表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
3章 理不尽(生贄の村編)
12/26

-金色の戦士- 第9話 薄暮

『サンシャーラ神話物語』

薄暮


街道に陽炎が揺れていた。

「暑い……」

クッカの背でキリークは空を見上げた。


港町ヴェネスを発って、どれくらいになるだろう。

帝国の支配する広大な大陸の東へ東へと向かううちに、季節はすっかり夏の盛りになっていた。

首元に汗が伝う。

軽鉄甲冑の下でじりじりと肌が焼けるような暑さだった。

クッカも堪えているのか、普段は威勢よく前を向くその長い首が、今日はしおらしく下がり気味だ。

キリークは手綱を握りながら、その太い首筋をぽんと叩いた。

「もう少しだから。頑張って」

クッカは低く喉を鳴らして答えた。


「クッカを励ますのは結構だが、これを頭に入れておけ 」

前を行くガルが、咥え煙草のまま振り返ることもなく言った。

彼のクッカの背には、広げかけた羊皮紙の地図が乗せられている。

先ほど木陰で小休止した際に広げたまま、丸め直すのも面倒だったのか、そのまま出発してしまったらしい。

いかにもガルらしいと思いながら、キリークはクッカを寄せた。

「いいか」

ガルが煙草を指に挟み、地図の一点を叩く。

「俺たちが出た港町ヴェネスがここだ」

指が動く。

「南西の彼方にあるこのデカい印が、レムリア帝都だ。大陸の真ん中どころか、半分以上を飲み込んでる。見ろ、この黒く塗られた範囲を」

キリークは地図を覗き込み、息を呑んだ。

帝国の版図を示す黒い領域が、地図のほとんどを覆い尽くしていた。

かつて独立国として名を連ねていたはずの国々が、今は「属州」という小さな文字で記されているだけだ。

アヴァニアの名前は、ぎりぎり残されている。

今のところは、まだ。


「で、目的地の旧カーメリア領の辺境がここだ」

ガルの指が、ヴェネスから遥か東の地点を示した。

距離は知っていた。

覚悟もしていた。

それでも、地図の上で実際に突きつけられると、話が違う。

ヴェネスを出て何週間も走り続けてきたというのに、地図の上ではまだ半分も進んでいないように見えた。

「……遠すぎない?」

「遅ぇよ」

ガルが呆れたように羊皮紙に落ちた灰を弾き飛ばす横で、キリークはへなへなと肩を落とし、ぽつりと零す。

「……こんなに、遠いのね」

「ああ。こんな茹だるような暑さの中を、わざわざ帝国の勢力圏の東の果てまで向かうんだ」

ガルは煙草の煙を細く吐き出した。

「割に合わねえ仕事だぜ、まったく」

「報酬の話をした覚えはないけど」

「だからよ」

ぼやきながらも、ガルはきちんと前を向いてクッカを歩かせている。

文句を言いながら足を止めないのが、この傭兵の流儀らしかった。


キリークは再び地図へ目を落とした。

マイトレーヤ。

弟の笑顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥が鋭く痛む。

あの黒装束の人物。

頭の中に直接響いた声。

そして、氷のように凍えていた弟の小さな手。

必ず、取り戻す。

「……行くわよ」

「俺はずっと行ってるが」

ガルが煙たそうに煙草を吹かした。


村が見えてきたのは、陽が西に傾き始めた頃だった。

「ベルク村……ね」

街道の先に、石造りの家々が肩を寄せ合うようにして建ち並んでいる。

かつてのカーメリア王国の時代には、農産物の集荷地として賑わっていたと聞く。

今は帝国の属州となり、帝国の旗が風に揺れていた。

クッカを進めながら、キリークはふと気づいた。


静かすぎる。

夕暮れ前のこの時間帯であれば、子供たちが表で遊んでいるはずだ。

市場は商人の声で賑わい、宿場の前では人が談笑しているものだろう。

しかし——。

子供の姿が、どこにもない。

大人たちはいる。

だが、二人の旅人に気づいた彼らは、視線を合わせようとしない。

石壁の陰へ身を引く者もいた。

余所者への警戒というより、何か別の——もっと深い、疲れ果てたような怯えだった。

ガルが煙草を指で挟んだまま、低く呟いた。

「様子がおかしいな」

「ええ」

敵意はない。

だが歓迎もない。

村全体が、何か重いものを抱え込んだまま息を潜めているように見えた。


宿場にクッカを預けた。

水桶を見つけた途端、クッカは長い首を突っ込み、勢いよく水を飲み始める。

「お前も相当堪えてたのね」

キリークが首筋を撫でると、クッカは満足そうに喉を鳴らした。

「お前よりよっぽど素直だな」

ガルが煙草を咥えたまま言った。

「どういう意味?」

「水が欲しけりゃ水を飲む。疲れたら休む。少なくとも無茶して倒れたりはしねぇ」

痛いところを突かれたキリークはむっと唇を尖らせたが、言い返せずに視線を逸らした。

ガルはそんな彼女を鼻で笑うと、さっさと背を向けて宿の重い扉を押し開けた。

キリークは満足そうに水を飲むクッカをもう一度だけ撫でてから、その後を追う。


部屋に荷を下ろすと、キリークは桶の水で顔と手を洗った。

火照った肌に冷たい水が心地よい。

隣ではガルが新しい煙草を咥えている。

