第四話 雨宿りの廃屋
ポツリ、ポツリ。
不穏な黒雲から落ちてきた雨粒は、またたく間にその勢いを増し、さらに数分後には、世界を白く染め上げるほどの豪雨へと変貌していた。
ザアアアアアアアアッ!
滝のような雨が、容赦なく大地を叩く。
時折、ピカッと空が光り、遅れて腹の底に響くような雷鳴が轟く。
ゴロゴロ、ドガァァァン!
「ひゃああっ! すごい雨ですね、アビスさん!」
リディア・クレセントは、フードを頭からかぶり、泥濘んだ山道を走っていた。
先ほどまでのハイキング気分はどこへやら、今は自然の猛威との戦いだ。
リュックの中のアビス(犬)は、防水加工された布の下で、不快そうに身を縮めていた。
(……チッ。最悪だ。犬の嗅覚だと、雨の匂いが鼻について仕方ねえ)
アビスは心の中で悪態をついた。
犬の体は、濡れると独特の獣臭さを発する。
高貴なる魔人である彼にとって、自分の体が「濡れた雑巾」のような臭いを発するのは、耐え難い屈辱だった。
それに、寒い。
小型犬の体積では、体温を奪われるのも早いのだ。
「アビスさん、大丈夫ですか? 濡れてませんか?」
リディアが走りながら声をかけてくる。
自分はずぶ濡れになりながら、背中の荷物だけは必死に守ろうとしているのが分かる。
(……俺様の心配より、自分の足元を見ろ。転ぶぞ)
アビスが忠告しようとした、その時だった。
稲光が走り、闇の中に一つのシルエットが浮かび上がった。
森の開けた場所に、古びた建物が建っている。
「あ! あそこに建物があります! 雨宿りさせてもらいましょう!」
リディアは希望を見出したように声を弾ませ、その建物へと駆け込んだ。
◇
そこは、廃屋だった。
かつては樵か猟師が使っていた小屋なのだろうか。
屋根は半分腐り落ち、窓ガラスは割れ、壁には蔦が絡まり放題になっている。
入り口の扉は蝶番が外れかけ、風が吹くたびにギィー、ギィーと不気味な音を立てていた。
どう見ても、幽霊屋敷である。
あるいは、三流ホラー小説の冒頭に出てくる「絶対に入ってはいけない場所」だ。
(……おい、待て。嫌な予感がする)
アビスは警告を発したが、ずぶ濡れのリディアには届かなかった。
「お邪魔しまーす! すみません、雨宿りさせてくださーい!」
リディアは元気よく挨拶をして(誰もいないのに)、廃屋の中へと足を踏み入れた。
中は薄暗く、埃とカビの臭いが充満していた。
床板は腐って穴が開き、天井の隅には巨大な蜘蛛の巣が張っている。
「う~ん、誰も住んでいないみたいですね。ちょっと散らかってますけど、雨風は凌げそうです!」
リディアはポジティブに解釈し、比較的床がしっかりしている暖炉の前にリュックを下ろした。
そして、中からアビスを取り出す。
「アビスさん、寒くないですか? すぐに乾かしますね!」
リディアは、自分の服から滴る水を絞るのも後回しにして、タオルを取り出し、アビスの体を丁寧に拭き始めた。
ゴシゴシ、ワシャワシャ。
(……おい、やめろ。耳を強く拭くな。痛い)
アビスは抗議したが、リディアの手は止まらない。
彼女の手は冷え切って震えていたが、アビスを拭くその動作には、確かな愛情と気遣いがこもっていた。
「よし、これで大体乾きましたね! ……クションッ!」
リディアが大きなくしゃみをした。
彼女自身は、頭から爪先までぐっしょりと濡れている。
薄手の旅装束が肌に張り付き、唇は紫色になりかけていた。
「うぅ……寒いです……。火を熾さないと……」
リディアは震える手で、暖炉の中に残っていた古い薪や、部屋の隅にあった木切れをかき集めた。
そして、火打ち石を取り出し、カチカチと打ち鳴らす。
だが、湿気を含んだ空気と、濡れた手元のせいで、火花は散るものの、なかなか薪に燃え移らない。
「くっ……つきません……。湿気ってる……」
カチッ、カチッ。
焦りと寒さで、リディアの手元が狂う。
火種は生まれても、すぐに消えてしまう。
(……不器用な奴だ。魔法の一つも使えれば楽なんだがな)
アビスは、乾いた毛並みを取り戻した体で、じっとその様子を見ていた。
勇者の血統は、魔力耐性は高いが、魔法の行使は苦手な傾向にある。
リディアもその例に漏れず、魔力はあるのに「放出」しかできないタイプだ。
火を熾すような繊細な魔法は使えない。
「うぅ……ごめんなさい、アビスさん……。私がもっと、手際が良ければ……」
リディアは、何度も失敗し、ついには力尽きたように肩を落とした。
極度の疲労と寒さが、彼女の体力を奪っていたのだ。
ワイバーン戦での激しい運動、その後の山歩き、そしてこの雨。
さすがの勇者の末裔も、限界だった。
「……少しだけ、休憩します……。目が覚めたら、また……火を……」
リディアは、暖炉の前の冷たい床に座り込み、膝を抱えた。
濡れた服のまま。
意識が朦朧としているようだ。
「……おやすみなさい、アビスさん……」
数秒後。
彼女の呼吸は、静かな寝息へと変わった。
だが、その体は小刻みに震えている。
(……おい。ここで寝るな。死ぬぞ)
アビスは、リディアの鼻先を前足でペチペチと叩いた。
反応がない。
完全に寝落ちている。
ゴロゴロ……ドォォン!
