変わりゆく世界、変わらない想い
春は曙、夏は夜。そして恋は甘い目覚めに繰り返されるは暁の睦言、震える指先握るは熱く大きな掌で。
そしてときに恋の嵐は乱気流。千々に乱るる乙女心に恋心。他人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえというけれど、悪魔が来たりて笛を吹き、カイリが来たりて嵐を呼ぶは自明の理。
はてさて、琴美とカイリの異世界間・異類間恋愛コミュニケーションは果たしてどうなる? ……やっぱりこうなるの、ね……。
忙しく社内を動き回る同僚たちに飛び交う書類とメールと電話。それはいつもの会社のいつもの風景。ごくごく普通の日常で。これが琴美の日常。そして、琴美の世界。
琴美は目の前のディスプレイから目を離し、そんな社内を目だけで見渡して、それからそっとひとつ、溜息をついた。それは思わず出たもので。だが、思いのほか悩ましくも見えたらしい。さて、と気を取り直して再びディスプレイに集中しようとしたところで内線が鳴る。ディスプレイに出た番号は同期の木庭 鳥子のものだ。思わず見やれば、はるか向こうの席から受話器片手に思わせぶりなウィンクをこちらに寄こしてくる。
苦笑混じりに内線に出てみれば、周囲の耳を気にしてなのか、普段よりも若干声のトーンを落としてはいるものの、よく通る鳥子の声が耳に飛び込んできた。
「琴美さーん、今日はやけに悩ましげな溜息ついちゃってますねー? いろっぽーい。ひゅーひゅー♪ さては昨晩は、愛しのわんこと深夜のお散歩してたとか? どこにイッて来たのかなぁ~?」
「……切るよ?」
「わ、わ、ごめんってば! あーん、琴美ちゃん切らないで~」
からかい混じりの声から一転、哀れっぽい声を上げる鳥子がわざとらしくもおかしくて。琴美は苦笑混じりに問いかけた。
「……はいはい。で、なぁに? 来週の営業部とのお疲れ会の件だったらお店の候補、後でメールで回そうと思ってたんだけど」
「うーん、それもあるんだけど。まぁいいや、お昼のときに話す。今日は社食じゃなくて久しぶりに『義亨』とかどう? 少し早めに出ればすぐ入れると思うし」
鳥子は会社から徒歩5分ほどの店の名を上げた。夜は種類豊富な日本酒と新鮮な魚介が人気の店だが、昼は定食屋として営業している。家庭的な一品料理のどれもが美味しく、しかもその中からすきなものを二品選べるという贅沢さが嬉しい。ワントレイ数百円の社食と同じ値段というわけにはいかないが……美味しい魚料理が食べたいときは鳥子も琴美も自然、足が向くようになってしまった。
なによりも半地下にある穴場な店のため、あまり会社の人間と顔を合わすことがない気楽さがよかった。別に聞かれてまずい話をしているわけではないが、たまには知っている顔のないところでお昼を食べたいというのが鳥子の言で。そして、琴美もそれには賛成だ。
数週間ぶりに行った「義亨」はそれなりに混んでいた。厨房をカウンターでぐるりと囲み、そのまわりにテーブル席が並ぶという形になっている店内は、外からは見えないため分かりづらいが意外にも広く、ゆったりとした造りだ。敢えてカウンター席を選び、鳥子と並んで腰掛ける。とりあえず注文を、と思いつつそこは若い女子二人のこと、どれを食べるか早速迷ってしまう。
「うーん、お刺身もいいけど海鮮丼もいいなー。あ、鰤の照り焼きも美味しそう!」
「秋刀魚も出てるよ。私は焼き秋刀魚定食にしようかな」
「お、秋の味覚ですか。いいなぁ、私もそれにしよっと。においが部屋に残るから、あんまり焼き魚ってできないのよね~。一人分と思うとなかなか億劫で」
そう言いながら鳥子がにんまりと琴美を横目で見上げる。その意味深な笑みに含まれた何かに気づかないほど琴美は鈍くはないつもりだ。
「……何よ」
「いや、黄金色のわんこって焼き魚も食べるのかな~と思いまして。ほら、外人さんってムニエルとかならともかく、焼き魚とか食べるイメージがあんまりないからどうなのかなって純粋な好奇心よ?」
要は鳥子はカイリについて聞きたいのだ。カイリが一ヶ月ほど消息不明になったあの事件以来、鳥子はちょくちょくカイリについて尋ねてくる。もちろん多分に好奇心ではあるのだろうが、そこに気遣いや心配が含まれているのも鳥子らしい。だから琴美はにっこりと微笑んでみせる。鳥子を安心させるように、今が幸せだと伝えるために。
「食べるよ? なんでも美味しい、美味しいって食べるからあまり気にせず出してるけど。漬け物とかも好きみたいで納豆も平気で食べてたし、量があればいいみたい」
