第三話 峡谷のワイバーン
旅立ちから二日目。
リディアとアビスの二人は、国境付近に広がる険しい山岳地帯、「牙鳴りの峡谷」へと差し掛かっていた。
そこは、大地が巨大な爪で引き裂かれたかのような、深く、鋭い断崖絶壁が続く難所である。
吹き荒れる風はヒューヒューと悲鳴のような音を立て、足元を見れば目が眩むような谷底が口を開けている。
普通なら、熟練の登山家でも装備を整えて挑むような場所だ。
だが。
「ふんふんふ~ん♪ 天気が良くてハイキング日和ですね!」
リディア・クレセントは、鼻歌交じりに断崖の縁を歩いていた。
その足取りは、まるで近所の公園を散歩しているかのように軽い。
彼女の額には、昨夜アビスが描いた「肉」の文字はもうない。
今朝、顔を洗う際に泣く泣く洗い流したからだ(「妖精さんの祝福が消えちゃう!」と本気で悲しんでいた)。
リュックサックの中から顔を出しているアビス(犬)は、眼下に広がる数百メートルの落差を見下ろし、顔を引きつらせていた。
(……おい、脳筋。もう少し内側を歩け。足を踏み外したら、俺様ごとミンチだぞ)
アビスは念話で警告を送った。
魔人である彼なら、落下しても魔法でどうにかできるが、今の彼は「か弱いペット」を演じている最中だ。
もし落ちたら、リディアの前で「解呪」して飛行魔法を使う羽目になり、「三分解呪」の秘密ががバレてしまう。
「大丈夫ですよ、アビスさん! 私、バランス感覚には自信がありますから! ほら!」
リディアはあろうことか、断崖の縁で片足立ちをしてポーズを決めた。
崩れかけた岩が、パラパラと谷底へ落ちていく。
(……やめろ。寿命が縮む)
アビスが本気で心配し始めた、その時だった。
キィィィィィィィィィィィッ!
突如、上空から金属を擦り合わせたような甲高い鳴き声が響き渡った。
同時に、巨大な影が二人を覆い隠す。
突風が巻き起こり、リディアの赤いポニーテールが激しく舞った。
「おっと! ……風が強くなってきましたね?」
リディアが空を見上げる。
そこには、太陽を背にして旋回する、巨大な翼竜の姿があった。
緑褐色の鱗に覆われた強靭な肉体。
鎌のように鋭い爪と、毒々しい紫色の棘が生えた尻尾。
そして、獲物を品定めするような獰猛な爬虫類の瞳。
「双翼飛竜」。
山岳地帯の生態系の頂点に君臨する、空の狩人だ。
普通の冒険者なら、遭遇した時点で「死」を覚悟するレベルの魔獣である。
(……チッ。面倒なのが出てきやがったな)
アビスは舌打ちをした。
以前の彼にとっては羽虫程度の存在だが、今の彼は「犬」だ。
手出しができない。
リディアにとっても、相性の悪い相手だ。
彼女は近接戦闘特化型(脳筋)であり、空を飛ぶ敵に対する攻撃手段が乏しい。
「わあ! 大きな鳥さんですね!」
リディアが、またしてもトンチンカンな感想を漏らした。
彼女はリュックを下ろし、アビスを岩陰の安全な場所に避難させた。
「待っていてくださいね、アビスさん。鳥さんが遊んで欲しそうにしているので、ちょっと相手をしてきます!」
(……遊ぶんじゃねえ、狩られるんだよ。食うか食われるかだ)
アビスのツッコミをよそに、リディアは背中の「黒い聖剣」を引き抜いた。
ズシリとした重量感のある漆黒の大剣。
それを片手で軽々と構える姿は、さすがに様になっている。
キィィィッ!
ワイバーンが急降下を開始した。
狙いはリディアだ。
音速に近いスピードで突っ込み、すれ違いざまに鋼鉄をも切り裂く鉤爪を振るう。
「とうっ!」
リディアは、人間離れした反応速度でバックステップを踏み、爪の一撃を回避した。
ガガガッ!
彼女が立っていた場所の岩盤が、豆腐のように抉り取られる。
「速いですね! でも、当たりません!」
リディアは聖剣を振るうが、剣先は空を切るだけだ。
ワイバーンは一撃離脱を徹底しており、攻撃した瞬間に再び上昇し、リディアの間合いの外へと逃げていく。
近接ファイター殺しの戦法だ。
(……賢いな、あのトカゲ。野生の勘ってやつか)
アビスは岩陰から戦況を分析した。
リディアの剣技は凄まじいが、届かなければ意味がない。
ワイバーンは上空を旋回し、安全圏からリディアをなぶり殺しにするつもりだ。
ゴオォォォッ!
今度は、ワイバーンが口から火球を吐き出した。
峡谷の狭い足場が炎に包まれる。
「熱っ! 火遊びは危ないですよ!」
リディアは聖剣を盾にして炎を防ぐが、防戦一方だ。
彼女は、足元の手頃な岩を拾い上げ、投石で反撃を試みる。
「えいっ!」
ヒュンッ!
