第六話 峠の山賊
温泉街「湯の里・カゲロウ」を後にしたリディアとアビスの一行は、次なる目的地「魔導の塔」を目指し、国境を越えるための難所、「霧幻の峠」へと足を踏み入れていた。
そこは、名の通り一年中濃い霧に覆われた、陰鬱な山道である。
数メートル先も見通せない乳白色の世界。
湿った空気が肌にまとわりつき、立ち枯れた木々が、まるで亡者の手のように枝を伸ばしている。
「う~ん、真っ白ですねぇ。前が見えません」
リディア・クレセントは、地図を片手に首をかしげた。
だが、その声に不安の色はない。
温泉効果で肌はツヤツヤ、髪はサラサラ。
彼女の周囲だけ、マイナスイオンが漂っているかのような爽やかさだ。
(……おい、脳筋。警戒しろ。ここは『出る』ぞ)
リュックサックの特等席から顔を出したアビス(犬)は、低い唸り声を上げた。
彼が言う「出る」とは、幽霊のことではない。
もっと現実的で、厄介な存在のことだ。
この峠は、国境警備の目が届きにくい無法地帯。 となれば、そこに巣食うのは――。
ザッ、ザッ、ザッ。
霧の奥から、複数の足音が近づいてくる。
一つや二つではない。十人近い集団だ。
殺気立った気配が、霧を切り裂いて押し寄せる。
「あ、誰か来ましたよ! 道に詳しい人かもしれません!」
リディアはパッと顔を輝かせ、無警戒に足音の方へと歩み寄った。
(……待て、バカ。止まれ)
アビスの制止は、またしても間に合わなかった。
「ヒャッハァァァァー! 獲物だァァァァ!」
「女だ! 上玉だぜェェェ!」
「金目の物を置いてきなァ! さもなくば命はねェぞォ!」
霧の中から飛び出してきたのは、絵に描いたような「山賊」たちだった。
ボロボロの革鎧。
手入れのされていない錆びた剣や斧。
モヒカン、スキンヘッド、眼帯といった、悪役の記号をこれでもかと詰め込んだ男たちが、リディアを取り囲む。
その数、総勢十二名。
彼らは卑猥な笑みを浮かべ、舌なめずりをしながらジリジリと距離を詰めてくる。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出すか、恐怖で腰を抜かす場面だ。
だが。
「まあ! こんにちは、皆さん!」
リディアは、ぺこりと深々とお辞儀をした。
そのあまりに場違いな挨拶に、山賊たちの動きがピタリと止まる。
「あ、あの……? 嬢ちゃん、俺たちの言ってること、聞こえたか?」
リーダー格と思われる、顔に大きな傷がある男が、困惑気味に尋ねた。
「はい、よく聞こえました! 『金目の物を置いていけ』ですよね?」
リディアはニコニコと頷いた。
そして、ポンと手を打つ。
「なるほど! 皆さんは、この峠道の『保全活動』をされているボランティアの方々なんですね!」
((…………は?))
アビスと山賊たちの心が、奇跡的にシンクロした瞬間だった。
「この道、霧が深くて危ないですもんね。整備するにはお金がかかります。通行料……いえ、『寄付金』を募って、道の安全を守ってくださっているんですね! なんて感心な方々なんでしょう!」
リディアの脳内では、目の前の凶悪な男たちが、オレンジ色のビブスを着た募金活動のボランティアに変換されていた。
彼女の「善意の解釈」は、もはや現実改変レベルである。
「ち、違げェよ! 俺たちは山ぞ……」
「分かりました! 私も協力させてください!」
リディアは山賊の言葉を遮り、リュックサックをごそごそと漁り始めた。
そして、取り出したのは――温泉宿でもらった、名入りの手ぬぐいと、余った温泉饅頭(二個)だった。
「あいにく現金の持ち合わせが少なくて……。でも、このお饅頭なら糖分補給になりますよ! 疲れた時は甘いものに限ります!」
リディアは、まるで聖女のような微笑みで、饅頭を差し出した。
山賊たちの顔が、怒りで赤黒く染まっていく。
「……ふ、ふざけてんのかァァァ!」
「俺たちをナメてやがるのか! このアマ!」
「饅頭だと!? 金だ! 金を出せと言ってるんだ!」
リーダーが怒号を上げ、持っていた巨大な棍棒を振り上げた。
交渉決裂。
暴力の時間だ。
(……やれやれ。こうなるわな)
アビスはリュックの中でため息をついた。
人間の悪意というやつは、ピュアすぎる善意を前にすると、逆に増幅する性質があるらしい。
だが、アビスに焦りはない。
なぜなら、この程度の有象無象が束になったところで、この「脳筋勇者」にかすり傷一つ負わせることは不可能だからだ。
「えっ? いらないんですか? 美味しいのに……」
リディアが悲しげに饅頭を引っ込めた瞬間。
リーダーの棍棒が、彼女の脳天めがけて振り下ろされた。
ブォンッ!
