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サンシャーラ神話物語 -金色の戦士-  作者: 宝田旗子
2章 出会い(港町・奴隷船編)
11/21

-金色の戦士- 第8話 盟約

『サンシャーラ神話物語』

盟約


最初の一週間、キリークはほとんど眠れなかった。

眠るたびに夢を見た。

帝国の軍靴が石畳を踏む音。

引き離される瞬間、マイトレーヤが叫んだ声。

目が覚めるたびに右腕が熱を持って脈打ち、自分がまだ船の底にいるのか、商会の寝室にいるのか、一瞬わからなくなった。

窓から差し込む光が昼のものだと気づいて、ようやく息を吐く。

それを、何度繰り返しただろう。


包帯を替えるのはファンネリアの仕事になっていた。

商会の使用人に任せようとしたが、キリークが激しく拒んだからだ。

見知らぬ人間に肌を晒すくらいなら、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

ファンネリアは何も言わず、黙って水盆と新しい布を持ってきた。

古い包帯を外すたびに、右腕の患部が空気に触れてじわりと痛んだ。

「……痛い?」

「平気だ」

即答すると、ファンネリアは小さく眉を寄せた。

「そういうことを聞いてるんじゃなくて」

返す言葉が見つからなかった。

ファンネリアの指は、医者のように手際よかった。

聞けば、幼い頃から港の怪我人に薬を届ける手伝いをしていたという。

商家の娘らしくない、とキリークは思った。だが、何も言わなかった。


三週間が経った頃、キリークはベッドを抜け出した。

まだ右腕はまともに使えない。

それでも、廊下に出て、中庭に降りた。

石畳の上に立つだけで膝が笑ったが、構わなかった。

壁に手をついて、左腕だけで素振りを始める。

「何をしているの」

背後でファンネリアの声がした。振り返らなかった。

「身体を慣らしている」

「まだ三週間よ」

「一ヶ月も経てば帝国の部隊はどこへ移動するかわからない。足跡が消える」

「……」

「時間がないんだ」

ファンネリアは黙っていた。

やがて、静かな声で言った。

「今夜、父から話を聞いてほしいことがあるの」

押しつけではなく、お願いの声だった。

それがかえって、キリークの足を止めさせた。


ファンネリアの父は、穏やかな目をした初老の男だった。

港町の風雨で焼けた顔に、長年の商いが刻まれている。

彼が広げた地図には、帝国の勢力圏が几帳面な線で引かれていた。

「帝国軍の部隊移動には、必ず物資の流れがある。私の商会はその流通の一端を担っている。つまり――」

「つまり、部隊の動きが読めるということか」

キリークが前のめりになった。

老人は頷く。

「ただし、情報が集まるには時間がかかる。焦って動けば、向こうも感づく」

キリークは地図を見つめ、黙り込んだ。

マイトレーヤ。

今、どこにいる。

地図の上を視線でなぞるたびに、帝国の広さだけが実感される。


     *


ガルが商会に居着いたのは、純粋に食事が美味しかったからだ。

奴隷船事件の後処理が済んだ翌日、ファンネリアの父からの使いが来た。

専属護衛の打診。

報酬の数字を聞いて、ガルは煙草に火をつけながら答えた。

「前払いなら」

それだけだった。


中庭では、毎朝キリークが左腕の素振りをしていた。

最初は壁に寄りかかりながら、やがて一人で立てるようになり、一月もすると日が昇る前から始めるようになった。

無茶な動きをするたびに右腕をかばい、それでも止めない。

ガルは食堂の窓から、スープを啜りながらそれを眺めていた。


ある朝、キリークが壁に仕掛けた木の杭に向かって突きを繰り出したとき、足が石畳の凹みに取られて体勢を崩した。

反射的に右腕をついて、短い悲鳴を飲み込む。

ガルは立ち上がり、中庭へ出た。

「足元を見ろ」

「……わかってる」

「わかってたら今の転び方はしない」

キリークは右腕を押さえたまま、睨み返した。

「お前に関係ない」

「俺が雇われてる商会の客が中庭で死んだら面倒だ」

ガルはそれだけ言って、食堂へ戻った。


夕方、キリークが同じ場所でまた素振りをしていた。

今度は石畳の凹みを避けながら。

ガルは気づかないふりで通り過ぎた。


港の酒場で、ガルが顔見知りの船乗りと話しているところにキリークが来た。

珍しいこともあるものだと思っていたら、キリークはいつの間にか隣の男たちと言い争っていた。

「帝国の犬か」「難民のガキが偉そうに」そんな声が聞こえた。

キリークは直刀を抜きかけていた。

ガルは酒を置き、キリークの首根っこを掴んで外に引きずり出した。


「放せ!」

「うるせぇ、死に急ぎ」

通りへ出てから、ガルはキリークを壁に押しつけた。

「売られた喧嘩をいちいち買ってたら身が持たない。なんのためにお前が生き延びてると思ってる」

「……」

「俺はガキの面倒を見るために雇われたわけじゃねぇ」

キリークは唇を噛んだ。

反論しなかった。

それが悔しくて、もっと悔しかった。

    

