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蝶葬  作者: 天ヶ森雀
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蝶葬


 初めは気付かなかった。

 外界を遮断していた彼女には、王以外の者が目の前に立っても、それが何を意味するか分からなかったし、分かろうともしなかった。

「王が身罷りました」

 黒衣のローブを纏った男がそう告げたとき、初めて彼女の額の触覚がわずかに動いた。

 ゆっくりと視線を合わせる。足元の見えぬローブの丈。額には魔石を埋め込んだ(アカガネ)の輪。古来より続いている高位魔導師の様相。卓越した魔術のオーラ。ならば、自分をこの檻に閉じ込めたのは彼なのだ。

「少しだけ、私の話をお聞きください」

 彼の態度は礼節に満ち、神の遣いである蝶に対し、己の分を弁えている。

 そして彼自身の持つ能力で、蝶の心眼を己に向けることに成功していた。

 永い眠りから目覚めるように、蝶は周りの空気に耳を傾ける。

 蝶の覚醒を知覚すると、魔導師は抑揚のない声で語り始めた。

 大きな戦争(いくさ)があった。この国ではない、西の大国同士が利権と覇を争い、周り中を巻き込んだ。周辺国主だった国王も何とか戦火の拡大を防がんと尽力したが、元より仲の悪かった二国である。その勢いは停まる事を知らず、そのやり口は凄惨を極めた。

 やがて。

 互いに兵力も摩耗仕切った頃─どちらから始めたかは誰も知らぬ─お互いの国に毒を撒き始めた。毒は水と空気を汚し、大地を枯れさせ、多くの命を奪っていった。それこそ立案者の予想を大きく上回って。

 土地は荒れ、麦は枯れる。

 わずかに残った収穫を口にしたものは、身体に異常を覚えた。

 声を無くす者、光を失う者、手足が動かなくなる者もいた。

 森に獣や鳥はいなくなり、川に魚もいない。

 戦う者が誰もいなくなっても尚、その地獄絵図は延々と続いたのである。



「…元より国境は人が定めしもの、同じ大地にいる以上被害が及ばぬわけはありませんでした。国中の魔導師と科学者が集められ対策を講じましたが、被害は広がる一方で―」

 不意に言葉が途切れた男の目に、遠く映ったものは守り切れず広がった焦土だろうか。それとも、累々と焼かれるために重ねられた民の屍の山だったろうか。

「貴方が生まれた森は、この地の最後の楽土だったんです。

 陛下が、失われつつあるあの森で貴方を見つけた時、何を思われたかは分かりません。…ただ、生来の病であの姿のまま即位されて以来、あの方は、正妃はおろか愛妾もお持ちになろうとなさらなかった。

 貴方は、彼の君が望んだ唯一の存在でした」

 そこまで言うと、男は大きくひとつ、息を吐いた。

「どんな方法を使っても、貴方の姿を残せとの仰せでした。と、同時に何があっても森を守れとお命じになられた―」

 多くの魔導師や科学者の力で、森の僅か一部が守られた。

 毒の循環を断ち切るためには、その多くを焼き払うしかなかった。

 そこまでしてその森を守る理由を、王は口にせず、配下の者たちもその問いを発する事はなかった。

 恐らくは、その森の僅か一部だけでも残し得る事が、人々にとってわずかな希望の象徴となっていたのだ。

 それでも―、

 人の身が神蝶を拉致して良い理由にはならない。

 男は神蝶に対する己の罪を自覚していた。が、もちろん謝罪が無為であることも知っていた。

 部屋には再び沈黙が訪れる。白い指はもう、七角形をなぞってはいない。海底の、深い闇のような沈黙を破ったのは、彼女の方だった。


「あのひとは、どこ―?」



 王族のみが葬られる、教会の尖塔にあるさほど広くない最上階の安置場で、美しいアラベスク模様が彫り込まれた石の棺の中に王は横たわっていた。

 肉の削げた頬が最期の苦痛を思わせ、幼い姿がいっそう痛々しい。

 只でさえ成長しない体を持ち、その上強いられた毒との戦いで、彼の体は死に蝕まれる事を自覚していた。

 蝶は床に跪くと、王の顔をのぞきこんだ。

 彼女にしか見えない魂の片鱗が僅かに残っている。

(私の声が聞こえる?)

