表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
4章 神話の女神(牢獄島編)
PR
20/45

-金色の戦士- 第16話 神威

『サンシャーラ神話物語』

神威


最初に動いたのは、ガルだった。

「話は後だ。警報が鳴る前に動く」

廊下の奥から、足音が聞こえ始めていた。

遠い。

しかしだんだんと近づいてくる。

アシュヴィンが去った後も、この島の兵は残っている。

キリークは折れた直刀の柄を腰に戻した。

使い物にならない。

しかし捨てる気にはなれなかった。


「……立てる?」

キリークは手を差し伸べた。

青銀髪の女性は、その手を見た。

動きが止まる。

ほんの一瞬。

それは迷いではなかった。

まるで、遥か昔の何かを見ているような目だった。

黄金の瞳が、キリークの顔を静かに見上げる。

長かった。

一瞬にも、永遠にも思える沈黙。


やがて女性は目を伏せた。

何事もなかったかのように、その手を取る。

冷たかった。

しかし確かな力があった。

「……どうしたの?」

キリークが首を傾げる。

女性は答えなかった。

ただ、小さく首を振る。

「いや」

それだけだった。

立ち上がると、女性は自分の足でしっかりと床を踏んだ。

壁に手をついたのは最初だけで、すぐに離した。

「行けそうね」

女性は答えなかった。

ただ、前を向いた。

ガルがすでに廊下の偵察を終えて戻ってきた。

「東の通路が空いてる。行くぞ」

「ええ」

三人は動き出した。


上へ向かうほど、音が増えた。

遠くで鐘が鳴っている。

警報だ。

兵士たちが動き回る足音が、石の壁を伝って響いてくる。

ガルは迷わなかった。

来た道を戻らず、横の通路へ折れる。

階段を上り、扉を押し開け、建物の裏手へ出た。


夜気が顔を叩いた。

星が見えた。

「外に出た……!」

「喜ぶのは船に乗ってからだ」

ガルが先を急ぐ。

キリークは女性の様子を確認しながら後に続いた。

女性の足取りは安定していた。

しかし顔色が優れない。

拘束が長かったのだろう、体力が戻りきっていないのが分かった。

「無理してない?」

「問題ない」

初めて言葉を聞いた。

低く、静かな声だった。

感情の起伏が少ないが、冷たくはない。

落ち着いている、という表現が一番近かった。

「名前を聞いてもいい?」

「ラーナ」

それだけ答えた。

キリークはその名前を繰り返した。

「ラーナ……」

神話に登場する『智慧の女神』と同じ名前だ。

親が熱心な信徒なのか、あるいは偽名か。

探るような視線を向けても、女性は何も言わない。


黄金の瞳が静かにこちらを見ている。

不思議と、彼女の底知れない静けさに似合っている気もした。

「……どうしてこの島に」

この牢獄島に、彼女のような存在はあまりにも不釣り合いだった。

「後で話す」

拒絶ではなく、ただ事実を告げる声。

「……うん」

不思議と、それ以上は聞けなかった。

キリークはただ素直に頷いていた。


中庭へ出た瞬間だった。

「いたぞ!」

夜気を裂くような怒号が響く。

建物の影から、次々と兵士たちが飛び出してきた。

五人……いや、奥の通路にもまだいる。

「ちっ」

ガルが舌打ちをした。

キリークは反射的に腰へ手を伸ばす。

だが、掴んだのは折れた直刀の柄だけだった。

アシュヴィンの一撃。

あの絶望的な光景が脳裏に蘇る。

「キリーク!」

ガルの鋭い声で我に返った。兵士が目前まで迫っている。

キリークは地面を蹴った。

先頭の兵士の懐へ潜り込む。

剣を持つ腕を払い上げ、そのまま体当たりで吹き飛ばした。

石畳に転がった長剣を拾う。

重い。

手に馴染まない。

それでも、無いよりはましだった。

金属音が夜に響く。

二人目。

三人目。

奥の通路からはさらに兵士が現れる。


「きりがないな」

ガルが短く呟き、大剣を構え直した。

「先に行け」

キリークは振り返る。

「何言ってるの!?」

「聞こえなかったのか?」

ガルはほんの少しだけ、笑った。

「先に行け」

その言葉が妙に気に入らなかった。

胸の奥がざわつく。

キリークは唇をきつく噛み締め、彼を鋭く睨みつけた。

「……死んだら、許さないから」

怒りを叩きつけたはずの声は、ひどく震えていた。

傭兵が仕事で死ぬことなどわかっている。

頭では理解していても、喉の奥が固く強張って受け付けない。

「誰に言っている」

ガルは兵士たちへ向き直る。

キリークは反射的にガルの腰へ視線を向けた。

革袋が揺れている。

ガルは何も言わなかった。

「行け」

その一言だけだった。

キリークは唇を噛んだ。

だが、迷わない。ラーナの腕を掴む。

「走るわよ」

「ああ」

二人は暗い通路へ飛び込んだ。


背後で怒号が上がる。

激しい剣戟が響く。

ガルが一人で戦っている音だった。

(……頼む)

