第九話 魔導の塔
重厚な金属の扉が閉ざされ、リディアとアビスは完全なる闇の中に閉じ込められた――かに思われた。
だが、次の瞬間。
ポッ、ポッ、ポッ……。
足元の床に埋め込まれていたラインが、ドミノ倒しのように順に発光し始めた。
青白い光は、どこまでも続く長い回廊を浮かび上がらせ、奥へと誘うように明滅している。
「わあぁ……! 綺麗です! まるで光の道ですね!」
リディア・クレセントは、瞳をキラキラさせて歓声を上げた。
彼女の脳内では、ここが「古代遺跡」という危険地帯から、「イルミネーションが綺麗な屋内テーマパーク」へと書き換わったようだ。
「行きましょう、アビスさん! この光を辿っていけば、きっとゴールに着くはずです!」
(……単純な奴だ。だが、警戒しろ)
リュックサックから顔を出したアビス(犬)は、周囲の空間に充満する濃密な魔力に鼻をヒクつかせた。
ここは「魔導の塔」。
かつて、この大陸で最も賢く、そして最も性格の悪かった魔導師たちが集っていた研究施設だ。
ただの通路であるはずがない。
(……この魔力配列。空間歪曲の結界か? いや、侵入者迎撃用の自動防衛システムが生きてやがる)
アビスの魔眼が、壁や床の裏側に隠された、無数の術式を捉えていた。
即死級の罠だらけだ。
普通の冒険者なら、最初の一歩で消し炭になっているレベルである。
「では、出発進行ー!」
リディアが、なんの躊躇もなく光る床を踏みしめた。
カチッ。
微かな音が響いた。
アビスの毛が逆立つ。
(……踏んだッ!)
「ん? 靴紐が……」
リディアがふと、足元を気にして前屈みになった。
それと同時に、壁の隙間から、高密度の魔力レーザーが射出された。
それはリディアの首の高さに設定された、不可視の断頭台。
ビュンッ!
レーザーは、リディアのポニーテールの数ミリ上を通過し、反対側の壁を焦がした。
ジュッ、という音がしたが、リディアは靴紐を結び直すのに夢中で気づかない。
「よし、結べました!」
(……マジかよ)
アビスは目を丸くした。
偶然だ。
一〇〇パーセント、まぐれだ。
だが、その「まぐれ」は、ここから始まる奇跡の序章に過ぎなかった。
◇
第一のエリア、「幻惑の回廊」。
そこは、床のタイル一枚一枚に異なる魔法陣が描かれた、巨大なパズルのような空間だった。
(……ここは知っている。論理パズルだ)
アビスは記憶を辿った。
『真実は常に偽りの中にあり、赤き月は青き太陽を喰らう』。
そんな難解な暗号を解読し、正しい色のタイルだけを踏んで進まなければ、天井から雷撃が降り注ぐという、陰湿な仕掛けだ。
(……いいか、リディア。俺様が指示する通りに歩け。まずは右の『赤』、次は左斜め前の『青』だ)
アビスが念話を送ろうとした、その時だった。
「わあ! ケンケンパですね!」
リディアが跳ねた。
論理もへったくれもない。
彼女は、子供の遊びである「ケンケンパ」のリズムで、ランダムにタイルを飛び跳ね始めたのだ。
「ケン、ケン、パッ! ケン、パッ!」
(……やめろバカ! それは『爆発』のルーンだ! そっちは『麻痺』だ!)
アビスの悲鳴(心の声)が響く。
だが。
シーン……。
何も起きない。
リディアが踏んだタイルは、全て「正解」のタイルだったのだ。
確率は数千分の一。
それを、彼女は「リズムが合うから」という理由だけで、完璧に踏み抜いていく。
「ふふっ、楽しいですね! 昔よくやりました!」
リディアは満面の笑みで、最後のタイル――「ゴール」を踏みしめた。
背後では、踏まれなかった不正解のタイルたちが、悔しげに明滅しているように見えた。
(……デタラメだ。こいつの運の良さは、確率論を超越してやがる)
アビスは戦慄した。
この塔の設計者たちがこれを見たら、泡を吹いて倒れるに違いない。
◇
続いて現れたのは、第二のエリア、「無限書庫」。
左右の壁一面に、天井まで届く本棚が並び、無数の本が詰め込まれている。
通路は迷路のように入り組み、角を曲がるたびに景色が変わる。
(……空間魔法による無限ループか)
アビスは看破した。
ここは、正しい順路を知らなければ、永遠に同じ場所を彷徨い続け、やがて餓死するという恐ろしいエリアだ。
正規の攻略法は、特定の本を抜き出し、隠しスイッチを作動させることだが……。
「う~ん、似たような景色ばかりで飽きてきましたね」
リディアは、迷路の真ん中で立ち止まり、腕を組んだ。
「迷ったときは、直感です!」
彼女は、キッと顔を上げ、何の変哲もない壁の一点を指差した。
「あっちから、なんとなく『風』を感じます!」
(……そこは行き止まりの壁だぞ?)
「いいえ、私の勘がそう言ってます! たぁっ!」
ドゴォォォォォンッ!
リディアは、行き止まりの壁に向かって、全力の正拳突きを放った。
オリハルコン製の壁ではない、魔力で構成された仕切りの壁が、ガラスのように粉砕される。
パリーンッ!