風を切る重い音。
直撃すれば、岩でも砕ける一撃だ。
「危ないですよ!」
パシッ。
軽い音が響いた。
リディアは、左手一本で、その棍棒を受け止めていた。
しかも、手のひらではなく、親指と人差指で「つまむ」ようにして。
「な、なにィ!?」
リーダーが目を剥いた。
渾身の力で押し込もうとするが、棍棒は万力で固定されたかのように、ピクリとも動かない。
「工事道具を振り回したら危険です! 指差し確認しましたか? 『安全よし』って言わないとダメですよ!」
リディアは真顔で説教を始めた。
どうやら彼女は、まだ彼らを「道路工事の作業員」か何かだと思っているらしい。
襲いかかってきたのも、「安全確認のデモンストレーション」か何かだと解釈したようだ。
「こ、この化け物女がァ!」
周囲の山賊たちが、一斉に襲いかかってきた。
四方八方からの同時攻撃。
剣、斧、槍が、リディアの死角を狙って突き出される。
(……チッ。多勢に無勢か。鬱陶しい)
アビスの目が、冷酷に細められた。
リディアなら余裕で捌くだろうが、万が一にもリュック(俺様)に流れ弾が当たったら不愉快だ。
それに、こんな雑魚相手に時間を取られるのも癪だ。
(……少しだけ、間引いてやるか)
アビスは、リディアの髪に隠れて見えない位置で、微かに魔力を放出した。
狙うのは、リディアの背後から忍び寄る、短剣を持った小柄な男。
こいつは足運びを見るに、元暗殺者崩れだ。少しだけ厄介かもしれない。
(……「影縛り」)
アビスが短く念じると、地面に落ちた木の影が、生き物のように伸びた。
そして、男の足首に絡みつく。
「―――ッ!?」
男が前のめりに転倒した。
ちょうど、リディアへと突き出そうとしていた短剣が、勢い余って味方の山賊の盾に突き刺さる。
ガキンッ!
「ああっ!? 何しやがるテメェ!」
「ち、違う! 足が勝手に……!」
仲間割れが発生した隙に、リディアが動いた。
「もう! 皆さん、落ち着いてください! 喧嘩はダメです!」
リディアは、リーダーから奪い取った棍棒を放り捨て、背中の「黒い聖剣」を鞘ごと引き抜いた。
抜刀はしない。
相手は「作業員」だからだ。
「少し頭を冷やしてもらうために、私が『冷却の舞』を披露します!」
リディアは、旋風のように回転した。
聖剣(鞘付き)が、目にも止まらぬ速さで薙ぎ払われる。
ズバンッ! ドガッ! バキィッ!
