甘やかな檻、やわらかな手綱
心より、身体はよほど正直だとは言い得て妙と言えるだろう。しかし琴美の場合、それは色っぽい意味ではないようではある。
だがしかし。
「んん——コトミ、とって?」
店員の指が触れる寸前、くるりと琴美の方へと向き直り、さも当然と言わんばかりに「ん」と頬を琴美の方へと突き出すカイリ。夏空のような青い目が瞼と睫毛の下に隠されて、テーブル越しに顔を突き出すその仕草は、まるでキスをねだるかのように甘やかだ。
その姿はまるで子供のように無邪気で、なのにしっかり肉食オオカミなのだからなおのこと質が悪い。
この確信犯の甘ったれわんこめ!
普段ならばそんな憎まれ口をたたいてしまうはずなのに、いつの間にか指が動いていた。頬についた生クリームをその指先で拭き取ってやれば、こちらを見つめる青い瞳が与えられた行為に喜びのいろを映しつつもやわらかく揺れた。
素直に返される「ありがとう」ただその一言が嬉しくて、「舐めてくれたらもっと嬉しかったのにぃ」などと真面目な顔で言い放つ、その恥ずかしい台詞までもが愛おしい。
そんな顔で、そんな目で見られると……困る。この手を離せなくなる。いつか——そういつか、遠くもない未来にこの手を離すことがよりいっそう辛くなる。
いつかくる終わりに脅えて、それを恐れて……どこか及び腰になりそうな琴美をこうしてカイリはあっさりと引き寄せ、絡みとる。無邪気に、それでいて強気に。笑顔の裏にしたたかさを潜めたそれは甘やかな檻。逃れようにも引き千切ることができないくらい、やわらかくも強い手綱。
「隙あり」
「か、カイリ!?」
クリームを拭ったままの指先がぱくん、と当の本人の口にふくまれた。やわらかでざらりと熱いその舌に、ちろちろと指の腹から爪までをゆっくりとなぞられる。上目遣いにこちらを見上げている瞳と目と目が合う。そんな甘やかな仕草に、ざらりとした舌の感触に琴美はふくまれた指の先から全身へとかっと広がる、燃えるような灼熱をおぼえた。
わざとなのか、そうなのか。わかっているのか、そうなのか。そうだとしたら質が悪い、悪すぎる。
「コトミの指、あまい……」
青い瞳と目と目があう。そこにもまた、炎が燃えていた。烈しく、強く、わざと軽めかした言葉の内側に、敢えて言葉にしない何かを隠して。だから目が離せない——否、離してくれない。
しかしそれもまた一閃のこと。
その呪縛は吹き消されたかのように消え失せる。にやっと思わせぶりに笑ったかと思えばもう一度、今度は掌をぺろりと舐められた。唇が離れる寸前におまけ、とばかりにちゅっと手首を吸われ、甘噛みされる。
ちょっと何をする、どさくさにまぎれて何をしているこのアホは。
周囲の視線が集まる。店員の目が、女性陣の目が痛い。刺さるほどに痛い。痛すぎる。視線が刺さるとはこのことか。いや! いやいやいや! むしろイタいのは琴美とこのアホに違いない!
「こ、この甘ったれのエロあほわんこ————!!」
「ぐふぉっっ!」
先ほどまでの喧噪が嘘のようにしんと静まりかえった店内に、真っ赤になった琴美の叫び声と、カイリの腹筋にめりこむ拳の音がひとつ、高らかに響き渡ったのであった……。
* * *
あれだけ注目を集めてしまった以上、さすがに店内には居づらいわけで。
例の店員も口では笑顔をかたちづくってはいたがその実、目は笑っていなかった。機械的にコップに水を注ぎ足し、さっさと行ってしまったあたり、何だか悪いことをしたような気がする。
カイリに悪気はないとはいえ、いきなり目の前でバカップル(!)がいちゃつきはじめたら誰もが顔が引きつるだろう。
琴美自身、所構わずいちゃつくカップルを空気の如く見て見ぬ振りをすることには慣れてはいても、まさか(不本意とはいえ)自分がそのバカップルの仲間入りをするとは思いもしなかったわけだが!
「コトミはさっきから何をプリプリ怒ってるんだ。あいすくりーむで腹が冷えたのか? 腹下しか?……あ! まさか月に一度来るという、例のメスの日のお客さんがき……ふごっ!」
「………………」
容器が持ち帰り用も兼ねたプラスチック製だったのをこれ幸い、アイスが溶けないうちに早く、と琴美は未だよく分かっていないカイリの背中を急かすようにして店を後にした。二人並んで歩きながらどこか靜かで、腰を下ろせるような場所を探す。
もっとも途中、再びトンデモ発言をしたバカ犬の腹筋に鉄拳を容赦なくたたっこんだのだが。なに、その立派な腹筋ならばいくら有段者とはいえ、琴美の拳の一発や二発くらいどうということはないだろう。これも躾です。愛です。
——誰かも言っていたではないか、愛は拳で語るものだと。(……違ったか?)
だが、しかしというかやはりというか——カイリのその立派な腹筋はそれでもたいしてダメージを受けてはいないようだ。琴美から本日二発目の拳を喰らい、さも痛いと言わんばかりにアイスのカップを持っていない方の手で腹をさすさすと撫でつつも、懲りずに再びじゃれついてくるあたりそうだろう。
ここが往来だろうが構うことなく手を伸ばしてくるけしからんその手を押しのけ、琴美はふたたびずんずんと歩き出した。見たところ、カイリの手の中にあるアイスのカップはまだ半分以上残っており、かといって食べながら歩くわけにもいかないし、夏ではないとはいえそのままではベトベトに溶けてしまうにちがいない。
歩いていくうちに場所は案外早く見つかった。道がひらけた、と思ったら大きな河原沿いの道に出る。見れば足下から眼下にかけて広がる河川までの緩い傾斜土手には程よいクッションとなる草が生え、川縁を犬と散歩する人もいれば土手に寝そべり、さわやかな秋の午睡を楽しんでいる人もいる。
そんなどこにでもある、そして平和な午後の風景がそこにあった。
ふ、と影が差したと思えばいつの間に隣に並んだのか、見上げた先にこちらを見下ろすカイリの顔がある。
「コトミ、ここに下りてみないか?」
こくり、と頷けば返事の代わりに微笑みが返ってくる。「ほら」と差し出された手に手を預ければぎゅっと握り返してくれるぬくもりがある。
琴美はその手をたよりにそろそろと土手を下りていった。ジョッキータイプのショートブーツのヒールの下、踏みしめた草がたてるざくざくという音が耳に届く。七センチという、草の傾斜を歩くには少々不向きな高さのヒールのせいで足下はやや頼りないが、支えてくれるその手はしっかりと力強い。それが嬉しい。どうしようもなく嬉しい。
もう子どもじゃないのに……縋る手が、握りしめてくれる掌があることが琴美は素直に嬉しかった。そしてそんなあたり、琴美もカイリのことを「甘えた」だの何だの言えないな、と我ながら思うのだった。




