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最恐魔人、勇者(♀)のペットになる3 ~ 古代文明の謎 ~  作者: 神凪 浩
第一章 魔人と勇者の奇妙な旅路
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第五話 温泉宿のハプニング

 山岳地帯と深い森を抜け、リディアとアビスの一行が辿り着いたのは、白煙立ち込める渓谷の町だった。

 硫黄の独特な香りが鼻腔をくすぐり、至る所から噴出する蒸気が視界を白く染める。

「わぁ……! すごいです、アビスさん! 見てください、地面から雲が出てますよ!」

 リディア・クレセントは、目をキラキラさせて周囲を見回した。

 ここは大陸でも有数の温泉郷、「湯の里・カゲロウ」。

 旅の疲れを癒やすには、これ以上ないロケーションである。

(……フン。硫黄の臭いだ。地獄の釜の蓋が開いてるみてえだな)

 リュックサックから顔を出したアビス(犬)は、憎まれ口を叩きつつも、鼻をヒクつかせた。

 悪くない。

 冷え切った体には、この温かい湿気が心地よい。

 前回の廃屋での雨宿りも記憶に新しいが、やはり風呂というのは文明的な休息の象徴だ。

「さあ、早く宿を探しましょう! 汗を流して、美味しいご飯を食べて……ふふっ、楽しみです!」

 リディアが足早に石畳の坂道を登ろうとしたその時、腰のポーチから呼び出し音が鳴り響いた。


 ピロロロロ……!


「あ、お父様からです!」

 リディアは慣れた手つきで「対の伝言石」を取り出し、魔力を通した。

 ポンッ、と空中にバルドルのホログラムが投影される。

「―――リディア! 今日の移動はそこまでか!? そこは温泉街だな!?」

 バルドルは、背景の湯けむりを見るなり、鬼のような形相で叫んだ。

「いいか、リディア! 心して聞け! 温泉街には「混浴(こんよく)」という破廉恥極まりないシステムが存在する場所があるらしい! 絶対に近づくんじゃないぞ!」

「こんよく? ……なんですか、それ?」

「知らなくていい! とにかく、お前は「貸切風呂」を使うんだ! そして、風呂場では絶対に隙を見せるな! 覗き魔がいるかもしれん! もし壁に穴が開いていたら、即座に聖剣で壁ごと突き刺すんだ!」

「壁ごとですか……。お父様、修繕費がかかっちゃいますよ?」

「娘の尊厳と修繕費、どっちが大事だと思っているんだ!」

 バルドルの過保護な絶叫が温泉街にこだまする。

 周囲の観光客がクスクスと笑っている。

 アビスは、恥ずかしさのあまりリュックの中に顔を引っ込めた。

(……おい、早く切れ。俺様まで変な目で見られる)

「分かりましたよ~。心配性ですね。……じゃあ、アビスさんのお風呂も借りますから、また明日!」

「あっ、待て! その犬コロと一緒に入るのか!? それも一種の混浴では……ブツッ」

 リディアは、父親の最後のアドバイス(悲鳴)を聞き流し、通信を切った。

「もう、お父様ったら。アビスさんは犬なんですから、一緒に入っても問題ないですよね?」

(……ま、犬だからな)

 アビスは内心でニヤリとした。

 この「犬という免罪符」がある限り、堂々と女湯(貸切だが)に潜入できる。

 これぞ、ペットに堕ちた魔人に許された唯一の特権だ。


 ◇


 二人が投宿したのは、老舗の温泉宿「白鷺の湯」。

 リディアが奮発して取ったのは、離れにある「露天風呂付き客室」だった。

 誰にも邪魔されず、ゆっくりと湯浴みができる贅沢な空間だ。

「う~ん、極楽ですねぇ……」

 脱衣所で服を脱ぎ捨てたリディアは、バスタオル一枚を体に巻き、アビスを抱えて露天風呂へと向かった。

 岩で作られた湯船には、乳白色の湯がなみなみと注がれ、湯面には紅葉した葉が数枚浮いている。

 その向こうには、竹垣越しに庭園のような風情ある景色が広がっていた。

「さあ、アビスさん! まずは体を洗いましょうね!」

 リディアは、洗い場の桶にお湯を汲み、アビスを容赦なく濡らした。

(……おい、熱い。温度調節しろ)

「ゴシゴシ~♪ ゴシゴシ~♪」

 リディアは鼻歌交じりに、アビスの全身に石鹸を泡立てて擦り込んでいく。

 その手つきは、愛犬を洗うというよりは、ジャガイモを洗うような豪快さだ。

 泡だらけになったアビスは、抵抗する気力もなく、されるがままになっている。

(……くそっ。魔人の威厳が泡と共に消えていく……)

 屈辱の洗浄タイムが終わると、リディアはシャワーで泡を洗い流し、アビスを湯船の縁に乗せた。

「はい、綺麗になりました! ……あっ!」

 リディアが突然、声を上げた。

「大変です、アビスさん! 『湯上がりのフルーツ牛乳』を買ってくるのを忘れました!」

(……は?)

