-金色の戦士- 第12話 共闘
『サンシャーラ神話物語』
共闘
影が、降ってきた。
満月を背に、漆黒の翼が夜気を叩く。
地面が揺れた。
石畳に、鋭いかぎ爪の音が響いた。
巨大な魔獣が祭壇の前に立っていた。
馬ほどもある黒い体躯。
コウモリを思わせる皮膜の翼が、ゆっくりと折り畳まれる。
その背後に、小型の魔犬が二匹。
低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
深紅の双眸が、白いローブ姿のキリークを見下ろした。
「——今宵の贄は、随分と落ち着いているな」
人語だった。
流暢で、どこか楽しげな響きがある。
キリークは答えなかった。
魔獣の鼻がひくりと動いた。
贄から漂うはずの、甘い恐怖の匂いがない。
いぶかしげに喉を鳴らした、その瞬間。
キリークはローブを脱ぎ捨てた。
白い布が夜風に舞う。
その下から現れたのは、夜闇に沈む革鎧と、抜き放たれた直刀の刃。
「生憎だけど、大人しく喰われるつもりはないわ」
「——ほう」
魔獣――グラッジ・ハウンドは目を細めた。
「威勢のいい生贄だ」
愉快そうに、口元が歪む。
「喋る魔獣は初めてだけど」
キリークは直刀を抜いた。
月明かりが刃に反射する。
「倒し方は同じよ」
最初に動いたのは、下級魔犬だった。
二匹が左右から同時に飛びかかる。
速い。
だが——キリークはすでに踏み込んでいた。
右から来た一匹の顎下をすり抜け、一閃。
悲鳴が上がる前に、刃は次の一匹へ向いていた。
踏み込み、払い、返す。
二匹が地に伏した。
時間にして、数秒だった。
グラッジ・ハウンドは動かなかった。
ただ見ていた。
喉の奥で、くくっと笑った。
「さっさと終わらせる」
キリークは魔獣へ向かった。
しかし——。
最初の爪が来た瞬間、キリークは直感した。
違う。
受け流した腕に、痺れるような衝撃が走った。
単純な膂力ではない。
爪の一閃に、何か別の力が乗っている。
密度が違う。重さが違う。
(この感じ——)
脳裏に、港町の光景が蘇った。
帝国将校。
あの男の剣を受けた時の、同じ感覚。
「どうした、女。もう終わりか?」
グラッジ・ハウンドが小さく笑った。
キリークは距離を取りながら、魔獣の体を観察した。
首元に、何か光るものがある。
深紅の、小さな輝き。
(プーラ……? 魔物が持っている?)
考える間もなく、次の爪が来た。
避ける。
しかし翼が展開し、空気の壁が生まれる。
体勢が崩れた。
魔獣の前足が、キリークの肩を掠めた。
革鎧に深い傷が入り、体が吹き飛ぶ。
祭壇の石に背中を打ちつけた。
息が詰まる。
キリークはとっさに火のファルサを放った。
「ファルサ使いか。それもなかなか——」
赤金色の炎の奔流が、直線に走る。
グラッジ・ハウンドは翼で防いだ。
翼膜が焦げる。
しかし致命傷には程遠い。
「惜しいな」
防いだ翼を広げ、魔獣は再び距離を詰めてくる。
キリークは立ち上がった。
肩が痛い。
呼吸が乱れている。
(強い……)
港町で敵わなかった相手を思い出す。
あの時は一人だった。
今も一人だ。
荒い呼吸を無理やり押さえ込み、ただ眼前の敵を見据えた。
魔獣がピタリと動きを止めた。
黒い鼻先を上げ、キリークの匂いを深く吸い込む。
「……お前から漂う匂い。どこかで嗅いだと思えば……くくっ、なるほどな」
嫌な予感がした。
「あのガキと同じだ」
「——っ」
グラッジ・ハウンドが牙を見せた。
「藤色の髪の小僧だ。喰ってやろうと思ったが、周りの番犬どもがうるさくてな」
「その子は——」
「随分と顔色が変わったな、女」
グラッジ・ハウンドが笑った。
獲物の痛みを楽しむ、底意地の悪い笑みだった。
「教えてやろう。あの馬車は東の海へ向かった。行き先は——『絶海の牢獄島』だ。ここで俺の腹に収まるか、あんな地獄へ送られるか。あのガキにとって、どちらが幸せだったろうな」
牢獄島。
マイトレーヤ。
頭の中で、何かが弾けた。
「——マイトレーヤ!」
叫んだ瞬間、視界が狭くなった。
グラッジ・ハウンドの前足が、横から薙いでくる。
避けられなかった。
衝撃が脇腹を襲い、キリークは宙を舞った。地面に叩きつけられ、直刀が手から離れる。
体が重い。
立ち上がれない。
魔獣の影が、頭上に迫った。
「終わりだ」
爪が振り上げられた——その瞬間。
空気を切る音がした。
何かが、魔獣の前腕を弾いた。
爪の軌道が逸れる。
石畳に深々と刻まれた傷が、キリークの頬を掠めた。
「死ぬなと言ったはずだ」
いつからそこにいたのか。
暗闇の向こうから、煙草の煙が漂ってきた。
