-金色の戦士- 第9話 薄暮
『サンシャーラ神話物語』
薄暮
街道に陽炎が揺れていた。
「暑い……」
クッカの背でキリークは空を見上げた。
港町ヴェネスを発って、どれくらいになるだろう。
帝国の支配する広大な大陸の東へ東へと向かううちに、季節はすっかり夏の盛りになっていた。
首元に汗が伝う。
軽鉄甲冑の下でじりじりと肌が焼けるような暑さだった。
クッカも堪えているのか、普段は威勢よく前を向くその長い首が、今日はしおらしく下がり気味だ。
キリークは手綱を握りながら、その太い首筋をぽんと叩いた。
「もう少しだから。頑張って」
クッカは低く喉を鳴らして答えた。
「クッカを励ますのは結構だが、これを頭に入れておけ 」
前を行くガルが、咥え煙草のまま振り返ることもなく言った。
彼のクッカの背には、広げかけた羊皮紙の地図が乗せられている。
先ほど木陰で小休止した際に広げたまま、丸め直すのも面倒だったのか、そのまま出発してしまったらしい。
いかにもガルらしいと思いながら、キリークはクッカを寄せた。
「いいか」
ガルが煙草を指に挟み、地図の一点を叩く。
「俺たちが出た港町ヴェネスがここだ」
指が動く。
「南西の彼方にあるこのデカい印が、レムリア帝都だ。大陸の真ん中どころか、半分以上を飲み込んでる。見ろ、この黒く塗られた範囲を」
キリークは地図を覗き込み、息を呑んだ。
帝国の版図を示す黒い領域が、地図のほとんどを覆い尽くしていた。
かつて独立国として名を連ねていたはずの国々が、今は「属州」という小さな文字で記されているだけだ。
アヴァニアの名前は、ぎりぎり残されている。
今のところは、まだ。
「で、目的地の旧カーメリア領の辺境がここだ」
ガルの指が、ヴェネスから遥か東の地点を示した。
距離は知っていた。
覚悟もしていた。
それでも、地図の上で実際に突きつけられると、話が違う。
ヴェネスを出て何週間も走り続けてきたというのに、地図の上ではまだ半分も進んでいないように見えた。
「……遠すぎない?」
「遅ぇよ」
ガルが呆れたように羊皮紙に落ちた灰を弾き飛ばす横で、キリークはへなへなと肩を落とし、ぽつりと零す。
「……こんなに、遠いのね」
「ああ。こんな茹だるような暑さの中を、わざわざ帝国の勢力圏の東の果てまで向かうんだ」
ガルは煙草の煙を細く吐き出した。
「割に合わねえ仕事だぜ、まったく」
「報酬の話をした覚えはないけど」
「だからよ」
ぼやきながらも、ガルはきちんと前を向いてクッカを歩かせている。
文句を言いながら足を止めないのが、この傭兵の流儀らしかった。
キリークは再び地図へ目を落とした。
マイトレーヤ。
弟の笑顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥が鋭く痛む。
あの黒装束の人物。
頭の中に直接響いた声。
そして、氷のように凍えていた弟の小さな手。
必ず、取り戻す。
「……行くわよ」
「俺はずっと行ってるが」
ガルが煙たそうに煙草を吹かした。
村が見えてきたのは、陽が西に傾き始めた頃だった。
「ベルク村……ね」
街道の先に、石造りの家々が肩を寄せ合うようにして建ち並んでいる。
かつてのカーメリア王国の時代には、農産物の集荷地として賑わっていたと聞く。
今は帝国の属州となり、帝国の旗が風に揺れていた。
クッカを進めながら、キリークはふと気づいた。
静かすぎる。
夕暮れ前のこの時間帯であれば、子供たちが表で遊んでいるはずだ。
市場は商人の声で賑わい、宿場の前では人が談笑しているものだろう。
しかし——。
子供の姿が、どこにもない。
大人たちはいる。
だが、二人の旅人に気づいた彼らは、視線を合わせようとしない。
石壁の陰へ身を引く者もいた。
余所者への警戒というより、何か別の——もっと深い、疲れ果てたような怯えだった。
ガルが煙草を指で挟んだまま、低く呟いた。
「様子がおかしいな」
「ええ」
敵意はない。
だが歓迎もない。
村全体が、何か重いものを抱え込んだまま息を潜めているように見えた。
宿場にクッカを預けた。
水桶を見つけた途端、クッカは長い首を突っ込み、勢いよく水を飲み始める。
「お前も相当堪えてたのね」
キリークが首筋を撫でると、クッカは満足そうに喉を鳴らした。
「お前よりよっぽど素直だな」
ガルが煙草を咥えたまま言った。
「どういう意味?」
「水が欲しけりゃ水を飲む。疲れたら休む。少なくとも無茶して倒れたりはしねぇ」
痛いところを突かれたキリークはむっと唇を尖らせたが、言い返せずに視線を逸らした。
ガルはそんな彼女を鼻で笑うと、さっさと背を向けて宿の重い扉を押し開けた。
キリークは満足そうに水を飲むクッカをもう一度だけ撫でてから、その後を追う。
部屋に荷を下ろすと、キリークは桶の水で顔と手を洗った。
火照った肌に冷たい水が心地よい。
隣ではガルが新しい煙草を咥えている。