 *


三ヶ月が経つ頃、ファンネリアは父の執務室でよく帳簿を広げるようになっていた。

商会の情報網を動かすにはそれなりの資金の動かし方がある。

それを一から学んでいた。

キリークがその扉の前を通りかかると、中から父と娘の声が聞こえた。

「この取引先への融通は止めるべきです。先月、帝国の斡旋業者と接触したという話が入ってます」

「しかし先代からの付き合いが――」

「感情で商いをするなら、最初からするべきではありません」

父が押し黙った気配がした。

キリークは廊下を通り過ぎながら、ファンネリアのことを少し、見直した。


夜、暖炉の前でファンネリアが地図を広げていた。

キリークが向かいに座ると、彼女は顔を上げた。

「帝国圏の外から流れてくる人って、どれくらいいると思う?」

「さあ」

「父の商会だけで、去年一年で三百人以上の戸籍登録を仲介したの。そのほとんどが、帝国に飲み込まれた土地の出身者」

キリークは黙っていた。

「市民権があれば、最低限の保護が受けられる。でも、手続きには金がかかる。金がなければ動けない。動けなければ、バルガスみたいな人間に拾われる」

「……それで、お前の父親は?」

「仲介の手数料を、払える人間だけからもらってる」

炎が爆ぜた。

キリークは地図に視線を落とし、何も言わなかった。

言葉の代わりに、胸の中で何かが静かに動いた気がした。


     *


四ヶ月目の朝、ファンネリアが執務室にキリークを呼んだ。

広げられた紙には、商会の取引先から集めた情報が書き込まれていた。

「帝国第七移送部隊。北の街道を経由して、東の要塞へ移動中という話が入ってきたわ。

同行している民間人の中に、藤色の髪の少年がいたと」

キリークの呼吸が止まった。

「……いつの情報だ」

「十日前」

「十日」

立ち上がる前に、もうキリークの頭は動いていた。

街道の距離、部隊の移動速度、東の要塞までの日数。

「キリーク」

ファンネリアの声が、静かに引き止めた。

「一人で行かないで」

「お前には関係――」

「関係ある」

真っすぐな声だった。

ファンネリアは立ち上がり、キリークではなくドアの方を向いて言った。

「ガル。入ってきていいわ」

扉が開いた。

煙草の煙が漂う。

ガルが無精ひげのまま腕を組んで立っていた。

「聞いてたのか」

「廊下は薄い」

ガルは短く答えて、ファンネリアに目を向けた。

「で、俺に何をしろと」

「護衛の依頼よ。対象はキリーク。行き先は帝国第七移送部隊の東進ルート」

「断る」

「報酬は前払い、相場の二倍。加えて、商会の通行証と、東の街道沿い三つの中継地での宿と食事の手配を保証する」

ガルが眉を上げた。

「……商会の通行証ってのは、検問を無視できる類のやつか」

「ええ」

「どこで覚えた、そういう交渉を」

ファンネリアは答えなかった。

ただ、視線を外さなかった。

ガルはしばらく沈黙した。

それから深く息を吐いて、ファンネリアを――はじめて、ただの「守るべき依頼主の娘」ではない目で見た。

「……前払いは今日中に」

「午後には用意できる」

「ならいい」

ガルは踵を返した。

「荷物をまとめておけ」

キリークへ、振り返らずに言う。

「明朝出る」


夕方、キリークはファンネリアを廊下で呼び止めた。

「なぜ、そこまでする」

ファンネリアは少し考えてから、穏やかに答えた。

「あなたが助けてくれなかったら、私はあの船を降りられなかった。それだけよ」

「それだけで、あの条件を出すのか」

「ええ」

キリークは言葉に詰まった。

「……礼は、マイトレーヤを取り戻してから言う」

「待ってるわ」

ファンネリアは微笑んだ。感傷ではなく、約束の顔だった。


     *


馬車は夜明け前に商会の門を出た。

幌の中でキリークは膝を抱えて地図を広げ、ガルは御者台で煙草に火をつけていた。

しばらく街道を行くと、馬車が揺れてキリークの地図が膝から落ちた。

「揺らすな」

「街道がそうなってる。文句は帝国に言え」

 しばらく沈黙した。

「……マイトレーヤの、目撃情報は確かなのか?」

「さあな。確かめに行くんだろう?」

「そうだけど」

「行ってみなきゃわからないことを行く前に悩むな。時間の無駄だ」

キリークは地図を拾い直し、また広げた。


最初の港町で、キリークは一人で情報を集めようとした。

路地の奥に消えるのを、ガルは馬を繋ぎながら見ていた。

3分後、怒鳴り声が聞こえた。

ガルが路地に入ると、キリークが三人の男に囲まれていた。

直刀を抜いている。

右腕に力を込めようとして、顔が歪んでいた。


「放せ!」

「うるせぇ」

ガルは手刀一本で先頭の男を壁に叩きつけ、残りを一瞥した。

男たちは目を合わせてから、逃げた。

「情報屋はああいう路地の奥にはいない。大通りの酒場にいる」

「……知ってる」

「知ってたら最初からそっちへ行け」

キリークは口を噤んだ。


雨の夜、安宿の軒下で焚火を囲んでいた。

キリークは黙って炎を見ていた。

乾いた木が爆ぜるたびに、目の奥が熱くなった。

こらえるための沈黙だった。

ガルは煙草を一本吸い終えてから、短く言った。

「まだ生きてる」

キリークが顔を上げた。

「お前が諦めない限り、まだ間に合う可能性がある。それ以上でも以下でもない」

励ましではなかった。

ただの、確認だった。

だからこそ、キリークは頷けた。


何度目かの夜明けに、キリークはガルの横顔を盗み見た。

危険な男だと思う。

善意で動いているわけでもない。

いざとなれば切り捨てる男だとも思う。

それでも、今のところ隣にいる。

それで十分だと、キリークは地図に視線を戻しながら思った。

まだ旅は始まったばかりだった。


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