「まずは聞き込みだな」

「ええ」

手拭いで顔を拭きながら、キリークは頷いた。

「ファンネリアの話じゃ、この辺りで帝国の移送部隊が目撃されてる」

「少しでも手掛かりが欲しい」

「なら村長だ。こういう小さい村じゃ一番話が早い」

二人は村長を訪ねた。


村の中心にある、他より少し大きな石造りの家。

扉を開けた老人を見て、キリークは思わず絶句しかけた。

白髪の村長は、年齢以上に老いて見えた。

目の下に深い影があり、肌には張りがない。疲弊というより、消耗という言葉が近かった。

かつてはこの地域を支えた人物だったのだろうと分かる面影が、今は遠い昔の話のようだった。


「……余所の方ですか」

村長の問いに、ガルが目線で促すと、キリークが一歩前へ出た。

「少し、お聞きしたいことがあるんです」

村長は静かに頷いた。

「弟を探しているんです。半月ほど前、この辺りを帝国の移送部隊が通りませんでしたか」

キリークは身を乗り出し、真っ直ぐな瞳で村長を見つめた。

老人は答える前に、疲れ切った顔で目を伏せた。

彼の反応に、キリークは膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。

革の手袋が微かに軋む音が、重苦しい部屋に落ちた。

「藤色の髪をした子が、一緒だったという話を追っています。どうしても……見つけ出さないといけないんです」

祈るような、それでいてすがるような切実な声だった。

しかし長い沈黙の後、村長は深く刻まれた皺をさらに歪め、力なく首を振った。


「……申し訳ありません」

老人の声はひどく掠れていた。

「今のこの村の者たちには、ここを通る軍を気に留めるような余裕は、誰にも……」

すり減ったような謝罪の言葉が、キリークの胸に重くのしかかった。

短い沈黙が落ちる。

やがてガルが煙草を指で回しながら口を開いた。

「村へ入った時から妙だとは思ってたが……」

老人が顔を上げる。

「子供の姿が見えねえ。大人は皆、死んだ魚みたいな顔をしてる。宿場の主人まで余所者と目を合わせようとしなかった」

ガルは村長を真っ直ぐ見据えた。

「何があった」

村長の肩が僅かに震えた。

そして観念したように深く息を吐く。

「——正直に申し上げます。この村は今、魔物の脅威に晒されています」

語られた話は、こういうことだった。


数ヶ月前から、村の北の森に凶暴な魔獣が棲み着いた。

最初は家畜が被害を受けた。

次いで、村の外れで作業していた者が行方不明になった。

帝国の管理局へ助けを求めたが、辺境の属州など問題にもされなかった。

そして——魔獣が村へ直接要求を突きつけてきた。

月に一度、若い娘を差し出せ。

さもなくば、村を焼く、と。


「既に、3人が……」

村長の声が震えた。

「3人の娘が、あの森へ連れて行かれました。そして今夜の満月の晩……次の子が、決まっています」

キリークの胸が、冷たくなった。

「次の子?」

「その話なら、私のことです」

扉が、静かに開いた。

キリークが振り向くと、そこに少女が立っていた。

亜麻色の髪を一つに束ね、質素な麻の服を着た、線の細い少女。

整った顔立ちに、ほんの少しだけ、笑みを作ろうとしている。

「お客さんが来てるって聞いたから」

少女は村長の隣に立った。

その手が、かすかに揺れていた。

「エルザ、下がっていなさい。大人の話を——」

「いいんです、おじいちゃん」

エルザは首を振った。

声は不思議なくらい落ち着いていた。

いや——落ち着いているように見せようと、必死に努めているのだと、キリークには分かった。

「どうせ今夜のことでしょう。隠しても仕方ないし……私が選ばれたのは、村で一番年が近かったからです。それだけのことで」

「エルザ……」

村長が顔を歪めた。

「私が行けば、次の満月まで村は安全でいられます。それに——」

エルザの手が、ぐっと握られた。

「みんなが助かるなら、それでいい、って思ってます」

笑みを保ったまま、少女はそう言った。

キリークはただ、その震える小さな手を見つめていた。

気丈だ。

怖いはずなのに、泣き言一つ口にしない。

ただ、歯を食いしばって笑っている。

胸の奥で、何かがゆっくりと燃え上がり始めるのを感じた。

「——今夜が、満月なのね」

キリークは静かに言った。

エルザが、こくりと頷く。

「日が暮れたら、迎えが来ます」

その横で、村長が苦しそうに目を伏せた。

「森の祭壇へ……」

それ以上、村長は言葉を続けられなかった。

窓の外、夕陽が赤く大地を染めている。

満月の夜まで、あとわずかだった。


宿場の部屋へ戻る道すがら、キリークは一言も話さなかった。

ガルは隣を歩きながら、煙草に火をつけ、ゆるやかに煙を吐いた。

石畳を踏む二人の足音だけが、静まり返った村に響いていた。

エルザの震える手が、頭から離れない。

「私が行けば、みんなが助かるから」

そう言って笑った少女の顔が、頭から離れない。

キリークは無意識のうちに強く拳を握りしめた。

今夜、エルザが生贄になる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