今、そばにあるぬくもり
草むらに腰を下ろせば乾いた草のふわふわとした感触に陽光のぬくもりが残っているのが心地よい。カイリは、と言えば琴美の横ではなく背中側にさっと腰を下ろし、さも当然と言わんばかりに長い脚の間に琴美を抱き込むようにその広い胸板に引き寄せた。
気づくのが遅かった。またもやバカップルモードではないか! 少しでも距離を取ろうとじたばたともがく琴美の抵抗も「カイリ、恥ずかしいからはーなーしーてー」との抗議の声も知らん顔の何処吹く風。カイリはその腕にもう一度しっかりと琴美を抱き込んだ後、ご機嫌でふたたびアイスの山への登頂および制覇に乗りだしている。
やがて抵抗を諦めた琴美は溜息をつきながらもカイリの胸に背を預けた。水面から吹き上げてくる風が頬に冷たい。陽光は明るくあたたかなのに、風は冬のにおいをほのかに孕んでいた。
ああ、もう秋も終わりで……もうすぐ冬がくる。なのに背中はあたたかで。
包まれ、守られているという意識に自ずと頬が熱を持つ。本当にらしくない。琴美には似合わないことだ。
やがてそんな感情をふり払うように、ふるりと首を振ったところで唇にあてられたものがある。
「ん——うんまい! ほら、コトミも!」
「…………」
頭を少し後ろに傾け、目だけで背中側のカイリを見上げれば、彼はにこにこと、たっぷりアイスを盛ったスプーンを琴美の唇へ押しつけてくる。つんつんと、触れられる感触が冷たい。プラスチックスプーンの上に山と盛られたピンクと白のかたまりの、少しとけた端っこがとろりと今にも零れ落ちそうだ。
……お願いだからやめてほしい。いや、確かにこの土手にはたいして人がいるわけでなし、こちらを見ている人がいるわけではないのだけれど……だけど!
ぐるぐると、煮える頭の中ではそう抗いつつも、唇にスプーンを押しつけられたままの状態では、ぱくりとそれを咥えるしかないわけで。
差し出されたスプーンを咥えたまま、恨めしげに見上げれば青い瞳が満足げにこちらを見下ろしているのが見えた。熱を点した頬とは対照的に、口のなかにひんやりととけるような感覚が広がる。
それはとてもつめたく……あまく思えた。
「うまいか?」
「うん……美味しい」
無邪気で暢気な、いつもの笑顔がその瞳に確かにきらめいたと思えた焔を隠す。一瞬だけ溢れ出したそれを奥深く、何処かへと閉じ込めて。
そのせいなのか、なんなのか——琴美はときどき、カイリに対してどうすれば、どんな顔をすればよいのか分からなくなるときがある。素直かと思えばときに我が儘にして強引で……思いがけない表情や行動を彼は琴美にみせる。そしてそれに翻弄される自分がいる。
だが琴美にもこの数ヶ月——いやカイリと出会ってからのこの一年で、うすうす気づいたことがある。
たぶん。いや、間違いなくカイリは嘘つき性悪オオカミだ。その無邪気な笑顔に騙されてはいけない。こどもっぽい言動に丸め込まれてはいけない。
じゃあ琴美のほうはどうだろう?
カイリに対する琴美の態度も大いに多分に素直じゃない。甘やかされると恥ずかしい。嬉しいけれど素直になれない。でもその実、きゅうんとときめく胸の鼓動は素直に正直に、カイリへの琴美の想いを伝えてくるわけで。
なのに愛情半分、照れ隠し半分でついつい、憎まれ口をたたいてしまう。
そう、たとえばこんな風に。
「ほら手! こぼれてる!……まったく、子供じゃないんだから」
「えぇ~?」
もう、ベタベタじゃないの、そんな母親じみた小言なぞをつい言いながら、ハンカチでその大きな掌をごしごしと拭いてやる。カイリは、といえば大人しく琴美にされるがまま、その手を預けてくる。背後から抱きしめられたままの体勢のせいか、背に感じる体温と胸板の厚みがリアルだ。とく、とくと規則的に打つ心音が服越しにも聞こえてくるようで、その距離の親密さを伝えてくる。カイリがふ、と漏らした息が首筋をくすぐり、今度は琴美の心臓がばくばくという早めのビートを刻みはじめた。
そう、これはわんこ。でっかい金色のわんこ。私はわんこの前脚を拭いてあげてるご主人様。未だにカイリにドキドキするのもきゅんきゅんするのもそのせいだ。うん、そうに違いない! そんな気持ちに切り換えるべく琴美はせっせと手を動かしながらもふと、気づいたことがある。
握りしめたその掌は、子供っぽい言動にもかかわらず琴美よりもはるかに大きくて、そしてちゃんとしっかりとした大人の男の手だということに。
