暗雲
お、お久しぶりでございます……。
月も星もない夜だった。
いや、それは必ずしも正しいとはいえないだろう。たとえ厚い雲にその眼前を塞がれたとしても、それは今この場でのことにすぎない。月も星も、この天上から消え去るわけではないのだから。
それは手に届かない場所にあるもの。ここにはない場所に確かにあるもので……どこか、他の地で他の誰かの顔や手を照らしているのだろう。
そ知らぬふりで、足下にいる者たちの都合も感情なぞ気にすることもなく。ただ、いつもそこにいる。それだけだ。
だが大都市自身が放つ、人工的な光は星の光をかき消し、暗く澱んだ雲のせいで今夜は月さえも見えない。それはまるで真っ黒な両腕の中に閉じ込められているかのようで——晴れた日は無限にも広がると思えた空が今は狭く、息苦しくも思えるほどに近くに感じられた。
そして、そんなことを考えながら一人の男が空を見上げている。整然と、互いに競い合うかのように立ち並ぶ高層ビルの一角で、ビルとビルの僅かな隙間をここぞとばかりに駆け抜け、吹きすさぶビル風さえもものともせずに、身じろぎひとつすらすることもなく。背を伸ばし、ただ真っ直ぐに空を見上げていた。
やがて空を見上げるのにも飽いたのか、ゆっくりとその視線がはずされる。闇夜は男にとっては慣れ親しんだもの。肌にぴたりと馴染むものではあるが、ネオンの明かりを滲ませた夜の色は何度見ても苛立たしく、その背にぞろりとした不愉快な感触を憶えさせる。何度も見上げ、そして何度も見下ろし、馴染んでてきたはずなのに——いつまでたってもその感覚には慣れることができない。
たとえ今夜は近く思えたとしても確かに空は高く、月も遠く、そして己自身もまた、遠い。なのに感じるのはざわざわとした——首筋の産毛の一本一本までもが逆立つような、奇妙な既視感。
それは男が今尚、ここに馴染みきれていないせいなのか、それとも男の中に流れる血が何かを男自身に叫び、訴えているのだろうか——? 夜に染まりきることも光に立つこともできぬままに、ただここに立ちつくす己自身への矛盾と、それに対する名状しがたい感情を。
だが、今は。
ただ——胃の淵をなぞるように流れていくいつもの感覚を押し流すだけだ。
空っぽな自分自身の中にふつふつと浮かんでくる感情を押し流し、制御するだけ。それだけなのだから。何度も、これまでに何度もそうしてきた。何度も、何度も……幾度も幾度も繰り返し、肌の下に染みわたらせるように。まるで夜の色に自らを沈めていこうと努めるかのように。
そうすることで今、自分自身を確かに感じることができた。他の何者でもない——己自身を。
今、ここに立つ意味を。
「誰かそこにいるのか?」
大きな声とともに屋上への扉が勢いよく開かれた。微弱ながらも細く、丸い光が剥き出しのコンクリートの床を照らし出し、夜に染まった屋上を現実の色へと引き戻す。
やがて、懐中電灯の小さな灯りがそれを手にした人物の姿をその場に浮かび上がらせた。濃紺色の制服を着ていることからこのタワーの警備員だろう。その老いて皺の刻まれた目元に不安げな表情を滲ませながら、きょろきょろと目だけで左右を窺いつつも、忙しない足取りで屋上へと飛び出した。
だが、そこには誰も居なかった。確かに誰かがいたはずなのに、と警備員は眉をひそめる。しかし、周囲を見回せども真っ暗な屋上が広がるのみで、覗き窓ごしに目にしたはずの男の姿は影のように跡形もなく消えていた。
人がいた痕跡も、足跡も、気配すらもなく。
そこには鳥の羽ばたきにも、嘆きの声にも似た晩秋の風だけが、激しくも強く吹いていた……。
まもなく到来する、つめたい冬の気配をその内側にひっそりと滲ませながら。
* * *
「コトミ、コトミ! このあいすくりーむ・さんでーってやつ、す——っごくうんまい!」
明るい太陽の下、がっしりとした体躯の男がパステルピンクのプラスチックスプーンを握りしめ、この世の幸せ、春到来!(今は晩秋だが……)とばかりに、さも嬉しそうに琴美の名前を連呼している。そんなに大声をあげずとも、目の前にいるわけだからちゃんと聞こえるし、聞いている。
