-金色の戦士- 第4章幕間 道標
『サンシャーラ神話物語』
道標
船が夜の波を切る音だけが続いていた。
牢獄島が完全に水平線の彼方へ見えなくなった頃、船尾に座っていたラーナが静かに口を開いた。
「一つ、話しておくことがある」
甲板には三人が車座のように座っていた。
ガルの右肩には、真新しい布が固く巻かれている。
牢獄島を脱出する際、追ってきた数十の兵士たちを一人で引き受けた代償だ。
しかし本人は痛む素振りすら見せず、新しい煙草を咥えたまま、何事もなかったように暗い海を眺めていた。
「なに?」
キリークがオールから手を離し、ラーナへ向き直る。
「私の名前は伝えた」
「うん。ラーナ」
「智慧の女神、ラーナだ」
「……」
「……」
波の音だけが、三人の間を数回通り過ぎた。
キリークはラーナの顔をじっと見た。
夜目にも透き通る青銀の髪。
そして、人間離れした黄金の瞳。
「……それって」
「お前たちが『智慧の女神』と呼んでいる者だ」
キリークは沈黙した。
冗談だ、と笑い飛ばすことはできなかった。
あの狂乱する魔術師を一瞬で「消去」した、理解不能な圧倒的な力。
あれがただの魔法や技術の類ではないことだけは、戦士の勘が確信として告げていた。
あれは間違いなく、人智を超えた存在の振る舞いだった。
ガルが静かに目を細め、煙越しにラーナの黄金の瞳を見据えた。
「金貨に刻まれている『剣の主』か」
ガルのその言葉に、キリークは流通金貨に刻印された象徴を思い出した。
神威を示す『智慧の剣』。
図案として見たことはある。
しかし、神々の素顔など、この時代の誰も知るはずがないのだ。
「……本当に?」
「嘘をついても意味がない」
「でも、神様って……」
「信じなくていい。今は」
ラーナは再び波を見た。
黄金の瞳が、月明かりに揺れる水面を静かに映している。
ガルが短くなった煙草を捨て、新しい一本に火をつけた。
「なぜ、牢獄島にいた?」
「……妹を逃がすためだ」
「妹……?」
「カザフィル。銀貨の象徴を知っているか?」
「大悲の泉」
「そうだ。大破神の復活を目論む者たちが、我々二人をまとめて捕らえようと動いた。私が自ら囮になり、カザフィルは逃げた」
「カザフィルは、今どこに?」
「分からない」
短い、だが嘘のない答えだった。
それ以上は踏み込めなかった。
「守護石のことを聞かせて」
キリークは話題を変えた。
アシュヴィンから手渡された、四つの守護石。
黄褐色の方形。
透き通る蒼の円。
深い紅色の三角。
翡翠色の半月。
ガルの腰の革袋から取り出されたそれらは、甲板の上で確かな質量と異彩を放っていた。だが、命の通っていない抜け殻のように、ただ冷たく沈黙している。
「ただ持っているだけでは意味がない」
ラーナは石を一瞥して言った。
「五大元素の神々の力を宿して、初めて機能する。その石は、ただの器に過ぎない」
「器に、神の力を入れる」
「そういうことだ」
キリークは思わず息を呑んだ。
「どうやって……?」
「それは……神々と向き合えば分かる」
キリークは怪訝に眉をひそめた。
「回りくどい」
「今の私には、それ以上は言えない。本来の力が戻っていないのだ」
ガルが静かに煙を吐いた。
「マイトレーヤは……」
キリークの問いに、ラーナの目がわずかに動いた。
「依代というものがある。神の力を宿すに足る、特異な魂を持つ者だ。滅多に生まれることはない」
「マイトレーヤが、そうだと言いたいの?」
「可能性がある、と言っている」
「同じことよ」
「違う」
キリークは強く唇を引き結んだ。
「……残りの守護石を見つけたら、マイトレーヤを助けられるの?」
「無関係ではない」
「もっとはっきり言って」
「今の私には、これが限界だ」
波の音が、再び三人を取り囲んだ。
キリークは甲板に並んだ石を見つめた。
マイトレーヤを探す旅と、守護石に神の力を宿す旅。
残る『空の守護石』も探さなければならない。
それぞれの道が交わるのかどうか、今はまだ分からない。
しかし、目の前の女神は『無関係ではない』と明言した。