「そうなんだ。海外出身でそれだったら楽でいいね。食べ物の好みってけっこう大事だもの。男を落とすならまず胃袋から落とせって言うし。でも前の海外出張だっけ? あのときみたいに連絡取れなくなることとかは最近ないの?」
「う、うん……。ここのところは前ほど仕事も忙しくないみたいで。何かあれば事前に連絡くれるようになったし」
とりあえず鳥子にはカイリは海外出身で日本には不慣れ、海外と日本を行き来する仕事をしているため連絡がつかなくなることが多く、前回は携帯を水没させたために連絡がつかなくなったということにしてある。嘘をつくのはつらいし後ろめたいが……かといってカイリが異世界人だと言えるか……それはいくら相手が鳥子だからとて……難しい話で。
そもそもそれを信じられるのか、それすらも分からないというのに。
なにせ、カイリが本来いるはずの世界は琴美にとっては外国以上に遠く、確かに現実に、この世の何処かにあるのだとしてもそれはどこか夢のように遠く感じるもので。ただ、琴美に笑いかけてくれるカイリ自身と抱きしめてくれるその腕、それだけが琴美にとって何よりも大切な現実だった。
だから、店員に手渡された秋刀魚定食のトレイが鳥子の意識を逸らしてくれたときは正直、ほっとした。これ以上、不本意な嘘を重ねなくてすむことに、自分自身の中に燻る、内なる不安に向き合わなくてすむということに。
秋刀魚は焼きたてで、箸でつつくそばから程よく焦げた皮がほろりとめくれ、肉厚な身がじゅわっと弾力をもって応えてくれる。秋刀魚は塩をまぶして焼くのがシンプルで、でも一番美味しいと思う。今度カイリにも焼いてあげたら喜ぶだろうな、そんなことをつい考えながらも美味しい秋の味覚に自然と箸とご飯がすすむ。
「こういう季節の味覚食べていると日本にいてよかったと思うな。秋が来たっていうか、旬の食べ物で四季を感じるというか」
「あ、分かる気がするな。秋が来たから秋刀魚とか栗ご飯が食べたくなるのか、そういうものが食べたくなったときにいつの間にか秋が来ているのか……たまに疑問に思うもの。四季の周期と季節の味覚を身体が覚えてるのかなぁ?」
「うーん、そうなのかも。でもさ、たまに海外旅行するとやっぱり途中で日本食が恋しくなったりしない? 今やたいていの国で日本食の店があるといっても、やっぱり味とか食材とか違うわけだし、日本で日常的に食べている味が食べたくなるというか。やっぱり身体って食べ物でできているだけに正直なのかなって思うの」
鳥子が無邪気に笑うのを見ながらそういえば、とふと気づく。琴美はカイリの世界について何も知らない。カイリがどんな風景で、どんな人に囲まれて、どんなものを食べて育ったのか――何も。カイリもまた、自分の世界の食べ物が一番美味しい、そして恋しいと思うのだろうか。そう思うと胸の奥がずん、と重くなる。
「琴美、どうかした?」
「ううん、お腹いっぱいで眠くなっちゃったみたい。あ、お茶のお替わり淹れるね。飲むでしょ?」
「ありがと。それより琴美、えっと、実は今日は話があってね」
カウンターに置かれた魔法瓶に手を伸ばしたところで声をかけられ、鳥子の方に顔を向ける。心なしかその顔が赤い。何だろう? 琴美は熱いお茶を二人分、湯呑みに注ぎながら、首をかしげた。鳥子の頬はやはり赤く染まっており、どこかその落ち着かなさげな様子で。もじもじと口ごもるなど……キッパリ、ハッキリ、スッキリをそのまま体現したかのような鳥子らしからぬことだ。琴美の訝しげな視線に気づいたのか、鳥子はますます顔を赤くしながらも差し出されたお茶を受け取る。そして、どこか上の空な様子のまま、ぐいっと一息にお茶を煽り——さもありなん、即座に咽せた。
「熱っ!」
「鳥子!? ちょっと、大丈夫?」
慌てて店員に冷たい水を頼み、そのまま手渡せばごくごくと飲み干すその顔はさらに朱に染まっていた。これまたらしからぬ様子にまじまじと見つめれば、鳥子はばつがわるそうに、でも少し照れたような笑いを浮かべる。ゆっくりと差し出されたその左手に、自ずとその指先へと琴美の視線が落ちていく。そこには、薬指にきらきらと瞬くリングの存在がほのかな光を放っていた。
「鳥子、それ……?」
「うん。実は昨日、日曜日にね、課長にプロポーズされたの。真っ先に琴美に伝えたくて……でも社員食堂じゃ他の人の目もあってちょっと落ち着かないし」
「わぁ、おめでとう! いつ、どこで、何て申し込まれたの? 指輪、見せて貰ってもいい?」
「えへ、ありがとう琴美。えっとね、土曜から彼の家にお泊まりしてたんだけど日曜に朝から行きたいところがあるって言われて、車に乗せられたと思ったら銀座でね。まだおつきあいして一年だし、私はちょっと早いと思ったんだけど……まずは婚約というかたちで予約させてほしい、せめて婚約指輪だけでもって言われて」