「お風呂と言えばフルーツ牛乳です! 売店で売っていたのを見たんです! あれを飲まずして、温泉は語れません!」

 リディアは立ち上がり、慌てて脱衣所の方を見た。

「アビスさん、ここで待っていてください! 私、ダッシュで買ってきますから! すぐ戻ります!」

 彼女はバスタオルを巻き直し、脱衣所へと駆け込んでいった。

 パタパタパタ……と足音が遠ざかり、客室の扉が開閉する音が聞こえる。


 静寂が戻った。

 湯気が揺らめく露天風呂には、一匹の濡れた黒い犬だけが残された。


 チャポン。


 アビスは、前足で湯面を叩いた。

 誰もいない。

 気配を探る。

 リディアの気配は、廊下の向こう、売店の方へと遠ざかっている。

(……チャンスだ)

 アビスの瞳が、怪しく輝いた。

 犬の体で温泉に入っても、毛が濡れるだけで気持ちよくもなんともない。

 やはり、温泉は「人間の肌」で感じてこそだ。

(……本日の三分解呪、ここで行使する!)

 アビスは集中した。

 遮断弁に楔を打ち込み、魔力を解放する。

(……解呪(ディスペル)ッ!)

 カッ!

 湯けむりの中で閃光が走り、黒い犬の姿が掻き消えた。

 代わりに現れたのは、鍛え抜かれた肉体を持つ、長身の魔人。

 銀色の長髪が湿った背中に張り付き、赤い瞳が湯気を透かして輝く。

「……ふぅーーーーーっ」

 魔人アビスは、ざぶりと湯船に身を沈めた。

 肩までお湯に浸かり、大きく息を吐き出す。

「……極楽、か。……人間風情が良い言葉を作るじゃねえか」

 温かい湯が、凝り固まった筋肉をほぐしていく。

 これだ。

 この開放感。

 犬の狭い視界と不自由な四肢から解放され、本来の自分を取り戻す瞬間。

「……さて。風呂には、やはりこれが必要だな」

 アビスは、虚空に手をかざした。

 「亜空間ポケット」を開き、中から一本の瓶を取り出す。

 『特選・コーヒー牛乳』。

 リディアがフルーツ牛乳なら、大人の男はコーヒー牛乳だ。


 ポンッ。

 小気味良い音を立てて蓋を開け、腰に手を当てて一気に煽る。

「……プハァッ! ……美味い!」

 甘くほろ苦い液体が、火照った体に染み渡る。

 温泉とコーヒー牛乳。

 魔人の辞書に新たな「至福」の項目が書き加えられた瞬間だった。

 アビスは、湯船の縁に肘をつき、夜空を見上げた。

 月が綺麗だ。

「……世界征服の暁には、全大陸にこの温泉システムを導入させてやるか……」

 そんな平和な野望を抱いた、その時だった。


 ダダダダダダダッ!


 廊下を走る、猛烈な足音が聞こえた。

 そして、客室の扉が勢いよく開く音。

「ただいま戻りましたー! アビスさーん!」

(……ッ!?)

 アビスは、コーヒー牛乳の瓶を取り落としそうになった。

 早い。

 早すぎる。

 リディアが出て行ってから、まだ一分も経っていないはずだ。

 あの女、縮地でも使ったのか?

「財布を忘れちゃって! てへへ!」

 リディアの声が、脱衣所の方から近づいてくる。

 まずい。

 非常にまずい。

 ここは「貸切風呂」だ。

 今、リディアが入ってきたら、そこには「全裸の成人男性(不審者)」がいることになる。

 バルドルの教えを忠実に守る彼女のことだ。

 問答無用で聖剣を抜き、壁ごと、いや、岩風呂ごと俺様を串刺しにするに違いない。

(……犬になれ! 急げ!)

 アビスは慌てて魔力を操作しようとした。

 だが。 焦りが集中力を乱す。

 それに、まだ解呪してから数十秒しか経っていない。

 魔力回路が安定期に入っており、急激な遮断には数秒のタイムラグが生じる。


 ガララッ!


 脱衣所と露天風呂を隔てる引き戸が開いた。

「アビスさん? どこですかー?」

 リディアが顔を出した。

 万事休す。


 ―――かと思われた。


 だが、今の露天風呂は、源泉かけ流しの豊富な湯量により、猛烈な湯けむりに包まれていた。

 視界は一メートル先も見えないほどだ。

(……助かった……! この湯気なら誤魔化せる!)