一歩ごとに、剣戟の音が遠くなる。

走るしかない。

それでも、耳だけはずっと後ろを向いていた。

キリークはひたすらに走った。


しばらくして。

背後の喧騒が遠ざかった頃だった。

ふと、視線を感じた。

隣を走るラーナがこちらを見ている。

黄金の瞳。

静かな視線。

何かを確かめるような目だった。

「……なに?」

ラーナは答えなかった。

ただ静かにキリークを見ていた。

その顔を見ていると、なぜかキリークの胸の奥がざわついた。

だが次の瞬間。

「前」

ラーナが言った。

キリークが顔を上げる。通路の出口が見えていた。

二人はそこを抜け、外の冷たい空気の中へ飛び出した。

キリークはすぐに振り返る。

暗い通路の奥を見つめる。

誰も来ない。

足音すら聞こえない。

「……ガル」

胸の奥が冷たくなる。

いくら彼でも、あの数の兵士相手では。

キリークは折れた直刀の柄をきつく握り締めた。

「戻るわ」

再び暗闇へ足を踏み出そうとした。

その時だった。

ザッ、と通路の奥で石畳を擦る音がした。

ゆっくりとした、重い足音が近づいてくる。

そして。


「待たせたな」

闇の中から現れたのはガルだった。

服は裂け、肩口から血が流れている。

右腕は僅かに下がり、歩くたびに眉が動いた。

それでも本人は何事もないような顔をしている。

「ガル!」

キリークは、止めていた息を大きく吐き出した。

安堵で崩れ落ちそうになる膝を必死に堪え、思い切り彼を睨みつける。

「遅い!」

そう怒鳴った瞬間だった。

ガルの肩から滴った血が石畳に落ちる。

キリークの表情が曇った。

「……その肩」

「問題ない」

即答だった。

「数が多かっただけだ」

そう言い返した、直後だった。

通路の奥から、狂気を孕んだ聞き覚えのある声が響いた。


「ラーナ様を……返せ!」

三人は振り返った。

そこに立っていたのは――気絶していたはずの、あの魔術師だった。

目が覚めている。

しかし様子が違った。

先ほどの冷静さがない。

目が血走り、息が荒い。

「ラーナ様を……ラーナ様を返せ!」

「しぶといやつだ」

ガルが舌打ちした。

「ラーナ様は依代になられるべき方なのだ。大破神の器として、この世に真の秩序を……」

「黙れ」

ガルが前へ出る。

その瞬間、右肩が僅かに揺れた。

痛みを堪えるような動きだった。

それでも大剣を構える。

「ラーナ様!!」

魔術師の指が動く。

札が空気を切って飛んだ。

キリークはラーナを庇うように前へ動こうと――。

「いい」


ラーナの声がした。

静かだった。

キリークは思わず振り返った。

ラーナが一歩前へ出る。

空気が重くなった。

違う。

重いのではない。

世界そのものが、彼女を中心に静まり返っていた。


魔術師が動きを止めた。

「ラ、ラーナ様……」

「お前の信じるものは知っている」

ラーナは魔術師を見た。

「しかし、それは間違っている」

「間違ってなど……大破神復活こそが!」

「お前には、見えていない」

ラーナが右手を上げた。

指先に、何かが灯った。

光とも言えない、熱とも言えない何か。

言葉に当てはめることができない何かが、一点に集まった。

次の瞬間——魔術師がいた場所に、何もなくなっていた。

音もなかった。

煙もなかった。

魔法で焼かれた痕跡すらなく、ただ『存在そのもの』が空間から削り取られていた。

ただ、いなくなっていた。

いなくなった、という言葉しか浮かばなかった。

恐ろしい、とは少し違う。

ただ、自分の知っている世界の法則が、音もなく書き換えられたような感覚だった。


隣に立つラーナを見た。

さっきと変わらない横顔。

それがかえって、その深さを際立たせていた。

キリークは息を呑んだ。

ラーナはゆっくりと手を下ろした。

いつも冷静なガルでさえ、理解不能な光景に険しい顔を強張らせていた。

「……今のは何だ」

「ラーナだ」

「そういう意味じゃない」

その後、かすかによろめいた。

キリークは反射的に支えた。

「少し、無理をした」

ラーナは静かに答えた。