目を輝かせ、矢継ぎ早に質問を繰り出す琴美に嬉しそうに鳥子は微笑む。「早く言いたくて、定時まで待ちきれなかったの」そう言いながら頬を染めて俯く仕草が、普段の勝ち気な彼女とは趣が異なり……なんとも言えずかわいらしい。
そんな鳥子の左手を琴美はそっと握りしめた。その細い指にしっくりと馴染むそれは、いわゆる定番の縦爪型ではなくきらきらと輝く石を斜めの曲線を描くプラチナの輪が包んだデザインで。それが鳥子にはよく似合う。「縦爪型も素敵だしやっぱり憧れるけど、私のことだからどっかにひっかけちゃうもの」そう笑う彼女の指できらきらと輝くさまが眩しくて……でも、それ以上に眩しいのが鳥子の幸せそうな笑顔だった。
鳥子の相手は同じ社内の営業一課長で、大学時代は空手で鳴らしたと噂の33歳。あのいかにも真面目実直を絵に描いたような、仕事もやり手と評判の彼がしどろもどろになりながら、でも熱心に鳥子を掻き口説いたという様を想像すると……なんとも微笑ましくもいじらしい。
何しろ8歳の年の差と内緒の社内恋愛に加え、部署もフロアも違うわけだからたとえ同じ社内といえども顔を合わすこと自体が珍しい。何より鳥子は明るく、同期会のまとめ役も兼ねているしっかり者だ。いつどこで誰に浚われるか分からない——その危機感と焦りがこの不意打ちとも言えるプロポーズを照れ屋の彼に実行させたのかと思えば……鳥子はまさに女冥利に尽きるの一言だろう。
だが、友人に心からの祝いの言葉を言いながらも、琴美はどこかその存在を遠くに感じてしまう。
鳥子の幸福は琴美にとっての幸せでもあるし、本当に嬉しい。そのことに嘘は無い。でもどこか、自分の中に少しずつ広がっていく空虚な穴を改めて気づかされた気がした。そして、そんなことを思う自分自身がたまらなく厭だ。
それは鳥子が離れていく淋しさ? 他の誰かのものになってしまう寂しさ? 今までと何かが変わってしまうことへの恐れ? それとも嫉妬?
いや——ちがう、そうじゃない。
それは置いて行かれる、取り残されていくことへの恐れにどこか似ていて。
改めて突きつけられる現実。鳥子はこの先の将来を誓い合い、共に歩んでいく人を見つけた。二人で手と手を取り合い、人生という長い道のりを共に歩んでいく。そう、二人で。
だけど琴美は? カイリは? 琴美はいつまでカイリのそばにいることができる? カイリはいつまでそばにいてくれる?
幸せを摘み取った瞬間、失うことを恐れてしまうなんて滑稽だと自分でも思う。
でも、野生の花が室内の花瓶に生けた瞬間、色を失い萎れていく様を、無理矢理結んだ糸がほどけるそばからぷちぷちと切れていく瞬間を——いつも、いつまでも恐れてしまう。
琴美らしくもない、後ろ向きな感情だと自分でもそう思うし分かっている。
でも、その気持ちを止められない。カイリの存在が琴美のなかで大きくなればなるほど、今が幸せであればあるほどに——失うその日を恐れてしまう。
今は琴美のそばにいる彼も、いつまでもそばにいてくれるわけではないだろう。いつまでも、こちらの世界に入り浸っているわけにはいかないだろう。そして、いつかは別れのときがくるのかもしれない。そう思うと——二人の間に横たわる、異なる世界という名の壁がより高く、厚い障壁のように琴美の前に立ち塞がっているかのような気がする。
それはどこか、諦めにも似た気持ちで。
二つ並んだ線は距離が近づくことがあっても交わらない。どこまでいっても一本道だ。平行線なふたりは平行なまま進み、そしてやがて離れてしまうのだろうか……。まっすぐ、それぞれの道を、人生を——それぞれの世界で。
でも、それを諦めきれない自分自身がいる。離れたくない、この手を——離したくない。
もう、あのときのようにカイリが目の前から消えてしまうのは嫌だ。あんな思いをするのは嫌だと。夢もいつかは消えるだろう。夢の国への扉を閉め、現実という部屋に戻る日がいつかはくるのだろう。
ひとりぼっちで、空っぽの手のまま、裸足のままで。
だが、それが少しでも遠い未来ならいい。だからもう少しだけ、あと少しだけこのままで。夢ならば、まだ醒めないでほしい。そう願ってしまう。その願いは祈るようで——まるで届かぬ月に焦がれ、手を伸ばし続けるかのように儚い望みだけれど。
やはりそれは……琴美の我が儘なのだろうか。
解の出ない問いはその日一日、琴美の頭の片隅にこびりつき——どうしても、離れることはなかった。
カイリ、今回は出番なし……。