「……分かった。信じる」
「納得したわけではないだろう?」
「してない。でも、あなたを助けたことは後悔してないわ」
それは紛れもない本心だった。
他人が理不尽な痛みに晒されているのを見て、体が勝手に動いてしまった。
その自分の選択が間違いだったとは、神を前にしても思えなかった。
ラーナはしばらく、探るようにキリークの瞳を見つめた。
それから、静かに頷いた。
港町ヴェネスが見えてきたのは、翌日の昼過ぎだった。
潮の香りが強くなる中、船が近づく桟橋に、見慣れた人影があった。
若草色の瞳が、甲板の三人を的確に捉える。
「……お帰りなさい」
ファンネリアだった。
いつものように、にこやかに笑っていた。
しかし次の瞬間、ガルの右肩に巻かれた血のにじむ包帯を見て、険しい表情へと変わった。
「ガル、その肩……」
「問題ない」
「問題大ありよ。今すぐ医者に……」
「後でいい」
「ダメよ」
ファンネリアはガルの返事など待たず、強引に桟橋の奥へ向かって手配の声を上げ始めた。
ガルは忌々しげに小さく舌打ちをしたが、逃げようとはしなかった。
キリークはその様子を見て、強張っていた肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。
手配を終えたファンネリアが戻ってきた。
キリークの後ろに立つラーナを見て、不思議そうに首を傾げる。
「その方は?」
「事情があって、しばらく匿いたい。いろいろ聞かないでほしいの」
「行き倒れていたの?」
「……そんな感じ」
ファンネリアはラーナを上から下まで、まじまじと観察した。
青銀の髪。
黄金の瞳。
どう見ても常人ではない浮世離れした風貌を、ファンネリアの商人としての目はわずか三秒で処理し終えた。
「分かったわ。奥の部屋を用意しましょう」
「助かる」
ラーナは表情を変えずに、小さく頷いた。
「ただし」
ファンネリアは、完璧な営業スマイルを浮かべた。
「うちの商会に、遊ばせておく余裕はないわ。動けるなら働いてもらうわよ」
ラーナが、神殿での対話を含めて初めて言葉に詰まった。
「……働く?」
「ええ。とりあえず、帳簿の整理と夕方の荷受けをお願いしますね。あ、あと接客も少々」
「私は……」
「できますか?」
「……できる、が」
「ありがとうございます。助かるわ」
ファンネリアは有無を言わせず、颯爽と商会の方へ歩き出した。
ラーナは呆然としたまま、キリークを見た。
キリークは目を逸らし、港の海鳥を見た。
ガルも無言で海を見た。
「……お前たち」
「頑張って」
「見て見ぬふりをするな」
「経験上言っておくが、雇い主には逆らわない方がいいぞ」
ガルが煙草を咥えながら、心底実感のこもった声で言った。
ラーナは何か抗議したそうな顔をしたが、結局諦めたように短くため息をつき、ファンネリアの背中を追って歩き出した。
その夜。
商会の一室で、キリークは温かいお茶を挟んでファンネリアと向かい合っていた。
ガルは医者に肩を縫合してもらい、別室で眠っている。
そしてラーナは——山積みの帳簿の前に座らされていた。
黄金の瞳で細かい数字の列を真剣な顔で眺めながら、ファンネリアに教わった通り、パチパチと不器用な手つきで算盤を弾いている。
神様が算盤を弾いている。
キリークは、見なかったことにした。
しかし、なぜかその光景が妙に好きだった。あのすべてを達観したような底知れない静けさが、算盤の珠の前で少しだけ困っている。それがひどく人間らしくて、胸が温かくなった。
「守護石のことを調べたいの」
キリークはファンネリアに向き直って言った。
「五大元素に関係する遺跡や、古い記録に詳しい人を探しているんだけど」
ファンネリアは少し考え込んだ。
「……一人、心当たりがあるわ」
「誰?」
「考古学者よ。この町に時々来る方で、古代文明の遺跡を専門に研究しているらしいわ」
ファンネリアは手元の記録帳を繰った。
「三日前も港に来てたわ。今は町の宿に滞在しているはずよ。アーシャ・コルヴァという方で……少し、変わっているらしいけど……」
