-金色の戦士- 第8話 盟約
『サンシャーラ神話物語』
盟約
最初の一週間、キリークはほとんど眠れなかった。
眠るたびに夢を見た。
帝国の軍靴が石畳を踏む音。
引き離される瞬間、マイトレーヤが叫んだ声。
目が覚めるたびに右腕が熱を持って脈打ち、自分がまだ船の底にいるのか、商会の寝室にいるのか、一瞬わからなくなった。
窓から差し込む光が昼のものだと気づいて、ようやく息を吐く。
それを、何度繰り返しただろう。
包帯を替えるのはファンネリアの仕事になっていた。
商会の使用人に任せようとしたが、キリークが激しく拒んだからだ。
見知らぬ人間に肌を晒すくらいなら、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
ファンネリアは何も言わず、黙って水盆と新しい布を持ってきた。
古い包帯を外すたびに、右腕の患部が空気に触れてじわりと痛んだ。
「……痛い?」
「平気だ」
即答すると、ファンネリアは小さく眉を寄せた。
「そういうことを聞いてるんじゃなくて」
返す言葉が見つからなかった。
ファンネリアの指は、医者のように手際よかった。
聞けば、幼い頃から港の怪我人に薬を届ける手伝いをしていたという。
商家の娘らしくない、とキリークは思った。だが、何も言わなかった。
三週間が経った頃、キリークはベッドを抜け出した。
まだ右腕はまともに使えない。
それでも、廊下に出て、中庭に降りた。
石畳の上に立つだけで膝が笑ったが、構わなかった。
壁に手をついて、左腕だけで素振りを始める。
「何をしているの」
背後でファンネリアの声がした。振り返らなかった。
「身体を慣らしている」
「まだ三週間よ」
「一ヶ月も経てば帝国の部隊はどこへ移動するかわからない。足跡が消える」
「……」
「時間がないんだ」
ファンネリアは黙っていた。
やがて、静かな声で言った。
「今夜、父から話を聞いてほしいことがあるの」
押しつけではなく、お願いの声だった。
それがかえって、キリークの足を止めさせた。
ファンネリアの父は、穏やかな目をした初老の男だった。
港町の風雨で焼けた顔に、長年の商いが刻まれている。
彼が広げた地図には、帝国の勢力圏が几帳面な線で引かれていた。
「帝国軍の部隊移動には、必ず物資の流れがある。私の商会はその流通の一端を担っている。つまり――」
「つまり、部隊の動きが読めるということか」
キリークが前のめりになった。
老人は頷く。
「ただし、情報が集まるには時間がかかる。焦って動けば、向こうも感づく」
キリークは地図を見つめ、黙り込んだ。
マイトレーヤ。
今、どこにいる。
地図の上を視線でなぞるたびに、帝国の広さだけが実感される。
*
ガルが商会に居着いたのは、純粋に食事が美味しかったからだ。
奴隷船事件の後処理が済んだ翌日、ファンネリアの父からの使いが来た。
専属護衛の打診。
報酬の数字を聞いて、ガルは煙草に火をつけながら答えた。
「前払いなら」
それだけだった。
中庭では、毎朝キリークが左腕の素振りをしていた。
最初は壁に寄りかかりながら、やがて一人で立てるようになり、一月もすると日が昇る前から始めるようになった。
無茶な動きをするたびに右腕をかばい、それでも止めない。
ガルは食堂の窓から、スープを啜りながらそれを眺めていた。
ある朝、キリークが壁に仕掛けた木の杭に向かって突きを繰り出したとき、足が石畳の凹みに取られて体勢を崩した。
反射的に右腕をついて、短い悲鳴を飲み込む。
ガルは立ち上がり、中庭へ出た。
「足元を見ろ」
「……わかってる」
「わかってたら今の転び方はしない」
キリークは右腕を押さえたまま、睨み返した。
「お前に関係ない」
「俺が雇われてる商会の客が中庭で死んだら面倒だ」
ガルはそれだけ言って、食堂へ戻った。
夕方、キリークが同じ場所でまた素振りをしていた。
今度は石畳の凹みを避けながら。
ガルは気づかないふりで通り過ぎた。
港の酒場で、ガルが顔見知りの船乗りと話しているところにキリークが来た。
珍しいこともあるものだと思っていたら、キリークはいつの間にか隣の男たちと言い争っていた。
「帝国の犬か」「難民のガキが偉そうに」そんな声が聞こえた。
キリークは直刀を抜きかけていた。
ガルは酒を置き、キリークの首根っこを掴んで外に引きずり出した。
「放せ!」
「うるせぇ、死に急ぎ」
通りへ出てから、ガルはキリークを壁に押しつけた。
「売られた喧嘩をいちいち買ってたら身が持たない。なんのためにお前が生き延びてると思ってる」
「……」
「俺はガキの面倒を見るために雇われたわけじゃねぇ」
キリークは唇を噛んだ。
反論しなかった。
それが悔しくて、もっと悔しかった。
*
三ヶ月が経つ頃、ファンネリアは父の執務室でよく帳簿を広げるようになっていた。
商会の情報網を動かすにはそれなりの資金の動かし方がある。
それを一から学んでいた。
キリークがその扉の前を通りかかると、中から父と娘の声が聞こえた。
「この取引先への融通は止めるべきです。先月、帝国の斡旋業者と接触したという話が入ってます」
「しかし先代からの付き合いが――」