息が少し乱れている。

キリークは支える手に力を込めた。

「行こう」

それだけ言って、キリークは前を向いた。

ガルは短く息を吐いた。

「……行くぞ」


岩壁を下りた。

小舟に三人で乗り込む。

ガルがオールへ手を伸ばす。

「貸して」

キリークが先に掴んだ。

ガルが眉をひそめる。

「漕げる」

「肩を見てから言って」


島が遠ざかっていく。

警報の鐘がまだ鳴っていた。

しかし追ってくる船影はない。

アシュヴィンが去った後、指揮系統が乱れているのかもしれなかった。


キリークは遠ざかる島から目を逸らし、手元に残る折れた直刀の柄へと視線を落とした。

そして、島での出来事をすべて暗い海へ沈めるように、キリークはただ黙々とオールを漕ぎ続けた。


「キリーク」

ラーナが呼んだ。

「なに」

「お前は、マイトレーヤという名前の子供を探している」

「……知ってるの?」

「少し」

ラーナは波を見た。

黄金の瞳が、月明かりを映している。

「依代は、生まれつき決まるものではない」

ラーナはそう言った。

「だが」

そこで言葉が止まる。

「……どうしたの?」

「いや」

ラーナは僅かに目を伏せた。

「稀に例外がある」

「マイトレーヤが、そうだというの」

「可能性がある」

キリークは唇を引き結んだ。

「助けられる?」

「分からない」

正直な答えだった。

「ただ」

ラーナはキリークを見た。

「守護石は、無関係ではない」

その視線が、ガルの腰に括られた革袋へ移る。

「弟とも、だ」

それだけ言って、ラーナは再び海を見た。

それ以上は言わなかった。

キリークも聞かなかった。

今は、それで十分だった。


岩陰に停泊していた船が見えてきた。

バルドが甲板に立ち、こちらを見ていた。

三人の姿を確認して、短く手を上げた。

小舟が船腹に当たった。

ガルが縄梯子を掴む。

甲板の上からバルドが眉をひそめた。

「手酷くやられたな」

「生きて帰れたなら問題ない」

「その肩でか?」

「動く」

バルドは呆れたように肩を竦めた。

そしてガルの後ろに立つラーナへ視線を向ける。

「なるほどな」

「何が?」

キリークが眉をひそめる。

バルドは真顔で頷いた。

「こんなべっぴんさんなら、命懸けで助けに行く馬鹿も出るか」

沈黙。

ラーナは首を傾げた。

「べっぴん?」

「美人って意味だ」

「そうか」

興味なさそうだった。

キリークは呆れたように息を吐く。

「そんな理由な訳ないでしょ」

「男なんて大体そんなもんだ」

「一緒にしないでくれ」

ガルが即座に否定した。

「で、どうする?」

バルドはニヤリと、人の悪い笑みを浮かべた。

「約束通り、託児所の先生になるか?」

「うるさい」

キリークは思わず笑った。

小さく、短く。

しかし確かに笑った。

ラーナがキリークを見た。

「……何がおかしい」

「なんでもない」

キリークは縄梯子に手をかけた。

島がまた遠ざかっていく。

黒い岩壁が、夜の海に溶けていく。

あの島に弟はいなかった。

しかし、得たものはある。

ガルの腰に揺れる守護石。

隣に立つ青銀髪の女性。

そして——次に向かうべき場所の輪郭が、少しずつ見え始めていた。


(アシュヴィン……私からすべてを奪ったあなたが、なぜ今さら守護石を託したの。

一体何を成し遂げようとしているの?)

ガルの腰で、革袋の中の石が小さく触れ合う音がした。

「ラーナ」

船へ上がりながら、思わず声が出ていた。

口を突きかけた言葉を飲み込み、キリークは確かな直感とともにその背中を見つめた。

「なに」

「話の続き、後でちゃんと聞かせて」

ラーナは少しの間、キリークを見た。

「……ああ」

静かに答えた。


キリークは視線を戻し、夜明けが近い東の水平線を、射抜くような強い瞳で睨み据えた。

(待ってて、マイトレーヤ。必ず私が見つけ出すから)


船が波を切り始めた。

牢獄島が、夜の彼方へ消えていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