伸ばし、大声で呼び止めようとした。
けれど、その言葉が喉を出る前に。
二人の幻のような後ろ姿は、夕暮れの喧騒の波にふっと飲まれて、見えなくなってしまった。
ファンネリアは、下ろした手を握りしめ、追いかけなかった。
人混みをかき分けて、駆け寄って、本当に彼女だったのか確かめることも、しなかった。
ただ、心の底から嬉しそうに、柔らかく微笑んだ。
東へ続く街道の先を、ようやく取り戻した弟と並んで歩いているであろう、不器用で、誰よりも真っ直ぐな友の姿を思い描きながら。
姉弟の後ろ姿は、もう見えない。
ファンネリアは、暮れゆく空を見上げて微笑んだ。
絶対に約束を守る人間を。
明日を諦めない人間の強さを、彼女は誰よりもよく知っていたからだ。
『サンシャーラ神話物語 金色の戦士』― 完