壁の向こうには、なんと「上り階段」があった。
迷路の正規ルートをすべて無視し、壁をぶち抜いてショートカットしたのだ。
「ほら、ありました! やっぱり風が吹いてたんですね!」
(……風じゃねえ。お前の拳圧で風が起きたんだよ)
アビスは、がっくりと項垂れた。
この塔のギミックが、泣いている。
「謎解き」という概念への、完全なる暴力による解答。
これを「攻略」と呼んでいいのかは甚だ疑問だが、前に進んでいることだけは事実だった。
◇
階段を登りきると、そこは中層エリアの広間だった。
今までの通路とは異なり、円形の広い空間になっている。
部屋の中央には、古びた宝箱が一つ、ポツンと置かれていた。
「あっ! 宝箱です!」
リディアが目を輝かせて駆け寄ろうとする。
(……待て。あれは罠だ)
アビスが鋭く警告した。
あんな露骨な場所に宝箱があるわけがない。
あれは、「擬態魔獣」。
宝箱に化け、不用意に近づいた冒険者を頭から丸呑みにする、凶悪なモンスターだ。
「え? 罠ですか? でも、すごく豪華な装飾ですよ?」
(だから罠なんだよ。欲に目がくらんだ奴を食うためのな)
「なるほど……。では、慎重に開けましょう」
リディアは頷き、宝箱の正面に立った。
そして、そっと手を伸ばし……。
ガバァッ!
宝箱の蓋が、巨大な顎となって開き、鋭い牙がリディアの手を噛み砕こうと襲いかかった。
やはりミミックだ!
「わっ! 噛みついてきました!」
普通なら、ここで手首を持っていかれる。
だが、リディアは違った。
ガシッ。
彼女は、襲いかかるミミックの上顎と下顎を、両手で掴んで受け止めたのだ。
「なんて行儀の悪い箱なんでしょう! 人に噛みついちゃダメですよ!」
ギギギギギ……ッ!
ミミックが必死に顎を閉じようとするが、リディアの怪力の前には無力だった。
逆に、リディアの手によって、ミミックの口が限界を超えてこじ開けられていく。
「中身を確認させていただきます! ……はい、オープン!」
メキメキメキッ……バキィッ!
哀れなミミックは、顎を外され、蝶番を破壊され、完全に無力化されて床に伸びた。
中から、ポロリと一つのアイテムが転がり出る。
それは、青く輝くクリスタルキーだった。
「あら、鍵が入ってました! ……ごめんなさいね、箱さん。痛かったですか?」
リディアは、伸びているミミック(白目を剥いているように見える)の頭を優しく撫でた。
ミミックは恐怖に震え、「キ……キュゥ……(もう勘弁してください)」と小さく鳴いて、自ら部屋の隅へと退散していった。
(……ミミックに同情したのは初めてだ)
アビスは、遠い目をした。
魔獣すらも畏怖させる「捕食者」としてのオーラ。
この女、もしかしたら魔王の素質があるかもしれない。
◇
クリスタルキーを使い、さらに奥へと進む。
塔の構造は複雑怪奇を極めていたが、リディアの「直感(という名の幸運)」と「筋力(という名の物理破壊)」の前には、あらゆる障害が無意味だった。
動く床のトラップは、床が動く前に駆け抜けた。
毒ガスの充満する部屋は、「息を止めてダッシュ」で突破した。
問答をするスフィンクス像は、リディアのトンチンカンな回答にスフィンクスが頭を抱えて悩み込んでしまい、その隙に通り抜けた。
そして。
二人はついに、塔の中枢エリアと思われる、巨大な扉の前に辿り着いた。
「ふぅ……。いい運動になりましたね!」
リディアは、額の汗を拭う仕草をした。
アビスは、精神的にどっと疲れていた。
古代の魔導士たちがかつて心血を注いで構築に関わったセキュリティシステムが、こうもあっさりと、しかもコメディのように突破されたことに、古代魔導文明の一人としてのプライドがズタズタだった。
(……まあ、いい。着いたぞ、リディア)
アビスは、目の前の扉を見上げた。 そこには、古代語でこう記されている。
『―――記憶の回廊。過去を知る覚悟無き者、立ち入るべからず』
ここだ。
この奥に、アビスが探し求めていた情報がある。
自分の起源。
そして、自分を縛る「呪い」の正体。
「記憶の回廊……? 何か、難しい本がたくさんありそうな名前ですね」
リディアが扉に手をかける。
重厚な扉は、意外なほど滑らかに、音もなく開いた。
「行きましょう、アビスさん。きっとここに、カレーのレシピ以上の『お宝』があるはずです!」
リディアの明るい声とは裏腹に、アビスの心臓は早鐘を打っていた。
期待と、不安。
真実を知ることへの恐怖。
だが、もう引き返すことはできない。
開かれた扉の向こうには、闇の中に無数のモニターが浮遊する、異質な空間が広がっていた。
それは、剣と魔法の世界には到底似つかわしくない、冷徹な「魔導科学」の光景だった。
(……ああ。覚えているぞ、この光景)
アビスの脳裏に、封印されていた記憶の断片がフラッシュバックする。
白い部屋。
拘束具。
無機質な機械音。
そして、痛み。
「……アビスさん?」
リディアが、アビスの異変に気づいたのか、心配そうに声をかけてくる。
アビスの体が、小刻みに震えていたからだ。
(……なんでもねえ。武者震いだ)
アビスは、虚勢を張って答えた。
そして、自らの足で歩くために、リディアのリュックから飛び降りた。
(……ここからは、自分の足で確かめる)
黒いポメラニアンが、勇者(の末裔)の先導を切って、暗い部屋へと歩みを進める。
その背中は、いつになく小さく、そして孤独に見えた。
部屋の中央。
巨大なメインスクリーンが、侵入者を感知して、静かに起動を始めた。
ブゥン……。
ノイズが走り、砂嵐の向こうから、映像が浮かび上がってくる。
それは、千年以上前に録画された、ある「実験」の記録だった。