「感情で商いをするなら、最初からするべきではありません」
父が押し黙った気配がした。
キリークは廊下を通り過ぎながら、ファンネリアのことを少し、見直した。
夜、暖炉の前でファンネリアが地図を広げていた。
キリークが向かいに座ると、彼女は顔を上げた。
「帝国圏の外から流れてくる人って、どれくらいいると思う?」
「さあ」
「父の商会だけで、去年一年で三百人以上の戸籍登録を仲介したの。そのほとんどが、帝国に飲み込まれた土地の出身者」
キリークは黙っていた。
「市民権があれば、最低限の保護が受けられる。でも、手続きには金がかかる。金がなければ動けない。動けなければ、バルガスみたいな人間に拾われる」
「……それで、お前の父親は?」
「仲介の手数料を、払える人間だけからもらってる」
炎が爆ぜた。
キリークは地図に視線を落とし、何も言わなかった。
言葉の代わりに、胸の中で何かが静かに動いた気がした。
*
四ヶ月目の朝、ファンネリアが執務室にキリークを呼んだ。
広げられた紙には、商会の取引先から集めた情報が書き込まれていた。
「帝国第七移送部隊。北の街道を経由して、東の要塞へ移動中という話が入ってきたわ。
同行している民間人の中に、藤色の髪の少年がいたと」
キリークの呼吸が止まった。
「……いつの情報だ」
「十日前」
「十日」
立ち上がる前に、もうキリークの頭は動いていた。
街道の距離、部隊の移動速度、東の要塞までの日数。
「キリーク」
ファンネリアの声が、静かに引き止めた。
「一人で行かないで」
「お前には関係――」
「関係ある」
真っすぐな声だった。
ファンネリアは立ち上がり、キリークではなくドアの方を向いて言った。
「ガル。入ってきていいわ」
扉が開いた。
煙草の煙が漂う。
ガルが無精ひげのまま腕を組んで立っていた。
「聞いてたのか」
「廊下は薄い」
ガルは短く答えて、ファンネリアに目を向けた。
「で、俺に何をしろと」
「護衛の依頼よ。対象はキリーク。行き先は帝国第七移送部隊の東進ルート」
「断る」
「報酬は前払い、相場の二倍。加えて、商会の通行証と、東の街道沿い三つの中継地での宿と食事の手配を保証する」
ガルが眉を上げた。
「……商会の通行証ってのは、検問を無視できる類のやつか」
「ええ」
「どこで覚えた、そういう交渉を」
ファンネリアは答えなかった。
ただ、視線を外さなかった。
ガルはしばらく沈黙した。
それから深く息を吐いて、ファンネリアを――はじめて、ただの「守るべき依頼主の娘」ではない目で見た。
「……前払いは今日中に」
「午後には用意できる」
「ならいい」
ガルは踵を返した。
「荷物をまとめておけ」
キリークへ、振り返らずに言う。
「明朝出る」
夕方、キリークはファンネリアを廊下で呼び止めた。
「なぜ、そこまでする」
ファンネリアは少し考えてから、穏やかに答えた。
「あなたが助けてくれなかったら、私はあの船を降りられなかった。それだけよ」
「それだけで、あの条件を出すのか」
「ええ」
キリークは言葉に詰まった。
「……礼は、マイトレーヤを取り戻してから言う」
「待ってるわ」
ファンネリアは微笑んだ。感傷ではなく、約束の顔だった。
*
馬車は夜明け前に商会の門を出た。
幌の中でキリークは膝を抱えて地図を広げ、ガルは御者台で煙草に火をつけていた。
しばらく街道を行くと、馬車が揺れてキリークの地図が膝から落ちた。
「揺らすな」
「街道がそうなってる。文句は帝国に言え」
しばらく沈黙した。
「……マイトレーヤの、目撃情報は確かなのか?」
「さあな。確かめに行くんだろう?」
「そうだけど」
「行ってみなきゃわからないことを行く前に悩むな。時間の無駄だ」
キリークは地図を拾い直し、また広げた。
最初の港町で、キリークは一人で情報を集めようとした。
路地の奥に消えるのを、ガルは馬を繋ぎながら見ていた。
3分後、怒鳴り声が聞こえた。
ガルが路地に入ると、キリークが三人の男に囲まれていた。
直刀を抜いている。
右腕に力を込めようとして、顔が歪んでいた。
「放せ!」
「うるせぇ」
ガルは手刀一本で先頭の男を壁に叩きつけ、残りを一瞥した。
男たちは目を合わせてから、逃げた。
「情報屋はああいう路地の奥にはいない。大通りの酒場にいる」
「……知ってる」
「知ってたら最初からそっちへ行け」
キリークは口を噤んだ。
雨の夜、安宿の軒下で焚火を囲んでいた。
キリークは黙って炎を見ていた。
乾いた木が爆ぜるたびに、目の奥が熱くなった。
こらえるための沈黙だった。
ガルは煙草を一本吸い終えてから、短く言った。
「まだ生きてる」
キリークが顔を上げた。
「お前が諦めない限り、まだ間に合う可能性がある。それ以上でも以下でもない」
励ましではなかった。
ただの、確認だった。
だからこそ、キリークは頷けた。
何度目かの夜明けに、キリークはガルの横顔を盗み見た。
危険な男だと思う。
善意で動いているわけでもない。
いざとなれば切り捨てる男だとも思う。
それでも、今のところ隣にいる。
それで十分だと、キリークは地図に視線を戻しながら思った。
まだ旅は始まったばかりだった。