ガルは煙草を咥えたまま、祭壇の縁石に腰を下ろした。
手にしていたナイフを、くるりと回して腰に収める。
グラッジ・ハウンドの深紅の目が、新たな侵入者を捉えた。
「……増えたか」
「悪いな」
ガルは立ち上がりもしなかった。
「あの石……」
「ん?」
「あれをどうにかしないと……」
「……」
ガルは魔獣の首元を見た。
「根拠は」
「勘じゃない」
一瞬だけ、キリークは迷った。
「説明は後」
ガルは短く鼻を鳴らした。
視線を魔獣に戻し、紫煙を夜風へ溶かした。
「話は終わったか? その男は犬にでも喰わせて、女の方は俺がじっくり味わってやろう」
グラッジ・ハウンドは目を細め、愉悦に満ちた視線で二人を見下ろした。
ガルは短くなった煙草を石畳に落とし、靴の裏で踏みにじった。
「……合わせろよ」
キリークは直刀を拾い、立ち上がった。
肩が痛い。
脇腹が痛い。
それでも足は動く。
グラッジ・ハウンドが二人を交互に見た。
「二人がかりでも結果は変わらんぞ」
「よく喋るやつだ」
ガルが動いた。
正面からではなかった。
大きく迂回し、魔獣の側面へ回り込む。
グラッジ・ハウンドの注意がガルへ向く。
翼が展開し、爪が横薙ぎに払われた。
ガルは避けながら、さらに距離を取る。
魔獣の背が、こちらへ向いた。
キリークは踏み込んだ。
全力で。
ファルサの炎を刀身に纏わせ、直刀を魔獣の首元へ叩き込む。
プーラに刃が当たった瞬間、弾かれる感触——しかしガルのナイフが横から割り込み、石を叩き落とした。
プーラが石畳を転がった。
魔獣の動きが、わずかに鈍った。
「今だ」
ガルの声。
キリークはすでに動いていた。
体の芯から力を絞る。
港町で届かなかった一撃。
あの時と同じ踏み込み。
あの時と同じ軌道。
しかし今度は——届いた。
直刀が、グラッジ・ハウンドの胸を貫いた。
魔獣が、低く呻いた。
膝をついた巨体。
キリークはさらに二度、刃を振るった。
手が止まらなかった。
断末魔の声が、夜の森に響いた。
漆黒の体が、ゆっくりと崩れ落ち、灰となった。
夏の夜風が吹き、黒い灰を森の奥へと散らしていく。
(マイトレーヤ……)
魔獣の言葉が、頭の中で繰り返し響く。
プーラだけが、石畳の上で深紅の光を弱く瞬かせていた。
キリークはしゃがみ込み、それを拾い上げた。
小さく、軽い石。
しかし手の中に収めると、確かな熱があった。
港町の将校。
この魔獣。
同じ力。
「それが例の石か」
ガルが隣に立った。
「……そう」
「厄介な代物だな」
キリークは答えなかった。
プーラを手の中で転がし、それだけ見つめていた。
ガルはそれ以上言わなかった。
二人は森を出た。
夜明けが近かった。
空の端が、ほんのわずかに白み始めている。
村への道を歩きながら、キリークはガルへ言った。
「マイトレーヤの手掛かりを聞いた」
「聞こえてた」
「東の海。牢獄島」
「ああ」
「知ってるの?」
「噂程度は」
ガルは煙草に火をつけた。
「帝国が重犯罪者や政治犯をぶち込む島だ。一度入ったら出てこれない、と言われてる」
「それでも行く」
「分かってる」
それだけだった。
村人たちは、信じられないものを見る顔をした。
それから、泣いた。
年老いた村長が膝をついた。
エルザが両手で口を覆った。
誰かが歓声を上げ、それが広がった。
キリークは居心地が悪かった。
報酬として差し出された金と保存食を、ガルは最低限だけ受け取った。
それ以上は断った。
「村の立て直しに使え」
それだけ言って、背を向けた。
村の外れに、三つの墓があった。
簡素な石の墓標が、朝の光の中に立っている。
名前が、一つずつ刻まれていた。
キリークは墓の前に立ち、手の中のプーラを見た。
それから、静かに墓前へ置いた。
「置いていくのか?」
ガルの声がした。
「この子たちのものよ」
ガルは短く息を吐いた。
やがて懐から小さな酒瓶を取り出し、栓を抜いた。
3つの墓石に順番に、少しずつ酒をかける。
何も言わない。
ただそれだけをして、瓶の栓を戻した。
風が吹いて、草が揺れた。
二人は墓に背を向け、歩き出した。
クッカが待っていた。
宿場の前で、長い首を伸ばして二人を出迎える。
「行くわよ」
キリークはその首筋を軽く叩いた。
クッカが低く喉を鳴らした。
荷を括りつけ、背に跨る。
ガルも自分のクッカへ乗った。
朝日が、東の地平線から昇り始めていた。
「次は牢獄島」
「地獄みたいな場所だ」
「それでも行く」
ガルは煙草の煙を吐き出した。
「知ってる」
クッカの力強い足音が、朝の街道に響いた。
ベルク村が、後ろへ遠ざかっていく。
二人は東へ、朝日の中へ、歩み出した。