「まずは聞き込みだな」
「ええ」
手拭いで顔を拭きながら、キリークは頷いた。
「ファンネリアの話じゃ、この辺りで帝国の移送部隊が目撃されてる」
「少しでも手掛かりが欲しい」
「なら村長だ。こういう小さい村じゃ一番話が早い」
二人は村長を訪ねた。
村の中心にある、他より少し大きな石造りの家。
扉を開けた老人を見て、キリークは思わず絶句しかけた。
白髪の村長は、年齢以上に老いて見えた。
目の下に深い影があり、肌には張りがない。疲弊というより、消耗という言葉が近かった。
かつてはこの地域を支えた人物だったのだろうと分かる面影が、今は遠い昔の話のようだった。
「……余所の方ですか」
村長の問いに、ガルが目線で促すと、キリークが一歩前へ出た。
「少し、お聞きしたいことがあるんです」
村長は静かに頷いた。
「弟を探しているんです。半月ほど前、この辺りを帝国の移送部隊が通りませんでしたか」
キリークは身を乗り出し、真っ直ぐな瞳で村長を見つめた。
老人は答える前に、疲れ切った顔で目を伏せた。
彼の反応に、キリークは膝の上でぎゅっと拳を握りしめる。
革の手袋が微かに軋む音が、重苦しい部屋に落ちた。
「藤色の髪をした子が、一緒だったという話を追っています。どうしても……見つけ出さないといけないんです」
祈るような、それでいてすがるような切実な声だった。
しかし長い沈黙の後、村長は深く刻まれた皺をさらに歪め、力なく首を振った。
「……申し訳ありません」
老人の声はひどく掠れていた。
「今のこの村の者たちには、ここを通る軍を気に留めるような余裕は、誰にも……」
すり減ったような謝罪の言葉が、キリークの胸に重くのしかかった。
短い沈黙が落ちる。
やがてガルが煙草を指で回しながら口を開いた。
「村へ入った時から妙だとは思ってたが……」
老人が顔を上げる。
「子供の姿が見えねえ。大人は皆、死んだ魚みたいな顔をしてる。宿場の主人まで余所者と目を合わせようとしなかった」
ガルは村長を真っ直ぐ見据えた。
「何があった」
村長の肩が僅かに震えた。
そして観念したように深く息を吐く。
「——正直に申し上げます。この村は今、魔物の脅威に晒されています」
語られた話は、こういうことだった。
数ヶ月前から、村の北の森に凶暴な魔獣が棲み着いた。
最初は家畜が被害を受けた。
次いで、村の外れで作業していた者が行方不明になった。
帝国の管理局へ助けを求めたが、辺境の属州など問題にもされなかった。
そして——魔獣が村へ直接要求を突きつけてきた。
月に一度、若い娘を差し出せ。
さもなくば、村を焼く、と。
「既に、3人が……」
村長の声が震えた。
「3人の娘が、あの森へ連れて行かれました。そして今夜の満月の晩……次の子が、決まっています」
キリークの胸が、冷たくなった。
「次の子?」
「その話なら、私のことです」
扉が、静かに開いた。
キリークが振り向くと、そこに少女が立っていた。
亜麻色の髪を一つに束ね、質素な麻の服を着た、線の細い少女。
整った顔立ちに、ほんの少しだけ、笑みを作ろうとしている。
「お客さんが来てるって聞いたから」
少女は村長の隣に立った。
その手が、かすかに揺れていた。
「エルザ、下がっていなさい。大人の話を——」
「いいんです、おじいちゃん」
エルザは首を振った。
声は不思議なくらい落ち着いていた。
いや——落ち着いているように見せようと、必死に努めているのだと、キリークには分かった。
「どうせ今夜のことでしょう。隠しても仕方ないし……私が選ばれたのは、村で一番年が近かったからです。それだけのことで」
「エルザ……」
村長が顔を歪めた。
「私が行けば、次の満月まで村は安全でいられます。それに——」
エルザの手が、ぐっと握られた。
「みんなが助かるなら、それでいい、って思ってます」
笑みを保ったまま、少女はそう言った。
キリークはただ、その震える小さな手を見つめていた。
気丈だ。
怖いはずなのに、泣き言一つ口にしない。
ただ、歯を食いしばって笑っている。
胸の奥で、何かがゆっくりと燃え上がり始めるのを感じた。
「——今夜が、満月なのね」
キリークは静かに言った。
エルザが、こくりと頷く。
「日が暮れたら、迎えが来ます」
その横で、村長が苦しそうに目を伏せた。
「森の祭壇へ……」
それ以上、村長は言葉を続けられなかった。
窓の外、夕陽が赤く大地を染めている。
満月の夜まで、あとわずかだった。
宿場の部屋へ戻る道すがら、キリークは一言も話さなかった。
ガルは隣を歩きながら、煙草に火をつけ、ゆるやかに煙を吐いた。
石畳を踏む二人の足音だけが、静まり返った村に響いていた。
エルザの震える手が、頭から離れない。
「私が行けば、みんなが助かるから」
そう言って笑った少女の顔が、頭から離れない。
キリークは無意識のうちに強く拳を握りしめた。
今夜、エルザが生贄になる。