外では雷鳴が轟き、隙間風がヒュウと吹き込んでくる。
室温はどんどん下がっていく。
このまま濡れた服で寝続ければ、間違いなく低体温症になるか、酷い風邪を引くだろう。
(……面倒なことになりやがった)
アビスは、リディアの震える背中を見つめ、思案した。
放っておくか?
いや、それはマズい。
こいつが倒れれば、俺様の「移動手段」がなくなる。
それに、食事の世話や、呪いを解くための旅もストップしてしまう。
それは、俺様の「世界征服計画(準備中)」にとって大きな損失だ。
(……あくまで、俺様のためだ。勘違いするなよ)
アビスは、誰に言い訳するでもなく、心の中で呟いた。
そして、周囲の気配を探った。
この廃屋に、他に生物はいない。
外は豪雨。誰も来るはずがない。
(……使うか。本日の「三分間」を)
アビスは、深く息を吸い込んだ。 体内の魔力回路を解放する。
(……解呪ッ!)
闇色の光が、廃屋の中を一瞬だけ満たした。
犬のシルエットが弾け飛び、その場に長身の男が姿を現す。
漆黒のロングコート。
銀色の長髪。
そして、深淵を映すような赤い瞳。
魔人アビス、降臨である。
「……ふん。カビ臭い部屋だ」
アビスは、顔をしかめた。
人間(魔人)の姿に戻った彼は、まず自分のコートの襟を正し、冷え切った室内を見渡した。
そして、足元で丸まっているリディアを見下ろす。
彼女は、子供のように小さくなって震えていた。
「……世話の焼ける飼い主だ」
アビスは、呆れたように吐き捨てると、右手を暖炉にかざした。
「……種火」
ボッ。
彼が指を鳴らすと、湿気っていたはずの薪が、まるでガソリンでもかかっていたかのように、一瞬で爆発的に燃え上がった。
オレンジ色の炎が、パチパチと音を立てて踊り始める。
部屋の中に、暖かな光と熱が広がっていく。
だが、これだけでは足りない。 リディアの服は濡れたままだ。
「……チッ。サービスだ、受け取れ」
アビスは左手をリディアに向けた。
「乾燥」
掌から、温風のような、目に見えない魔力の波動を放出する。
生活魔法の一種だが、魔人が使えば業務用乾燥機以上の性能を発揮する。
リディアの服から、白い湯気がモワモワと立ち昇る。
数秒後には、彼女の服も、髪も、靴の中敷きに至るまで、完全に乾いていた。
さらに、空気中の湿気すらも追い出し、乾燥機をかけた後のような快適な状態に仕上げる。
「ん……んぅ……」
リディアの震えが止まった。
彼女の表情が和らぎ、安らかな寝息へと変わる。
心地よさそうに身じろぎをするその顔は、無警戒すぎて、見ているこっちが心配になるほどだ。
「……まったく。危機感のない女だ」
アビスは、近くにあった壊れかけた椅子に腰を下ろした。
残り時間、あと二分。
火は点けた。服も乾かした。
あとは、こいつが風邪を引かないように、もう一押ししておくか。
アビスは、「亜空間ポケット」から、上質な毛布を取り出した。
これは、彼が野宿用(自分用)にこっそり持ち出した私物だ。
肌触りの良いビロード製で、王侯貴族が使うような高級品である。
「……貸してやるだけだぞ。涎を垂らしたら殺す」
アビスは、文句を言いながら、そっとリディアの上に毛布をかけてやった。
隙間がないように、肩までしっかりと。
ついでに、硬い床で首が痛くならないよう、自分の予備のコートを丸めて枕代わりにして差し込んだ。
至れり尽くせりである。
これでは悪の魔人ではなく、ただの過保護な執事だ。
「……何やってんだ、俺様は」
アビスは、我に返って頭を掻いた。
魔人としての威厳はどうした。
こんなところを他人に見られたら、一生の恥だ。
だが、安らかに眠るリディアの顔を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
パチパチ、と薪が爆ぜる音だけが響く。
外の嵐の音は、結界魔法(こっそり張った)のおかげで、遠いBGMのようにしか聞こえない。
「……お前のご先祖様(初代勇者)も、こんな風に無防備な顔で寝ていたことがあったな」
アビスは、遠い過去を懐かしむように目を細めた。
かつての宿敵。
自分を封印した憎き相手。
だが、その勇者もまた、戦いの合間には、ただの人間としての顔を見せることがあった。
この少女は、本当によく似ている。