何気なく視線を下ろせば自分の手が視界に入る。ネイルは塗らず、丸いラウンド型に整えた小さな爪。もう少し指が長ければとたまに思うこともある、少し小さめなのがコンプレックスな掌。それは最近再開した空手の稽古のため、ひきつれるような薄皮が全体に張り、マメの跡が硬く盛り上がっていた。
ならカイリの手は、と握りしめたカイリの手と比べるように手を重ねてみるが……並べてみずともその差は歴然で。
短く切り揃えられた四角い爪、節のしっかりとした長い指、その大柄な体躯に見合った大きな手は男と女という性差と体格の差による、ただそれだけではない。手の甲には既に古傷とはなってはいるものの、大きな白い傷痕が走っており、どうすればこうなるのかと思えるほどに掌の皮膚は厚く、硬い。
そっと指を滑らせれば、ごつごつと刻まれたまめと堅い筋肉がかたい感触をもって琴美の指先を押し返した。
そう、カイリの手は”戦いに身を置く”男の手だ。
稽古じゃない。スポーツじゃない。
昼夜を問わず文字通り”世界”を股にかけて飛び回り、そして走り去る。海も、山も、空も、国どころかふたつの世界の境目さえをも飛び越えて。
だが琴美自身、カイリのことをちゃんと理解しているかと問われれば、甚だ心許ないと感じてる。知っていることといえば、カイリがこの世界の人間ではないという事実。異なる世界からこちらの世界へ忍び込み、悪事を働く獣人族を捕縛することが彼の仕事なのだろう、と琴美なりに解釈してはいるが、その実よく分かっているわけではない。
知りたくない、わけじゃない。
聞きたくない、わけじゃない。
知りたいか? と問われればもちろん答えは是だけれども、知りたいわけではない。そんな積極的な気持ちがあるわけでもない。
前を向けば、目の前に線が引かれていることに気づかないわけにはいかないから。でも踏み出さない。踏み出したくはない。
そんな、矛盾した気持ちが琴美の中にある。
カイリが、カイリ自身がそれを良しとしていないのが分かるから。
カイリの反応はいちいち素直だ。琴美の手料理を美味しいと喜び、新しく目にするものには目を輝かせ、大きな身体で雷が苦手というかわいいところもある。如何にも平気そうに強がってみせるそのくせに、冷たく汗ばんだ掌で琴美の手を握ったまま離さなかったり。(本人の弁では『コトミが怖がってたから!』とのことだが)
そんな彼の感情の発露はいつも素直でまっすぐで、琴美への好意も愛情も隠すことなく、惜しむことなく言葉で、表情で、その身体すべてで伝えてくれる。
だがその一方でこのところ、カイリは自身の話をどこか、避けている節がある。それも当然、自ずと伝わってくるわけで――口にせずとも、言葉にせずとも態度で分かる。その瞳に浮かぶ何かがある。
そして、その瞳には——恐れにも似た何かが含まれているかのように琴美には思えてならなかった。
カイリは”今”は琴美にそばにいてくれる。この手は琴美の手のなかにある。
だけど——彼は”いつ”と”いつまで”を琴美と約束することはできないのだ。
だから、聞かない。
聞けないんじゃない。琴美は、敢えて聞かないことを選んだ。
そう、今は。
ふと思う。果たして、手綱の端を握っているのはどちらなんだろう? 本当は、引き寄せられているのはどちらなんだろうか?
琴美はひっそりと微笑んだ。預けられたままの左手を握り込んだまま、上半身だけで肩越しにゆっくりと振り向く。顔を上向け、もう片方の手をそっと伸ばせば、その手を今度はカイリの右手の指先が捕らえた。ゆっくりと、笑顔と唇が下りてくる。まるで小さな、愛しいものを見つけたように。
やがて、額に落とされたやわらかな熱は——あたたかだった。
「手、拭いてくれてありがとう」
「……イエ……ドウイタシマシテ」
でもやっぱり出てくる言葉はそっけない言葉で。
代わりに素直な頬が、耳朶が熱を持つ。思わず漏れた吐息がカイリの首筋をくすぐればお返しだ、と言わんばかりに頬を撫でられた。その指はがっしりとしているのに撫でる仕草はやさしくて……それだけになぜか幸せで泣きたくなる。何と言っていいか分からなくて俯きたくなる。
でも、琴美は目をそらさなかった。
ただ、その姿を瞳に刻みつけるために。「いつか」が来ようとも——「今」を忘れぬために。