リディアの怪力によって放たれた岩は、砲弾のような速度で飛んでいく。
だが、ワイバーンは翼をひらりと翻し、軽々とそれを回避した。
空を飛ぶ相手に、直線の投擲は当たりにくい。
「むぅ……。ちょこまかと……! 降りてきてください! 正々堂々と勝負です!」
リディアが地団駄を踏む。
状況は膠着していた。
リディアに決定打はなく、ワイバーンもリディアの防御(聖剣)を崩せない。
このままでは、リディアの体力が尽きるか、足場が崩れて終わる。
(……埒が明かねえな)
アビスは欠伸を噛み殺した。
このまま見ていてもいいが、リディアが負ければ自分も困る。
かといって、「三分解呪」して助けるほどのピンチでもない。
リディアの体力は無尽蔵だし、聖剣の防御力も鉄壁だ。
ただ「攻撃が当たらない」だけなのだ。
(……少しだけ、手伝ってやるか)
アビスは、リディアに気づかれないように、魔力を練り上げた。
派手な魔法は使えない。
リディアに見つかるからだ。
使うなら、地味で、物理現象に見えるような魔法だ。
アビスの視線が、峡谷の上部、ワイバーンが旋回している真上の崖に向けられた。
そこには、風化して今にも崩れそうな巨大な岩塊が突き出ている。
(……「破」)
アビスの瞳が、一瞬だけ怪しく光った。
アビスが放ったのは、犬の姿でも使えるごく初歩の破壊魔法だった。
だがそれが岩塊の根元を砕く。
バキッ。
遥か頭上で、岩を支えていた岩盤が砕けた。
ワイバーンは、リディアに気を取られており、頭上の異変に気づいていない。
今まさに、次の急降下攻撃を仕掛けようと、翼を広げた瞬間だった。
ズドオォォォォォッ!
巨大な岩が、落下した。
それは正確無比に、ワイバーンの左翼を直撃した。
ギャアアアアアアッ!
悲鳴が峡谷に響く。
翼の骨が砕け、飛行バランスを失ったワイバーンは、きりもみ回転しながら墜落していく。
「えっ!?」
リディアが目を丸くした。
彼女の目には、何が起きたのか分からなかったはずだ。
突然、空から岩が降ってきて、敵に命中したのだから。
だが。
ここで、リディアの「天然ポジティブ思考回路」が火を噴いた。
彼女は、ちょうどその時、「降りてこーい!」と叫んで気合を入れた直後だったのだ。
「……はっ! まさか!」
リディアは、自分の掌を見つめ、震え出した。
「今の……私の『気合』が、具現化したのですか!?」
(……ちげーよ)
岩陰のアビスは、即座に心の中でツッコミを入れた。
タイミングが良すぎた。
リディアは、自分の叫び声が衝撃波(あるいは覇気)となって、ワイバーンを撃ち落としたのだと勘違いしたらしい。
「すごいです……! お父様が言っていた、『勇者は叫ぶだけで敵を倒す』というのは、本当だったんですね!」
(……あの親父、娘になんて教育してやがる)
リディアは、「よし!」と拳を握りしめると、墜落してのたうち回っているワイバーンへと駆け寄った。
ワイバーンは翼を折られ、地面でもがいている。
もはや空の王者としての威厳はない。
「観念してください、鳥さん! 私の『気合砲』を受けたからには、もう立てないでしょう!」
リディアは黒い聖剣を振り上げた。
ワイバーンが最後の抵抗として首を伸ばし、噛みつこうとする。
だが、地上戦において、リディア・クレセントに勝てる生物など、この大陸には数えるほどしかいない。
「はぁっ!」
一閃。
黒い軌跡が走り、ワイバーンの巨体が強烈な衝撃で吹き飛ばされた。
剣の腹で叩いたのだ。峰打ちである。
ワイバーンは白目を剥いて気絶し、ピクリとも動かなくなった。
「ふぅ……。手強い相手でした」
リディアは聖剣を鞘に納め、額の汗を拭う仕草をした。
そして、アビスの元へと戻ってくる。
その顔は、「褒めてください!」と言わんばかりに輝いていた。
「見ましたか、アビスさん! 私の新必殺技、『気合撃』です!」
(……ネーミングセンス皆無だな)
アビスは、呆れ果てつつも、とりあえず尻尾を振って「ワン(お疲れ)」と労ってやった。
ここで「俺様が岩を落としたんだ」と言っても、信じないだろうし、説明するのも面倒だ。
それに、結果的にリディアが勝利し、旅の障害が排除されたのだから、文句はない。
「やっぱり、外の世界は修行になりますね! たった二日で新技を会得できるなんて!」
リディアは上機嫌でアビスを抱き上げ、再びリュックに背負った。
そして、気絶したワイバーンを一瞥し、手を合わせた。
「鳥さん、良い修行相手になってくれてありがとうございました! 命までは取りませんから、反省して山に帰ってくださいね!」
そう言って、リディアは再び歩き出した。
アビスは、背中の上で小さくため息をついた。
(……まあ、いい。お前が強くなったと勘違いして自信を持つなら、それも戦力アップのうちだ)
アビスは、自身の「影のサポート」が完璧に機能したことに、密かな満足感を覚えていた。
魔人としての力を使わずとも、知恵とタイミングだけで戦局を操る。
これこそが、真の支配者の戦い方だ。
(……それにしても、こいつの『都合のいい頭』は、ある意味最強の武器かもしれねえな)
リディアの勘違い能力は、現実の不条理すらも「ポジティブな結果」へと捻じ曲げてしまう。
それは、魔術理論を超越した、一種の才能と言えるかもしれない。
二人は、峡谷を抜けた。
その先には、鬱蒼とした森と、不気味な黒雲が広がっていた。
天気予報(アビスの魔力感知)によれば、今夜は大荒れになるだろう。
(……次は嵐か。やれやれ、退屈しねえ旅だ)
アビスは、降り出したポツポツという雨粒を鼻先で感じながら、リュックの蓋を閉めるようにリディアに促した。




