-金色の戦士- 第13話 絶海
『サンシャーラ神話物語』
絶海
港を出て2日。
東へ向かう船の甲板に立つと、陸地はもうどこにも見えなかった。
水平線が、ぐるりと世界を囲んでいる。
こんなに広い世界があるのに、マイトレーヤはその片隅の、見えもしない島に閉じ込められている。
そう思うと、胸の奥が締め付けられた。
キリークは船縁に両手をかけ、水平線を見つめた。
波の音。
風の音。
帆が膨らむ音。
それだけが世界にあった。
「……遠いわね」
「当たり前だ。絶海と呼ばれてるくらいだからな」
ガルが隣に来た。
煙草を咥え、同じように水平線を眺める。
この船は表向き、東方諸島への交易船だ。
乗客も貨物も本物だ。
ただし船頭の一人――顔に古い刀傷のある大柄な男だけは、ガルと顔見知りらしかった。
その男、バルドが甲板へ上がってきた。
「よう、ガル。久しぶりだな」
「ああ」
「相変わらず煙草臭い」
「お前も相変わらず口が悪い」
二人は笑いもせずにそう言い合う。
それが挨拶の代わりらしかった。
バルドはキリークをちらりと見てから、ガルへ向き直った。
「牢獄島まで送り届けるのはいいが……本当に行くのか?」
「仕事だ」
「知ってるだろう?」
バルドは腕を組んだ。
「あそこに入って生きて帰れた奴はいない。俺が知る限り一人も」
「そうだな」
「そうだなって、お前な……」
バルドは呆れたように息を吐き出し、深く肩を落とした。
「まあ止めても無駄か。お前はいつもそういう奴だった」
ガルは答えなかった。
煙草の煙を吐き出し、見えもしないはるか東の水平線を睨む。
その先にあるのは、切り立った断崖と波に削られた黒い岩壁。
生きて帰れた者はいないという牢獄。
ガルは煙草の灰を海へ落とした。
「生きて帰れたら、傭兵はやめて託児所の先生にでもなるか」
キリークは思わずガルを見た。
「意外と似合うんじゃない?」
「うるさい」
「でも本当に。子供の扱いは上手そう」
「どこをどう見てそう思う」
「口が悪いわりに、面倒見がいいじゃない」
ガルは煙草を指で挟み、キリークをじろりと見た。
「……誰の世話で慣れたと思ってる」
バルドが吹き出した。
「なんだ、そういう関係か」
「違う」
「違います」
二人同時に言って、微妙な間があった。
バルドはひとしきり笑ってから、真顔に戻った。
「冗談はさておき、気をつけろよ。あの島は普通じゃない。帝国の兵だけじゃなく、もっと別の何かがある」
「別の何か」
「近づいた船乗りが言うんだ。島から、何か重いものを感じる」
ガルは答えなかった。
煙草の煙が、海風に流れていく。
キリークは水平線の向こうを見つめた。
まだ見えない。
しかし、その先にある。
マイトレーヤが連れて行かれた島が。
「……必ず帰る」
呟きは、波の音に消えた。
島が見えてきたのは、三日目の夕暮れだった。
最初は水平線の黒い点だった。
それがだんだんと大きくなり、やがて島の輪郭が浮かび上がってくる。
キリークは息を呑んだ。
島全体が、黒い岩でできていた。
こんな場所に、マイトレーヤがいるかも知れないと思うと、無意識に奥歯を噛み締めた。
切り立った断崖が海から垂直に立ち上がり、頂上に要塞のような建造物が見える。
波が岩壁に叩きつけられ、白い飛沫を上げていた。
「……あそこに、マイトレーヤが」
「それはまだ分からない」
ガルの声は静かだった。
「魔物が見たのは、藤色の髪の子供が馬車に乗っていたことだけだ。この島に連れてこられたとは限らない」
「分かってる」
「分かってるなら、冷静にいろ」
キリークは唇を引き結んだ。
「……分かってる」
頭では分かっている。
それでも、手がかりはここしかなかった。
バルドが舵を切り、島から少し離れた岩陰へ船を寄せた。
「ここまでだ。ここから先は自分たちでやってくれ」
「ああ」
「帰りはどうする?」
「七日待て。来なければ、好きにしろ」
バルドは短く頷いた。
それ以上は聞かなかった。
小舟が下ろされた。
ガルが先に乗り、キリークが続く。
オールを手に取り、岩壁へ向かって漕ぎ出す。
夕闇が、海を暗く染め始めていた。
島が、近づいてくる。
その瞬間……何かを感じた。
重い。
空気が、重い。
肌に纏わりつくような、じっとりとした圧迫感。
ファルサに魔力を巡らせようとした。
腰の触媒石がかすかに震える。
しかし反応は鈍かった。
まるで泥の中で力を振るうような感覚だった。
「ガル、これ……」
「俺に聞くな」
ガルは眉をひそめた。
「だが、嫌な感じだな」
「ファルサが使えない?」
キリークは手の中のファルサを見た。
温かみが、薄れている。
いつもなら赤金色に光る触媒が、今はただの冷たい石のように沈黙していた。
ガルはそれを一瞥して、吸いかけの煙草を海へ弾き捨てた。
いつもなら灰になるまで吸いきる彼にしては、珍しい行動だった。
「お前は剣だけで行くしかなさそうだな」
キリークは触媒を握り直した。
「元々そっちの方が得意よ」
そう言いながら、触媒を握る手は離さなかった。
「やれるか?」
キリークは直刀の柄を握る。
「やってみる」
「半端な覚悟は死ぬぞ」
「……やる」
岩壁に小舟が当たった。
キリークは岩に手をかけ、よじ登り始めた。
上から波が降ってくる。
岩が滑る。
手が冷たい。
それでも、登る。
怖い、とキリークは思った。
でもその怖さは、立ち止まる理由にはならなかった。
マイトレーヤが待っているかもしれない。
それだけで、手は動いた。
夜の帳が下り、島の黒い影がキリークを飲み込んでいった。