あの馬鹿正直で、お人好しで、どこまでも眩しい「光」に。
「……早く強くなれよ、リディア」
アビスは、小声で呟いた。
「俺様を倒せるくらいにならなきゃ、俺様の呪いは解けねえし……世界も守れねえぞ」
それは、激励なのか、それとも魔人としての挑発なのか。
彼自身にも分からなかった。
パリンッ。
時間切れの音が響く。
三分間は、あまりにも短い。
「……さて、店仕舞いだ」
アビスは立ち上がり、枕にしていたコートを引き抜こうとして……やめた。
無理に抜けば、彼女が起きてしまうかもしれない。
それに、もう解呪の効果が解ける。
コートも一緒に消える(亜空間に戻る)わけではないが、まあ、今夜くらいは貸しておいてやってもいいだろう。
―――プンッ。
視界が反転し、世界が巨大になる。
黒い毛玉(犬)に戻ったアビスは、ブルブルと体を振った。
そして、毛布にくるまったリディアの顔のすぐ横、一番暖かい特等席に潜り込んだ。
リディアの体温と、暖炉の熱。
心地よい温もりが、犬の体を包み込む。
(……フン。これなら、俺様も風邪を引かずに済みそうだ)
アビスは、自分にそう言い訳をして、目を閉じた。
リディアの手が、無意識に伸びてきて、アビスの体を抱きしめた。
その温かさに、アビスは抵抗することなく、深い眠りへと落ちていった。
◇
翌朝。
嵐は嘘のように去り、小鳥のさえずりが朝を告げていた。
廃屋の隙間から、眩しい朝日が差し込んでいる。
「ん……んん……」
リディアは、ゆっくりと目を開けた。
寒くない。
それどころか、ポカポカと暖かい。
彼女は体を起こし、自分の状況を確認して驚いた。
「あれ……? 私、乾いてる?」
ずぶ濡れだったはずの服はパリッと乾き、体には上質な毛布がかけられている。
枕元には、黒いコートが畳んで置かれていた(朝起きたアビスが畳んでおいたのだ)。 そして、暖炉には、燃え尽きた薪の灰が、まだ微かに熱を帯びて残っている。
「どうして……? 昨日は火がつかなかったのに……」
リディアは不思議そうに首を傾げた。
そして、足元で丸くなって寝ているアビスを見た。
アビスは、まだ夢の中だ。
「アビスさん……?」
リディアは、状況を整理しようと頭をフル回転させた。
自分が寝てしまった後、誰かがここに来た?
火を熾し、服を乾かし、毛布をかけてくれた?
でも、こんな嵐の中、こんな廃屋に?
それに、この黒いコートは……どこか見覚えがあるような……?
数秒の沈黙の後。
リディアの中で、一つの「真実」が導き出された。
「……はっ! わかりました!」
リディアは、パッと顔を輝かせた。
「ここは、やっぱり幽霊屋敷だったんですね!」
(……そっちかよ)
狸寝入りをしていたアビスは、心の中で盛大にズッコケた。
「きっと、この家に住んでいた住人の霊が、雨宿りに来た私たちを不憫に思って、助けてくれたんです! なんて親切な幽霊さんなんでしょう!」
リディアは、天井に向かって手を合わせた。
「幽霊さん、ありがとうございます! おかげで風邪も引かずに済みました! このコートと毛布もお返ししますね!」
彼女は、アビスの私物であるコートと毛布を丁寧に畳み、部屋の隅(元々何もなかった場所)に「お供え」のように置いた。
(……おい、それ俺様のなんだけど。置き去りにするな)
アビスは慌てて起きたフリをして、「ワン!(それ持ってくぞ!)」と吠え、コートを咥えて引っ張った。
「あれ? アビスさん、そのコートが気に入ったんですか? ……ダメですよ、幽霊さんの遺品ですから。バチが当たります」
リディアが諌めるが、アビスは離さない。
これは俺様の愛用品だ。置いていってたまるか。
アビスは必死に抵抗し、最終的にリディアが「しょうがないですね、幽霊さんも『犬にあげよう』って言ってるかもしれませんし」と折れて、回収することに成功した。
「さあ、幽霊さんに挨拶して、出発しましょう!」
リディアは、スッキリとした顔で立ち上がり、廃屋の入り口で深々と一礼した。
「お世話になりました! 成仏してくださいねー!」
アビスは、やれやれと首を振った。
まあ、「三分解呪」がバレるよりはマシだ。
親切な幽霊(?)の加護を受けた一人と一匹は、爽やかな朝の光の中、再び旅路へと戻っていった。