だが男——即ちカイリ——は大好きな琴美にその喜びを、感動を伝えたくて、教えたくてたまらないらしい。まるで子供のようにはしゃぐ金髪美形の姿に、周囲の視線が集中しているのに頓着すらもしていない。女からは色気と他意を多分に含んだ秋波目線、男からはやっかみ半分・嫉妬半分の視線を向けられているにもかかわらず、本人の目線は琴美とアイスに一直線。周囲は一切、気にするどころか視界にすらも入っていないあたりがカイリらしいというべきなのか、何とやら。
その日、琴美とカイリはとあるアイスクリーム・ショップにいた。夏は種類豊富なアイスサンデーを、秋・冬はクレープやワッフルなどをメインとしている店だが、その日は金木犀の香る季節にしてはやけに気温の高い日で、焼き菓子よりもアイスや冷たい飲み物を求める客で賑わっていた。
琴美たちが座る席はオープン・エアなウッドデッキにあつらえられたテーブル席なので、頬をくすぐる爽やかな秋風が、口の中でなめらかにとけていくアイスの冷たさと相まって、何ともいえず心地よい。
そして、何よりも隣に彼がいるから。目を輝かせ、どうやら初めて口にする甘味に喜びの声を上げるカイリがいるから——琴美は胸の奥から後から、後から溢れてくる愛情という名の幸せを改めて、噛みしめていた。
一方、そんな琴美の横でカイリが嬉々として頬張っているのはファッジ&クリームとクッキー&ストロベリー・チーズケーキのダブルフレーバーにたっぷりのチョコソースと生クリームがのせられた、およそ成人男子には似つかわしくない甘ったるい代物で。琴美の手には余るほどに大きいサイズのそれも、カイリの大きな掌の中ではちんまりと収まってしまうから不思議だ。おまけに、カップには溢れんばかりの量が盛られている。何度か鳥子やほかの友人達とこの店に足を運んだことのある琴美だが、その量には目を丸くした。
「ずいぶん、大きいよね」
「ああ、俺のはおっきいぞ? おっきいことはオスとしても誇るべきことだ」
「…………黙って食べろ。お願いだから」
「うむ!」
分かってるのか、そうじゃないのか。相変わらずカイリはとんちんかんだ。
——だがそれにしても、と琴美はカイリの手の上で存在感を主張する、そのカラフルな塊をまじまじと見つめる。大きい、改めて見てもそう思う。いくらなんでもこの量はちょっと多すぎなんじゃないだろうか?
だがそんな疑問も視線をちらりと横に走らせてみれば、これまたうっとり頬を染め、熱い視線をカイリへとそそぐ女性店員達の姿になんともあっさり得心がいく。これぞ依怙贔屓、或いは職権乱用というやつなんじゃないのか? そんなことを内心ブツブツつぶやきながら目の前の、こんもりと盛られたアイスの山に視線を戻し、琴美は再びふか〜い溜息をついた。
これだからイケメンというやつは!
羨ましいわけでは勿論ないし、けして妬いているわけではない。
そう、琴美はこんなことにはもう慣れっこだ。カイリといたら当たり前、よくあることだし慣れて当然。これは犬を散歩させるようなもの。カワイくて珍しいわんこを連れて歩けば周囲の視線も集まるし、みんなが撫でてみたい、触ってみたいと寄ってくる。
そのようなものだと思おうとするも、カイリは本性は狼といえどもやはり犬ではないわけで——好奇の視線も艶をふくんだ上目遣いも琴美にとってけして面白いわけがない。見せびらかすほど傲慢にもなれないし、いちいち怒るほど狭量にもなりたくない。
カイリが(黙っていればの条件付きだが)目を惹く美形なのは彼のせいではないわけだし、女のやきもちはみっともない。琴美は知らず知らず尖りそうになる唇を噛みしめつつ、自分自身に言い聞かせる。
だがそんな琴美の鋼のと決め込んだ心臓も、こうも容易くひびがいく。
「お客様、お水のお替わりいかがですかぁ〜?」
金属製の水差しを携えた店員がまちがいなく営業用と思われる、つまり普段よりもワンオクターブ高いに違いない声で、にっこりとカイリに笑いかけた。琴美にはとうてい出せそうにない甘えるような声と、真似できそうにもない可愛らしい笑顔がカイリに向けられる。小柄な彼女の目線は座った状態のカイリより少し高いくらいで、カイリも目線を上向けながらさわやかに微笑んだ。
「うん、ありがとう」
「あら、お客様ったら。頬っぺたにクリームがついていますよぅ?」
そう言いながら、店員がカイリの頬と髪に手を伸ばす。くすくすと笑いながら、グロスに濡れた唇に思わせぶりな媚態を浮かべて手を伸ばす店員を前に、琴美の掌の中でプラスチックスプーンがバキン、と小さく音を立てて二つに割れた。
長くなったので二つに切りました。