「ぐべぇっ!」「あがっ!」「ひでぶっ!」
コミカルな断末魔と共に、山賊たちが次々と宙を舞う。
リディアの手加減(峰打ち)は、一般人にとっては馬車にはねられるレベルの衝撃だ。
鎧の上からでも骨に響く重い一撃が、彼らの意識を刈り取っていく。
「ふぅっ!」
リディアが動きを止めた時、立っていたのは彼女だけだった。
周囲には、白目を剥いてピクピクと痙攣する山賊たちの死体――いや、気絶体が転がっている。
(……所要時間、十秒か。相変わらずデタラメな身体能力だ)
アビスは感心半分、呆れ半分でその光景を眺めた。
魔法による補助など、ほとんど必要なかったかもしれない。
彼女自身が、歩く災害なのだから。
「あらら……。皆さん、お疲れだったんですね。すぐに寝てしまいました」
リディアは、倒れている山賊たちを見て、困ったように眉を下げた。
彼女の目には、彼らが「過酷な労働の末、力尽きて眠ってしまった」ように見えているらしい。
殴られて気絶した、という事実は完全に脳内消去されている。
「道づくりって、大変な仕事なんですね……。私、感動しました!」
リディアは涙ぐみながら、倒れているリーダーの男(気絶中)に近づき、彼らの懐(盗んだ金が入っている袋)に、先ほどの温泉饅頭をそっとねじ込んだ。
「これ食べて元気を出してくださいね。……さあ、アビスさん。彼らの安眠を妨げないように、静かに出発しましょう」
リディアは、抜き足差し足でその場を離れた。
現場に残されたのは、壊滅した山賊団と、謎の温泉饅頭の伝説だけだった。
◇
峠を越えると、霧が晴れ、眼下に広大な平原が見えてきた。
太陽の光が差し込み、リディアの赤い髪を照らす。
「ふぅ~! 良い運動になりましたね!」
リディアは清々しい顔で言った。
アビスは、背中のリュックで小さく首を振った。
(……運動になったのはお前だけだ。あいつらは全治一ヶ月の重傷だぞ)
だが、結果として、この峠の治安は劇的に改善されることになるだろう。
あの山賊たちは、目が覚めた後、「赤い髪の悪魔」の恐怖に震え上がり、二度と悪事を働こうとは思わないはずだ。
リディアの無自覚な暴力が、意図せずして「悪の更生」を促したのだ。
「それにしても、世の中には頑張っている人がたくさんいるんですね。私も負けていられません! もっと修行して、立派な勇者にならないと!」
リディアが拳を握りしめる。
その純粋すぎる向上心は、時に狂気と紙一重だ。
アビスは、この「飼い主」の将来が少しだけ心配になった。
世界を救う前に、世界を勘違いで壊しかねない。
(……ま、制御するのが俺様の役目ってことか)
アビスは、自分の役割を再認識し、少しだけ誇らしげに鼻を鳴らした。
魔人の参謀がいれば、この暴走馬車も正しい道の上を走れるはずだ。
たぶん。
「あ! 見てください、アビスさん! あれが……!」
リディアが指差した先。
遥か彼方、地平線の向こうに、天を突くようにそびえ立つ巨大な影があった。
雲を突き抜け、先端が霞んで見えないほどの巨塔。
「魔導の塔」。
古代文明の遺産の一つ。
そして、今回の旅の最初の目的地だ。
(……ようやく着いたか。懐かしい形をしてやがる)
アビスの目に、懐古と、そして鋭い探究心が宿った。
あそこには、俺様の記憶の欠片がある。
そして、この「呪い」を解く鍵も。
「大きいですねぇ……! まるで世界を支える柱みたいです!」
(ああ。あれは古代人が神に近づこうとして作った、愚かさの象徴だ)
塔からは、微かだが、異質な魔力の波動が漂ってきているのを、アビスは感じ取っていた。
五年前とは違う。
何かが、起動している?
眠っていた防衛システムか、それとも……何者かが侵入しているのか。
(……面白くなってきやがった)
アビスは舌なめずりをした。
ただの遺跡探索では終わらない予感がする。
山賊退治のような「遊び」はここまでだ。
ここからは、本物の「冒険」――命がけの解読作業と、古代兵器との戦いが待っている。
「行きましょう、アビスさん! 塔のてっぺんで、ヤッホーって叫ぶのが楽しみです!」
(……観光気分なのはお前だけだ)
リディアは丘を駆け下り始めた。
風が強く吹き始め、二人の行く手を阻むように草木を揺らす。
その時、アビスの鋭敏な聴覚が、風に乗って微かな音を捉えた。
キィィィィィィン……。
金属的な高周波音。
それは魔導の塔から発せられていた。
普通の人間には聞こえない音域だ。
だが、アビスには分かった。
それは、侵入者を拒む「警告音」であることを。
(……歓迎されてねえみたいだな)
アビスは、リュックの中で身構えた。
塔に眠るのは、友の遺産か、それとも悪夢か。
扉が開かれる時は近い。