「変わってるって?」
「遺跡に潜りすぎて、一般の感覚とずれているとか」
「それ、大丈夫って言えるの?」
「考古学者としては普通よ」
「普通じゃないと思う」
「安心して。危険な人ではないわ」
「そこは安心した」
会話の途中で、奥からラーナの声がした。
「ファンネリア。ここの数字が合わない」
「どこです?」
「ここだ」
「ああ、それは桁の繰り上がりが……ちょっと待っててね」
ファンネリアが立ち上がり、キリークに柔らかく微笑んだ。
「キリーク……無事で、本当によかったわ」
その何気ない一言が、思いがけずキリークの胸の奥深くに染み渡った。
自分には、帰る場所があったのだ。
ここが自分の日常なのだと、今更のように気づかされた。
「……ありがとう」
そう言うと、ファンネリアは嬉しそうに頷き、ラーナの元へ歩いていった。
キリークは窓の外を見た。
夜の港の灯りが、海面に優しく揺れている。牢獄島での血と冷たい風の記憶が、まだ体の奥底にこびりついている気がした。
マイトレーヤ。
どこにいる。
背後では、ファンネリアがラーナに算盤の弾き方を教える穏やかな話し声が聞こえていた。
翌朝。
キリークが階下へ降りると、ラーナが窓際に立ち、朝靄の港を静かに見下ろしていた。
「……おはよう」
「ああ」
「昨夜の帳簿、終わったの?」
「終わった」
「どうだった?」
ラーナは少しの間、沈黙した。
「……人間というのは、驚くほど細かいことまでよく記録するのだな」
「褒めてるの?」
「純粋に感心している」
キリークは小さく笑った。
階段がきしみ、ガルが下りてきた。
右肩には新しい包帯が巻かれている。
顔色は悪くない。
「考古学者に会いに行くぞ」
「もう動けるの?」
「肩が使えなくても足は動く」
奥からエプロン姿のファンネリアが顔を出した。
「『東風亭』という宿よ。朝のうちなら捕まえられると思うわ」
「ありがとう」
キリークは立ち上がり、無意識に左腰へ手をやった。
折れた直刀の柄を確認する。
刃がないことは分かっている。
それでも、手が勝手に存在を確認してしまう。
習慣というより、喪失を確かめる癖になっていた。
ファンネリアの鋭い視線が、その腰へ向いた。
「その剣も、何とかしなさいよ」
「分かってるわよ」
「分かってる顔じゃないわね」
キリークが返事に詰まる。
ファンネリアは呆れたようにため息を吐いた。
「紹介状を書いておくわ。父の商会と付き合いのある、腕のいい武器商人がいるの」
「ありがとう。助かる」
「考古学者に会う前に寄っていきなさい。いいわね?」
「ただ町で遺跡のことを調べるだけだし、後回しでも……」
「忘れたらどうするの? 丸腰で遺跡に行くつもり?」
正論すぎて、キリークは黙り込んだ。
「ほらね。素直に言うことを聞きなさい」
ファンネリアの的確すぎる指摘に、キリークは肩をすくめて顔を俯かせた。
「今回はファンネリアが正しいな」
壁に背を預けたまま、ガルが低い声で完全に同調した。
「あら、ガルが私に賛同するなんて珍しいわね」
ファンネリアが少しだけ意外そうに目を細める。
「剣のないお前は、ただの足手まといだ」
「言い方」
キリークはむっと唇を尖らせた。
「事実だ」
キリークはガルを半眼で睨みつけ、それから奥へと顔を向けた。
「ラーナ」
「なに」
「私たち出かけるから、留守番頼める?」
ラーナはキリークを見た。それから、エプロン姿のファンネリアを見た。
「……今日は、荷運びを命じられている」
「そういうことよ。よろしくね、ラーナさん」
「神に荷運びをさせるとは、この人間の娘は……」
「頑張ってね」
ラーナのぼやきを背に受けながら、キリークとガルは商会の扉へ向かった。
背後でファンネリアの明るい声が響く。
「ラーナさん、準備ができたら外の桟橋へお願いしますね! もうすぐ船が来ますので」
「……分かった」
港町の朝が、活気と共に動き始めていた。
新しい刃と、次なる手掛かりへ向けて。
二人は朝日の中へ歩き出した。