(…ああ。)

(あなたが捕えた虫を、覚えていて?)

(ああ、覚えてる)

(貴方は私を閉じ込めた。何も話さず、何も求めなかった。本当のことを言えば、私はあんなに苦しむこともなかった。貴方の事を憎んで拒む事も。―なぜ?)

(何も、話す必要などないと思ったからな)

(そのせいで私が狂っても?)

(…森が生き返るとは限らなかった。無駄な夢を見せる必要はあるまい?)

(―なぜ、私だったの)

(…そうだな、あの喪われつつある森で、孵化したばかりのお前を見た時──我を忘れて手を延ばした。覚えているか? お前は自ら私の手にとまったんだ)

 王の指先に残る淡い蝶の軌跡。

 少女の脳裏に甦る、森の残像。濃密な森の空気を吸い込み、ふと瞳を開けると眼下に彼がいた。

 見開いた目。少女より尚、幼く見える容貌なのに、なぜか永遠の孤独を知るような深い闇色の瞳。

(あの時…あの時…、何かが私を引き寄せた…)

 蝶は、眉根を寄せて記憶を手繰り寄せようとした。

(俺の、ものだと思った。俺だけのものだと)

(分からない、分からない…)

(守ろうと思った、どんな手段を使っても、と)

(私を見る貴方のー…)

(その反面、誰の目にも触れさせたくなかった)

(貴方の目が…)

(俺だけのものにしてしまいたかった)

(こわ…く…て───)

(憎まれても構わない。ただ、お前を見つめていたかった…)

 蝶は自らの口を両手で覆うと、嗚咽をもらした。

(分かってる? 貴方はひどい人だわ)

(―ああ、そうだな)

 長じる事のなかった声に苦笑が混ざる。

 耐えきれず俯き、そのまま両手で自分の顔を覆った。

 この時、胸の奥に沸き上がった感情が何なのか、蝶には分からなかった。憎しみではない。悲しみとも違う。心臓を擦るような熱い痛み。

 後ろに控えた魔導師が、かける言葉もなく立ち尽くしていた。

「…本当にひどい人…」

 訝しげにのぞきこんだ魔道士の目に、痛みを堪えるように笑う彼女が映る。

 蝶はそのまま王の上に屈みこむと、静かに唇を重ねた。

 不意に石室が光に満ちる。

 目を刺すような激しい光に魔道士が目を背けた瞬間、少女の姿は消えていた。替わりに、一羽の蝶がひらりと舞い上がり、高窓から飛んでいく。

 魔道士が慄きながらも改めて王の棺を見下ろすと、感情のなかった死に顔に僅かに笑みのようなものが見えた気がした。

「これで良かったのですか、兄上―…」

 蝶が飛び立った高窓からは淡い日差しがさしこみ、王の顔を照らしている。

 魔道士は諦念の笑みを浮かべ、(こうべ)を垂れると、深く静かに瞑目した。




 荒れた土地を無心に耕していた、痩せっぽちで泥だらけの手がとまる。暮れてゆく茜色の空を見上げ、はしゃいだ声をあげた。

「母さん、蝶だよ。 蝶が飛んでる!」

 声をあげた子供のかたわらで、盲いた母親が笑顔を見せた。

「おや、蝶なんてこの目が見えなくなるより前からいなくなったと思っていたけどねぇ。で、一体どんな蝶なんだい?」

「とっても綺麗な蝶だよ。真っ白でね、ふちが光をまぶしたようにきらきらしてる。まるでこの世のものじゃないみたいだ…」

 まだ絶望に沈み切っていない幼い声が、うっとりと頬を染める。

「それは…神蝶かもしれないねえ。きっとどこかで高貴なお方が亡くなったんだろうよ」

「どうして?」

「蝶はね、死者の魂を運ぶのさ」



                     <END>


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