 アビスは、とっさに湯船の奥にある巨大な岩の陰に身を隠した。

 首までお湯に浸かり、気配を殺す。

「あれ? アビスさん?」

 リディアが、湯けむりの中を歩いてくる。

 ペタ、ペタ、ペタ。

 素足が濡れた石畳を踏む音が、心臓の鼓動のように響く。

(……来るな。あっちへ行け。財布を取りに来ただけだろ、さっさと戻れ)

 アビスは心の中で祈った。

 だが、リディアは犬の姿が見当たらないことに不審を抱いたようだ。

「おかしいですね……。『動くな』って言ったのに。もしかして、お湯に溺れて……!?」

 リディアの推測が、最悪の方向へと転がった。

 彼女は、湯船の方へと駆け寄ってくる。

「アビスさん! 返事をしてください! ワンと言って!」

 近い。

 すぐそこまで来ている。

 岩の向こう側に、リディアの気配がある。

 もし彼女が岩を回り込んで来たら、完全にアウトだ。

(……くそっ、どうする!? 声を出せばバレる、出さなければ探しに来る……!)

 アビスは、絶体絶命のピンチに脳をフル回転させた。

 犬の鳴き真似をするか?

 いや、人間の声帯でリアルな犬の声を出すのは至難の業だ。

 特にリディアは毎日アビスの声を聞いている。

 違和感を持たれたら終わりだ。

 その時、アビスの手元に、空になったコーヒー牛乳の瓶があるのが目に入った。

 これだ。

 アビスは、瓶を湯船の反対側の縁に向かって、スナップを利かせて投げた。


 カポーン。


 瓶が岩に当たり、小気味良い音を立ててお湯に落ちた。

「っ! あっちですね!?」

 リディアが反応した。

 音のした方――アビスがいる岩陰とは正反対の方向へ向かって、湯の中をジャブジャブと進んでいく。

「アビスさん! 無事ですか!」

 今だ。

 リディアが背を向けた、この一瞬しかない。

(……戻れ! 犬に!)

 アビスは、必死に念じた。

 残り時間など知ったことか。

 魔力を強制的に遮断し、解呪を解除する。


 シュゥゥゥゥ……。


 湯けむりに紛れて、アビスの体が縮んでいく。

 長い手足が短くなり、銀髪が黒い毛並みに変わり、視界がガクンと低くなる。


 チャポン。


 黒いポメラニアン(アビス)は、お湯の中で犬かきをしながら、水面から顔を出した。

 ギリギリ、セーフだ。

「……あれ? いない?」

 反対側を探していたリディアが、振り返った。

 そこには、岩の陰からひょっこりと顔を出して泳いでいる、アビス(犬)の姿があった。

「ああっ! いました! アビスさん!」

 リディアが満面の笑みで駆け寄ってくる。

 そして、濡れたアビスを抱き上げた。

「もう! 心配させないでくださいよ! 溺れちゃったのかと思いました!」

(……溺れかけたのは、俺様の心臓だ)

 アビスは、心底疲れた顔で脱力した。

 もう二度と、この女の近くで解呪などするものか。

「ん? あれは……?」

 リディアが、湯船にプカプカと浮いている「何か」に気づいた。

 アビスが投げた、コーヒー牛乳の空き瓶だ。

 リディアはそれを拾い上げ、不思議そうに首を傾げた。

「コーヒー牛乳の瓶……? 空っぽですね」

 アビスの心臓が再び跳ね上がった。

 証拠隠滅を忘れていた。

 まずい。

 犬が自分で瓶の蓋を開けて飲むわけがない。

 誰か(人間)がここにいた証拠だ。

 リディアが「覗き魔がいる!」と騒ぎ出したら、宿中が大パニックになる。

「…………はっ!」

 リディアが、ハッと目を見開いた。

 いつもの、あの「閃き」の顔だ。

「わ、わかりました……!」

 彼女は、空き瓶を両手で包み込み、震える声で言った。

「これは……『お風呂の妖精さん』の仕業ですね!」

(……またかよっ!!!)

 アビスは、安堵と共に盛大にツッコミを入れた。

 妖精、働きすぎだろ。

 なんでもかんでも妖精のせいにするな。

「きっと、妖精さんも喉が渇いていたんですね! 私たちのために良いお湯を沸かしてくれたお礼に、一杯いただいたに違いありません!」

 リディアは、空き瓶に向かって深く頭を下げた。

「妖精さん、どうぞ召し上がれ! お代わりが必要なら言ってくださいね!」

 アビスは、リディアの腕の中で「やれやれ」と首を振った。

 まあ、いい。

 結果的に、俺様はコーヒー牛乳を堪能し、正体もバレず、リディアもハッピーだ。

 これぞ、Win-Winの関係というやつだろう。

「さあ、アビスさん。もう一度温まりましょう!」

(……もう十分だ。のぼせる)

 湯けむりの中で、一人と一匹の賑やかな声が響く。

 波乱の温泉タイムは、こうして「妖精さんのイタズラ」という優しい嘘に包まれて幕を閉じたのだった。

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